第41話 『紅蓮の剣』の完全崩壊
幾重もの防音結界と物理的な防護呪文に守られた、探索者協会八王子支部の最上階VIPラウンジ。
外界から届く緊急車両のけたたましいサイレンも、崩落したビル群から立ち昇る黒煙の焦げ臭さも、ここでは完全に遮断されている。ただ、極寒の雪山よりも重く、肌を刺すような冷たい静寂だけがその豪奢な空間を満たしていた。
ドクは、ゆっくりと扉へ向かって歩き出そうとしていた足を止め、振り返った。
その視線は、最高級のペルシャ絨毯の上に這いつくばるレオとマリアを通り越し、傍らに立つ瞳へと向けられている。長年の過酷な労働で使い込まれた巨大なバックパックを背負うその分厚い背中には、足元の二人に対する未練の残滓すら微塵も感じられなかった。
「さて。これで話は終わりでいいかな、瞳ちゃん」
田中ドクの、純度100パーセントの「感謝」。
それは、レオにとってどんな辛辣な罵倒よりも、どんな物理的な暴力よりも残酷な死刑宣告だった。
ドクの瞳には、かつて自分が踏みつけ、見下し、優越感を抱いていた対象へ向ける感情が一切存在しなかった。怒りも、憎しみも、復讐心すらない。道端に転がる石ころや、とうの昔に枯れた道端の雑草を見るような、澄み切った底知れない無関心。
自分たちが数年間、彼から奪い、痛めつけ、生殺与奪を握っていると錯覚して得ていた全能感は、ドクの人生において何の爪痕も残せていなかったのだ。彼が日常のささやかな平穏を手に入れるための、ただの足掛かりに過ぎなかった。
その圧倒的な事実が、レオの自尊心を根底から粉砕していく。
「……あ……俺、は……」
膝から崩れ落ちたレオは、涎を垂らさんばかりの虚脱状態で口をパクパクと動かした。焦点の合わない目は虚空を彷徨い、もはや自力で立ち上がる気力すら失われている。そこから意味のある言葉が紡がれることは二度となかった。
瞳は手元の特注タブレットから視線を上げ、冷ややかにレオとマリアを見下ろした。
「ええ。ドクさんの貴重な時間を、これ以上彼らに使う必要はありません」
彼女の隣で、アリサラが楽しそうにスマートフォンの画面を指で弾く。黒豹のようにしなやかな彼女の赤い唇には、獲物を追い詰めた肉食獣の笑みが浮かんでいた。
「おじさんの過去の未公開映像……『紅蓮の剣』のパワハラと、未踏エリアで囮にして逃亡した瞬間の証拠動画ね。今、D-Tubeの公式チャンネルと世界の主要メディアに一斉送信しといた。再生数、もうあっという間に5000万回を超えてるよ。コメント欄が完全に大荒れの濁流になってて、読むのも追いつかないけど。世界中がお前たちを非難してる」
アリサラの容赦ない言葉に、マリアがビクッと肩を震わせた。
「……は?」
焦点の合わない目で顔を上げたレオに対し、瞳は無機質な声で事実だけを淡々と並べる。タブレットの画面をスクロールする彼女の指先には、一抹の同情すらなかった。
「『紅蓮の剣』を支援していたスポンサー企業全22社から、先ほど協会を通じて即時の契約解除と損害賠償請求の通知が届きました。イベントの信用失墜、および配信機器への意図的な細工に対する違約金の総額は、概算で40億を超えます」
「よん、じゅう……」
「さらに、探索者協会本部からの正式決定です。未踏エリアでの意図的な仲間殺しの未遂、および今回のイベントにおける一般客を見捨てての逃亡行為。これらを重く見、Aランクパーティ『紅蓮の剣』の登録抹消、ならびにレオ・バニング、マリア・トレス両名の探索者免許の『永久剥奪』が決定しました」
それは、社会的な完全抹殺の宣告だった。
探索者としての資格を失えば、ダンジョンで金を稼ぐことは二度とできない。莫大な違約金を背負ったまま、彼らは一生、日の当たらない底辺で這いずり回るしかないのだ。
「ま、待って! 私は関係ないわ!」
絶望的な沈黙を破ったのはマリアだった。彼女は泥に汚れた純白の神官服の裾を握り締め、すがるような目でヴィットーリアを見た。
「レオが勝手にやったことよ! 私はただ、リーダーに逆らえなくて……! 私の治癒魔法は、まだ世界のために役立てるはず……!」
なりふり構わず自身を切り売りしようとするマリア。彼女の頭の片隅には、まだこの破滅から自分だけが無傷で抜け出せるという浅ましい利己心がこびりついている。
だが、ヴィットーリアは手元のティーカップをソーサーにコトリと置き、美しいヘーゼルアイで彼女をただ一瞥しただけだった。
「あなたの濁った魔力で癒やされる傷など、この世に一つもありません。ご自身の傲慢さを、一生かけて底辺で悔い改めなさい」
その静かで絶対的な拒絶。一切の弁解を許さない正論の前に、マリアは言い返す術を失った。整った顔から余裕が消え去り、恐怖と屈辱の涙がボロボロと溢れ落ちていく。ヴィットーリアから放たれるSランク特有の圧倒的な神聖力に当てられ、彼女はガタガタと震えながら、ただ自身の体を抱きしめることしかできなかった。
重厚なマホガニーの扉が開き、協会の監査部門の屈強な職員たちが数名、無言で足を踏み入れた。彼らは床にへたり込むレオとマリアの両脇を固め、乱暴に引き起こす。
「連行しろ」
その短い指示で、二人は引きずられるように扉へと向かわされる。
その時だった。
ラウンジの壁際で、ひっそりと稼働していた協会の清掃用ロボット掃除機。
「ウゥゥ……クゥン……」
フェンリル・パピーのコロは、その円盤型の未知の機械が立てる「ウィーン」という稼働音に完全にビビり上がり、ドクの足首の後ろに隠れてガタガタと震えていた。Aランク魔獣としての威厳など欠片もなく、ドクの作業用ズボンの裾を小さな歯で噛んで必死に身を隠している。
だが、監査官に引きずられ、扉を出る直前。
すべてを失い、完全に壊れたレオの濁った瞳が、最後の憎悪を込めてドクの背中を睨みつけた。物理的な力を持たない、ただの惨めな恨み言のような視線。
しかし、その極小の悪意の残りカスがドクへ向けられた瞬間。
「――グルルルゥゥゥォォォォォッ!!!」
コロがドクの足元から弾かれたように前に飛び出した。
先ほどまで掃除機に怯えていた姿は幻だったかのように、その小さな黒い身体から、空間を物理的に歪ませるほどの禍々しい闘気と、Aランク魔獣の濃密な死の気配が爆発的に膨れ上がった。
毛が逆立ち、牙が剥き出しになる。コロの放ったプレッシャーに、鍛え抜かれた監査官たちですら顔を青ざめさせ、たまらず一歩後ずさった。
(……幼体でありながら、あの覇気。間違いなくドクの傍で、規格外のエネルギーを浴び続けて進化した結果ね)
ルシアが赤い瞳を細め、コロの異様な成長ぶりに内心で舌を巻く。
直接その敵意を浴びたレオは、「ヒッ……!」と短い悲鳴を上げ、恐怖のあまり失禁した。監査官に引きずられながら、無様に床に水たまりを作る。
誰もが息を呑んだ、その極限の緊張感の中。
「こらコロ、ダメだぞ」
ドクの間の抜けた声が響いた。
ドクはしゃがみ込み、禍々しい闘気を放って唸るコロの頭を、タコだらけの太い手でポンポンと撫でた。
「あの丸い掃除機は、もう向こうの部屋に行ったから。お前を食べたりしないよ。ほら、怖かったな」
「…………」
コロはハッとして闘気を完全に霧散させ、ドクの顔を見上げた。
「クゥン? ワフッ!」
そして、何もなかったかのように短い尻尾をパタパタと振り、ドクの手のひらにピンク色の鼻を擦り付けた。
そのあまりにも的外れなドクの解釈と、一瞬でただの甘えん坊の子犬に戻ったコロの落差に、瞳は思わず天を仰ぎ、アリサラは腹を抱えて笑いを堪えた。
エレナは不思議そうに目を瞬かせ、クロエは「おいタナカ、今の絶対掃除機にビビってたんじゃねえだろ」と呆れ返っている。
気絶したレオと、震え続けるマリアが完全に引きずり出され、扉が静かに閉まる。
『紅蓮の剣』という、かつてドクを虐げた存在は、この世界から完全に消え去った。
「……やれやれ。これでようやく、空気が美味くなったね」
美沙がソファの背もたれに寄りかかりながら、大きく伸びをした。
「アタシの最高傑作のツナギも汚さずに済んで何よりだよ」
「タナカ。あのゴミどもが消えたお祝いに、なんか美味いもん食わせろ」
クロエがドクの分厚い背中をバンバンと叩く。
「えっ? さっき肉みそとサルサを食べたばっかりじゃ……」
「あんなのオヤツよ。私も、ドクの作ったものが食べたいわ」
ルシアが赤い髪を揺らしながら、妖艶に微笑む。
「私も、その……ドクの料理には興味があるわ。さっきのサルサも、魔法理論を根底から覆すほどの活力を与えてくれたし……」
エレナがキャスケットのつばを少し下げて、僅かに頬を染めながら視線を逸らした。
「魔法理論は関係ないと思うけど……」
ドクは少し困ったように眉を下げたが、すぐに屈託のない笑みを浮かべた。
「わかったよ。ちょうど今日、日雇いの給料日だし、俺がご馳走するよ。安い定食屋でよければだけど」
そのドクの言葉に、瞳は手元のタブレットの画面を見て深くため息をついた。
「ドクさん。今日の配信での世界中からの投げ銭、すでにドクさんの口座に振り込まれてるんですけど……あの、国家予算みたいな額になってるんで、定食屋どころか、このホテルごと買えますよ」
「えっ? 国家……? なにそれ怖いんだけど。俺、そんな大金受け取れないよ。明日から真面目に働けなくなっちゃう」
ドクが本気で青ざめるのを見て、ラウンジにいた世界最高峰の探索者たちは、堪えきれずに一斉に吹き出した。
外の崩壊した街はこれから復興の道を歩むだろう。世界中のギルドや企業は、田中ドクという規格外の存在を巡ってさらに激しく動くはずだ。
だが、当の彼が望むのは、相変わらず四畳半のアパートでのささやかな平穏と、目の前にいる仲間たちとの温かいご飯だけだった。
「まあ、お金の管理はマネージャーの私がしっかりやりますから。とりあえず、今日はドクさんの奢りで、最高に美味しいものを食べに行きましょう!」
瞳の明るい声が、VIPラウンジに心地よく響き渡った。




