第40話 ドクの言葉
外界の阿鼻叫喚から完全に隔離された、探索者協会八王子支部の最上階VIPラウンジ。
防音結界と物理的な防護呪文が幾重にも張られたその豪奢な空間には今、極寒の雪山のような重く冷たい静寂が満ちていた。
ヴィットーリア・ロッシが最後に放った、静かで、しかし絶対零度の冷徹さを伴う宣告。
それは、必死に自己正当化の言葉を並べ立てようとしていたマリアの喉を、物理的に凍り付かせるには十分すぎる威力を持っていた。最高級のペルシャ絨毯の上にへたり込んだ純白の聖女は、喘息の発作のようにヒュッと喉の奥を鳴らしたきり、一言も発することができなくなっている。美しかったはずの彼女の顔は土埃と脂汗に塗れ、絶望に歪んでいた。
壁際に寄りかかっていたクロエも、優雅に脚を組んでいたルシアも、そして影のように佇むアリサラたちも、もはや床に這いつくばる二人に対して言葉を投げかけることすらやめていた。
彼女たちの瞳にあるのは、怒りでも憎しみでもない。道端に転がる石ころか、あるいは羽音のうるさい羽虫に対するような『完全なる無関心』だ。世界最高峰のSランク探索者たちから一斉に放たれるその透明な圧力は、感情をぶつけられるよりも遥かに重く、二人の精神を削り取っていく。
「……ふざ、けるな」
その致死量にも等しい静寂を破ったのは、ひび割れたガラスが擦れ合うような男のうめき声だった。
うつむいていたレオが、操り人形のようにゆっくりと顔を上げる。その目は醜く血走り、ギリッと強く噛み締めた奥歯からは限界を超えた圧力で血が滲んでいた。
彼がこれまでの人生で必死に積み上げてきた、Aランクという栄光。世間からの称賛。他者を見下すことで必死に保ってきた脆い自尊心。それらが今、この部屋にいる全員から、何の価値もないゴミくずとして処理されようとしている。
自身のプライドが完全に粉砕されるという現実から逃避するため、レオの生存本能は最も安易で、最も見苦しい「他責」へと向かった。
「ふざけるな……俺はAランクだぞ! 選ばれた人間なんだ! 凡人どもを守ってやるために、この剣を振るってきたんだ! なのに……こんな、こんな底辺のゴミ一人のせいで、なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ!」
レオは震える指先を、ソファに深く腰掛けているドクへと向けた。
その先で、ドクはただ静かな、波一つ立たない湖面のような瞳で彼を見つめ返している。それがさらに、レオの劣等感と神経を逆撫でした。
「お前だ! お前が悪いんだろ! あの未踏エリアで、お前が素直に俺の盾になって死んでいれば! 変なトラップなんか作動させずに、黙ってモンスターに食われていれば、こんなことにはならなかったんだ! 俺の人生を狂わせたのは、お前なんだよ!!」
完全に理性を失い、自身の醜悪さを自ら世界に向けて暴露していることすら忘れた、哀れな絶望の叫び。
彼が放つどろどろとした悪意と責任転嫁の言葉が、ラウンジの空気をさらに重く、澱んだものへと変えていく。
ルシアが不快感に赤い眉をひそめ、クロエが「その口、二度と開けないように縫い付けてやろうか」と低く唸りながら拳を握り込もうとした、その張り詰めた極限の緊張を。
「……むにゃ、クゥゥ……フンス」
ひどく間の抜けた、平和すぎる寝言が、物理的に掻き消した。
全員の視線が、殺意の矛先から一転して音源へと吸い寄せられる。
最高級のイタリア製黒革ソファの隅。ドクのごつい太ももにピタリと寄り添うようにして、黒い毛玉が丸まっていた。フェンリル・パピーのコロだ。
少し前まで「マテ」をさせられ、特上の魔魚の炙りを目の前にして限界まで小刻みに震えていたコロだったが、ドクから許しを得て思う存分平らげた結果、今やすっかり満腹の睡魔に敗北していた。
コロはドクの太ももを完全に自分の枕代わりにして丸まり、ドクが履いている作業用ズボンの裾を小さな口でモフモフと甘噛みしている。夢の中でまだ美味い魚を追いかけているのか、時折チュパチュパと音を立てては、「グルル……ワフッ」と小さく吠えた。
寝返りを打つたびに、短い尻尾がパタパタとドクの膝を叩き、そのまま安心しきったように、さらに深くドクの脚へ身体を擦り寄せていく。
あまりにも無防備で、あどけない光景。
レオが撒き散らしていた醜悪な悪意も、ラウンジに充満していたヒリつくようなSランクたちの殺気も、この小さな毛玉の呑気な寝息一つで、完全に毒気を抜かれてしまった。
「おっと。……よく食って、よく寝るやつだ。こんな状況でも全く動じないなんて、完全に俺の脚を自分のベッドだと思ってるな」
ドクはズボンの裾を噛まれながらも、愛おしそうに目尻を下げた。長年の過酷な肉体労働でタコだらけになった分厚い手のひらが、丸まったコロの背中をポンポンと一定のリズムで優しく叩く。
ひとしきりコロの寝顔を愛でた後、ドクはゆっくりと顔を上げ、自身の鼻先を指差して唾を飛ばしながら喚いていたレオ、そして青ざめて震えるマリアに向き直った。
ドクの顔から温和な笑みがスッと消え、深い湖面のような、一切の感情を排した静かな瞳が二人を真っ直ぐに捉える。
ヒッ、とレオが短く息を呑み、本能的に後ずさった。
怒りに任せて殴られれば、自分の頭など熟れたトマトのように弾け飛ぶ。深層のボス集団すら空間ごと消滅させた規格外のバケモノが、ついに自分に牙を剥く。レオの全身の筋肉が死の恐怖で硬直し、大量の冷や汗が顎を伝って絨毯にボタボタと落ちた。
しかし、ドクは立ち上がることも、拳を握ることもなく、ただ静かな声で口を開いた。
「レオさん。マリアさん」
その響きには、怒りも、恨みも、見下すような嘲笑も、一切含まれていなかった。ただの、事実を述べるためのフラットなトーン。
「今まで、本当にありがとうございました」
「……は?」
レオの口から、間抜けな空気が漏れた。マリアもまた、理解不能な言葉を浴びたように呆然とドクを見つめている。
彼らが予想していたのは、怒声か、あるいは絶対的な強者からの断罪だったはずだ。
ドクは、過去の記憶を懐かしむように小さく息を吐いた。
「俺は、特別な才能もない、ただのFランクの荷物持ちとして10年以上やってきました。数年前に君たちのパーティに入れてもらってからも、俺の居場所はいつも一番後ろでした。理不尽に殴られたり、モンスターの囮にされたり、雨の日の野営ではテントにも入れてもらえなかったり……正直、きついこともたくさんありました」
ドクの言葉に、周囲に立つヒロインたちの顔が険しくなる。彼女たちは、ドクの身体に刻まれた無数の傷跡の意味を、そして彼がどれほどの痛みを無自覚に飲み込んできたかを知っているからだ。エレナは悲しげに目を伏せ、美沙は奥歯をギリッと噛み締めた。
「でも」
ドクは続けた。
「あの未踏エリアで、君たちが俺を置いていってくれたおかげで……俺は、たまたま生き残るための、不思議な火事場の馬鹿力に気づくことができたんです」
ドクは、自身の分厚い手のひらを見つめた。数え切れないほどのポーションの破片で切れ、魔物の牙に裂かれ、それでも治癒して硬く分厚くなった、底辺の証。
「俺を囮にしてくれたあの事件があったから、俺は一人で生き残るために、必死で溜まったものを吐き出すことができた。あの日があったから、俺は瞳ちゃんと出会い、マネージャーになってもらえた。美沙さんに丈夫な服を作ってもらって、ルシアさんやエレナさん、クロエさん、アリサラさん、ヴィットーリアさん……信じられないくらい凄い人たちと、こうして同じテーブルで、温かいご飯を食べられるようになった」
ドクは顔を上げ、レオの目を真っ直ぐに見据えた。
「君たちが俺を切り捨ててくれたから、俺の今の生活がある。だから、恨みなんてないんです。君たちのおかげで、俺の人生は少しだけマシになった。……本当に、ありがとうございました」
ドクは、ソファに座ったまま、深く、丁寧に頭を下げた。
再び、沈黙がラウンジを支配した。
ドクは静かに頭を下げたまま、一切の敵意も、そして執着すらも帯びていない真っ直ぐな瞳で二人を見つめている。
「あ……ああ……」
レオの喉から、ひゅっと掠れた空気が漏れ出た。
彼の顔が、見る見るうちに土気色に変わっていく。ガチガチと奥歯が鳴り、震える両膝が己の体重を支えきれなくなる。
自分たちが数年間、彼から奪い、踏みにじり、見下すことで得ていた優越感。自分たちは選ばれた特別な存在であり、この底辺の男の生殺与奪を握っているという全能感。
それらはすべて、田中ドクという男の人生において「今の幸せな日常を手に入れるための、単なるきっかけ」程度にしか認識されていなかった。
ドクの瞳に映っているのは、とうの昔に通り過ぎた風景の一部に向けるような、澄み切った無関心だけだった。
自分が彼の人生に何の爪痕も残せていなかったという圧倒的な事実が、レオの脳髄を真っ白に塗り潰していく。膝の力が完全に抜け、彼は操り糸を切られた人形のように、ドスンと最高級のペルシャ絨毯の上に崩れ落ちた。口は半開きになり、焦点の合わない目で虚空を見つめ続けることしかできない。
マリアも同じだった。
彼女は虚ろな目で宙を見つめたまま、ガタガタと震える両腕で自身の身体を抱きしめている。かつてはドクに命令し、彼が泥水に平伏するのを見て自身の価値を再確認していた。しかし、自分に向けられていた好意や忠誠心など、はじめから一切存在しなかったのだと思い知らされた。
マリアの整った顔からすべての表情が抜け落ち、ボロボロと音を立てて涙だけが溢れ落ちていく。嗚咽すら漏れず、ただ壊れた玩具のように涙を流し続けるだけの空虚な肉塊と化していた。
ドクはゆっくりと立ち上がると、脚で丸まっていたコロを起こさないように、分厚い両手でそっと抱き上げた。腕の中で「ふにゃん」と声を漏らしたコロの背中を優しくトントンと叩きながら、ドクは周囲のヒロインたちに振り返った。
「瞳ちゃん。そろそろ、外の様子を見に行こうか。怪我人が出てるかもしれないし、ポーションの予備、まだバックパックに残ってるから」
ドクの言葉に、ハッとしていた瞳が、小さく、しかし確かな笑みを浮かべた。
彼女はタブレットを胸に抱き直し、力強く頷く。
「はい、ドクさん! マネージャーとして、しっかり道案内しますから!」
「アタシも行くよ。瓦礫の撤去くらいなら、拳一つで手伝えるからね」
クロエが肩を回して立ち上がる。
「私も行くわ。私の魔力は、誰かを守るために使うって決めているもの」
エレナが静かに告げ、ルシアも無言で背を向けた。
マホガニーの重厚な扉が開かれると、焦げ臭い空気と遠くのサイレンの音が微かに流れ込んできた。ドクは振り返ることもなく、その光の中へと歩み去っていく。
Sランクの探索者たちが、次々と彼の背中を追って扉を抜けていく。
誰も、床に崩れ落ちたレオとマリアに視線を向ける者はいなかった。
完全に無視されたまま、外界の喧騒から隔離された豪華なラウンジに取り残された二人は、ただ抜け殻のように、虚無の空間を見つめ続けることしかできなかった。




