第39話 糾弾の嵐
外界の阿鼻叫喚から完全に隔離された、探索者協会八王子支部の最上階VIPラウンジ。
防音結界と物理的な防護呪文が幾重にも張られた重厚なマホガニーの扉の奥は、嘘のように静かで、平和な時間が流れていた。窓の外では未だに黒煙が上がり、遠くで緊急車両のサイレンが鳴り響いているはずだが、この部屋の中には一切のノイズが届かない。極上の静謐だけが、そこには用意されていた。
最高級のイタリア製黒革ソファが置かれたテーブルの上には、協会が気を利かせて手配した特上寿司の桶が並んでいる。大トロ、ウニ、イクラ、そして深層でしか獲れない希少な魔魚の炙り。宝石のように輝く寿司たちを前にして、黒い毛玉が一つ、プルプルと激しく小刻みに震えていた。
フェンリル・パピーのコロだ。
コロはドクの足元からソファの上へとよじ登り、前足を揃えて行儀よくお座りをしている。しかし、その視線は目の前にある『魔魚の炙り』に完全に釘付けだった。
鼻腔をくすぐる香ばしい脂の匂いに、小さなピンク色の舌が何度もチロチロと覗く。
Aランク魔獣としての本能が「今すぐ食い殺せ」と叫んでいるはずだが、コロはドクから「マテ」を命じられ、その言葉を絶対に破ろうとはしなかった。ただ、我慢の限界が近いのか、短い尻尾が空気を叩くように超高速でパタパタと揺れ、喉の奥から「キュ~ゥン……」という情けない声が漏れ出ている。時折、チラリとドクの顔を見上げては、懇願するような視線を送ってくるのがたまらなく愛らしい。
「よし」
ドクが短く許可を出した瞬間。
目にも留まらぬ俊敏さでコロの首が動き、炙り寿司を一口で丸呑みにした。
「あ、こらコロ。ネタだけ食べるな。シャリも一緒に食べなきゃバランスが悪いだろ」
ドクが苦笑いしながら、残された酢飯を箸でつまんで差し出すと、コロは「仕方ないな」という顔でパクリとそれを受け取り、満足そうにドクの太い指をペロペロと舐めた。
「おじさん、本当にマイペースだね。世界中が今、おじさんの話題で持ちきりになってるのに」
アリサラがソファの背もたれから身を乗り出し、呆れたようにドクの頭を突いた。
彼女の視線の先では、瞳がタブレット端末を操作しながら目まぐるしく変わるデータ群と格闘している。
瞳とアリサラが連携して裏から放った『紅蓮の剣』の未公開映像――未踏エリアでドクにドローンを押し付け、彼を囮にして見捨てた決定的な証拠動画。
それは瞬く間に全世界へと拡散され、D-Tubeのサーバーを一時的にダウンさせるほどの凄まじいトラフィックを生み出していた。SNSのトレンドは完全に彼らの非道を糾弾する言葉で埋め尽くされている。各国のギルド本部からも八王子支部に問い合わせが殺到し、表の受付は対応に追われてパニック状態に陥っているはずだった。
だが、当のドク本人は「過ぎたことだ」と言わんばかりに、コロの世話と、美味い寿司を味わうこと以外に興味を示していなかった。温かいお茶をすするその顔は、ただの休日の父親のようだった。
そんな和やかな空気を、乱暴な音が切り裂いた。
バンッ! とマホガニーの扉が力任せに開かれ、ギルドの屈強な警備職員たちに両脇を抱えられた二人の探索者が、ラウンジの中へと投げ出されるように押し込まれた。
「離せッ! 俺はAランクだぞ! こんな扱いが許されると思ってんのか!!」
毛足の長いペルシャ絨毯の上に無様に転がったのは、かつてドクをゴミのように見下していた男、レオだった。
その後ろには、土埃と煤で薄汚れ、純白とは程遠くなった神官服を身に纏うマリアが、青ざめた顔でへたり込んでいる。
深層ボスの出現に際し、借金して買った大剣すら放り捨て、自分たちを信じて背後に隠れていた一般客や下級探索者を盾にし、子供や老人を蹴り飛ばして我先に逃げ惑った姿。それらすべてが、公式の空撮ドローンによって全世界へ生配信されていた。
逃亡の末に協会の職員に取り押さえられた彼らは、安全確認と「隔離」のためにこのVIPラウンジへと連行されてきたのだ。職員たちの目は、かつてのトップエクスプローラーに対する尊敬など微塵もなく、ただの汚物を見るような冷たさを帯びていた。
レオは充血した目で室内を睨みつけ、そして、ソファでくつろぐドクの姿を捉えた瞬間、その顔を醜悪な憎悪で歪ませた。
「お前か……! お前が仕組んだんだな、ドクッ!!」
レオは立ち上がり、狂ったように唾を飛ばして叫んだ。
「あの未踏エリアの動画! あんな精巧なフェイクをどこで作った!? 俺たちが逃げたわけじゃねえ、お前が勝手に足手まといになったから置いていってやっただけだ! なのに、俺たちを陥れるためにあんな……ッ!」
現実を直視できず、すべてをドクの陰謀だと喚き散らすレオ。
その姿は、かつてAランクパーティのリーダーとして自信に満ち溢れていた面影など微塵もなく、ただの惨めな敗北者でしかなかった。肩で息をする彼の両手は、自身でも止められないほどに小刻みに震えている。
ドクは箸を置き、静かにレオを見つめた。
怒りも、憎しみもない。ただ、道端の石ころを見るような、完全な無関心。
その視線がレオの矮小なプライドをさらに逆撫でし、彼が丸腰のまま殴りかかろうと一歩踏み出した、その時だった。
「――その薄汚い足を、それ以上動かさないことね」
空気が、凍りついた。
いや、物理的に室内の気温が数度下がった。
ルシア・カルヴァーリョが、静かに立ち上がっていた。
彼女から無意識に漏れ出すSランク魔法剣士の圧倒的な覇気が、ラウンジの空間を軋ませる。レオは呼吸の仕方を忘れたように硬直し、振り上げた腕がピタリと止まった。
「フェイク動画? 笑わせないで。あなたのその足の震え、浅い呼吸、そして怯えきった魔力の波長。すべてが、あなたが本物の死線から逃げ出しただけの『臆病者』だと証明しているわ」
ルシアは冷徹な一瞥で、レオの存在そのものを切り捨てた。
「剣士を名乗るなら、己の力不足を認めることね。他者を盾にし、仲間を見捨て、あまつさえその責任を他人に押し付ける。あなたのその姿には、何の重みも矜持もない。……私の視界に入らないで。吐き気がするわ」
「な、なんだと……ッ! 俺は『紅蓮の剣』の……!」
レオが必死に虚勢を張り、声帯を震わせた瞬間。
今度は、彼のすぐ横の空間が爆発したような錯覚に陥った。
「オイ」
クロエ・ヴァンデレール。
ヨーロッパ最強のインファイターが、レオの耳元で低く唸った。
彼女がいつ移動したのか、レオには全く見えなかった。ただ、振り返った先にあったのは、純粋な暴力のオーラを纏った猛獣の瞳だった。
「次にその腐った口から『Aランク』だの『俺は強い』だのっていう寝言が聞こえたら、お前の顎の骨を粉々にして、ダンジョンの入り口の肥溜めに放り込むぞ」
クロエのしなやかな筋肉が微かに収縮し、それだけで空気がミシッと鳴る。
彼女の拳一つで、巨大なタウロスが肉片に変わる。その事実を知っているレオは、本能的な死の予感に支配され、喉の奥で「ヒッ」と短い悲鳴を上げて後ずさって尻餅をついた。
「タナカは優しすぎるから、お前みたいなゴミでも見逃してやるかもしれねえ。だが、アタシは違う。アタシがムカついたから、アタシがお前をぶっ壊す。……文句あるか?」
「あ……あぁ……」
レオの股ぐらから、ツー、と無様な染みが広がっていく。絶対的な実力差と死の恐怖を前に、完全に失禁したのだ。
その惨状を見下ろしながら、マリアはガタガタと震えていた。
自分は関係ない。レオが勝手にやったことだ。そう言わんばかりに身を縮めていた彼女の前に、一人の女性が静かに歩み寄った。
「マリア・トレスさん、でしたね」
慈愛に満ちた、絹のようになめらかな声。
世界最高峰の聖女、ヴィットーリア・ロッシだった。
彼女の身に纏う法衣は、先ほどの戦場の混沌を抜けてきたというのに、一点のシミもなく純白の輝きを保っている。土埃と泥にまみれたマリアの姿とは、あまりにも残酷な対比だった。
「わ、私は……私は悪くないわ! レオが、こいつがあの荷物持ちを囮にするって決めたのよ! 私はただ、それに従っただけで……!」
自身を正当化するため、なりふり構わず本性を晒してすがるように顔を上げたマリア。
ヴィットーリアは微笑んでいた。
だが、そのヘーゼルアイの奥には、絶対零度の冷酷さが宿っていた。
「神官服を身に纏い、神の御名を口にすれば、誰でも聖女になれるとでもお思いですか?」
ヴィットーリアの声は静かだが、ラウンジの隅々にまで響き渡った。
「私は見ていましたよ。逃げ惑う人々の中で、あなたが展開したシールドの軌道を。あれは一度でも、誰か弱い者を守るために使われましたか? ……いいえ。あなたの魔力はすべて、自身の熱を防ぎ、自身を瓦礫から守るためだけに消費されていた」
「そ、それは……! 自分が生き残らなければ、誰も回復できないから……!」
「詭弁ですね」
ヴィットーリアの言葉が、マリアの言い訳を刃のように切り裂く。
「先ほどの彼の身体に刻まれた無数の傷跡。あなたの回復魔法があれば、あのように歪な形で癒着することはなかったはず。あなたは自身が守るべき存在を癒やす義務を怠り、見下し、あまつさえその死を容認した」
ヴィットーリアは、マリアを見下ろしたまま、宣告した。
「己の保身と虚栄心のためにのみ神の力を行使する。あなたのような存在を、我々の教義では『冒涜者』と呼びます。……あなたのその薄汚れた魂を浄化する魔法は、私には持ち合わせていません。二度と、我々と同じヒーラーを名乗らないで頂きたい」
完膚なきまでの論破。
そして、世界最強の探索者たちからの、明確な軽蔑と拒絶。
レオとマリアは、もはや言葉を発することすらできず、絨毯の上に崩れ落ちたまま肩を震わせていた。
彼らがこれまで築き上げてきた虚飾の実績も、Aランクという肩書きも、何の意味も持たなかった。本物の強者たちを前にして、彼らは自分たちがただの、恩義を仇で返す卑劣な存在であることを、魂の底まで刻み込まれたのだ。
ラウンジに重苦しい沈黙が降りた。
ヒロインたちが放つプレッシャーで、部屋の空気が張り詰めている。
そんな中。
「クゥン……」
コロが、ドクの膝の上で小さく鳴いた。
見れば、特上寿司の桶はすっかり空になっているが、コロの視線はドクの手元――彼が先ほどから握っていた、屋台の残りの肉みそお握りに向けられていた。
「おっと。お前、まだ食うのか。小さいのにすごい胃袋だな」
ドクは張り詰めた空気など全く意に介する様子もなく、コロの頭を優しく撫で、お握りを少しだけちぎってその口に運んだ。
コロは嬉しそうに目を細め、尻尾をパタパタと振ってそれを咀嚼する。
「まあ、美味しいものを食べられるのは、今日をちゃんと生き延びた証拠だからな。いっぱい食え」
ドクのその深く、穏やかな声だけが、静かに室内に響いていた。
背後で崩れ落ちているレオとマリアを一瞥することもなく、ただ目の前の小さな命と向き合うその背中。それは誰よりも大きく、そして残酷なほどに彼らとの「器の違い」を雄弁に物語っていた。




