第4話 切り忘れ配信、世界を揺るがす
深夜2時を回った頃。巨大動画配信プラットフォーム『D-Tube』の片隅で、世界をひっくり返すほどの異常事態が発生していた。
Aランクパーティ『紅蓮の剣』のチャンネル。普段なら、リーダーであるレオの熱狂的なファンたちが黄色い歓声を書き込むその場所は、本来なら数時間前に配信が終了しているはずだった。レオたちが深層のモンスターから逃亡し、ドローンを囮の荷物持ちに押し付けた時点で、彼らの「栄光の記録」はそこで途切れるはずだったのだ。
だが、ドローンは生きていた。
頑丈な探索者用の特注ドローンは、周囲の魔力や生体反応を自動追尾する機能を備えている。最後にそれに触れ、所有権を上書きした田中ドクの周囲を、無機質な赤いランプを点滅させながら静かに飛び回っていた。
その小さな高性能レンズが捉え、全世界に生中継した映像。
それは、あらゆる常識を置き去りにする光景だった。
『深淵の騎士の群れを、ただの裏拳の風圧で原子レベルまで消滅させる男』。
そして、『一直線に穿たれた数キロに及ぶ分厚い岩盤と、本来なら数十人の高ランク探索者が数日がかりで討伐するはずの最深部の巨大魔竜が、一瞬の光の奔流に呑まれて消え去る光景』。
最初は、誰もが目を疑った。深夜の過疎配信に残っていた数十人の視聴者は、画面のバグか、あるいは運営が仕掛けた悪趣味なドッキリCGだと思った。
しかし、違う。D-Tubeのシステム上、探索者のドローンから送られる映像データには、リアルタイムの魔力波形と座標データが紐づけられている。システムそのものをハッキングでもしない限り、改ざんや編集が不可能な、正真正銘の「生配信」だった。
【おい、今何が起きた】
【空間ごと消し飛んだぞ……嘘だろ】
【あの化け物、アビス・ナイトだろ!? Aランクでも即死するやつだぞ!】
【それをワンパン……? いや、パンチすらしてない、ただ手で払っただけだぞ】
【誰だこのおっさん!? 顔が煤と泥だらけで全然見えねえ!】
【画角が低すぎる、もっと顔を映せドローン!】
【紅蓮の剣の荷物持ちじゃないのか!? いや、ただのFランクにあんな力があるわけない!】
【どっかのSランクが変装して紛れ込んでたのか!?】
コメント欄が、異常な熱を帯びて凄まじい勢いで更新され始めた。
誰かがその数秒のクリップ映像を切り抜き、瞬時にSNSへ投稿した。そこに「#未踏エリア消滅」「#謎のワンパンおじさん」「#紅蓮の剣の真実」というタグが付けられた瞬間、拡散の速度は爆発的に跳ね上がった。
インフルエンサーが興奮気味にシェアし、深夜まで起きていた探索者オタクたちがコマ送りで映像の検証を始め、各国のギルド関係者たちのスマートフォンが一斉に鳴り響く。同接数は瞬く間に数千、数万、数十万へと膨れ上がり、D-Tubeのサーバーが過負荷による警告音を上げ始めていた。
だが、当の「ワンパンおじさん」は、そんな世界の狂乱など知る由もなかった。
「ふぅ……」
ドクは、築40年を超えるボロアパート『木漏れ日荘』の自室で、小さく息を吐いた。
軋む外階段を上り、四畳半の部屋に帰ってきたばかりだ。彼を自動追尾してアパートまでついてきた配信ドローンは、ドクが「あとでギルドの遺失物窓口に届けなきゃな」とちゃぶ台の端に置いたため、そこから部屋全体を斜め下から見上げるような固定カメラとして機能していた。赤いランプは点灯したままだが、機械に疎いドクはそれを「充電ランプかなにかだろう」程度にしか思っていなかった。
ひどく、くたびれていた。
絶体絶命の死地を乗り越えたという実感よりも、長年の習慣として細胞の隅々まで染み付いた「今日も一日、理不尽に耐え抜いた」という精神的な疲労の方が勝っている。不思議なことに、完全に砕けたはずの膝の痛みは消え去り、100キロの荷物を背負い続けた身体はやけに軽かった。だが、何か自炊をする気力は湧かなかった。かといって、こんな深夜に外食に出かける金も気力もない。
ドクは狭いユニットバスでシャワーを浴び、こびりついた泥と血の匂い、そして冷や汗を念入りに洗い流した。
薄い石鹸の泡が、彼の引き締まった肉体を滑り落ちていく。その背中や胸板には、長年の苛酷な裏方労働と、高ランク探索者たちの理不尽な巻き添え攻撃によって刻まれた無数の傷跡が走っていた。普通なら致命傷になりかねない傷の数々だが、ドク自身は「昔から妙に頑丈なのが取り柄だから」としか思っていない。
首に使い古したタオルをかけ、よれよれのスウェットに着替えて、小さなキッチンスペースに向かう。
「飯、どうするか……」
独り言を呟きながら、朝出かける前にタイマーを仕掛けておいた古い炊飯器を開ける。
ふわりと立ち上る湯気と、炊きたての白米の甘い香りが、少しだけ彼のざわついた心を落ち着かせた。
冷蔵庫を開けるが、中には水と調味料くらいしか入っていない。だが、帰りがけに深夜まで開いているオリジン弁当の店舗に寄り、割引シールの貼られた総菜をいくつか買っておいた自分を、今のドクは心から褒めてやりたかった。
ドクは畳の上の小さなちゃぶ台の前にあぐらをかいて座り、買ってきたプラスチックのパックを無造作に並べた。
鶏の唐揚げ。牛肉コロッケ。ポテトサラダ。そして、彩りとしての根菜のサラダ。日当のほとんどを明日の生活費に回さなければならない底辺探索者にとっては、これでもささやかなご馳走だ。
最後に、マグカップにアヅマフードの『茄子のみそ汁』のフリーズドライのブロックを入れ、電気ケトルで沸かしたお湯を注ぐ。スプーンで軽くかき混ぜてブロックを崩すと、出汁と味噌のいい香りが四畳半の部屋いっぱいに広がった。
「いただきます」
ドクは誰に言うでもなく小さく手を合わせ、割り箸を綺麗に割った。
まずはみそ汁を一口すする。熱い汁が冷え切った胃の粘膜に染み渡り、思わず「あぁ……」とおっさん臭い声が漏れた。
次に、白飯を多めにかきこみ、鶏の唐揚げにかぶりつく。冷めてはいるが、ニンニクと生姜の効いたしっかりとした味付けが、肉体労働後の身体にはたまらなく美味い。ポテトサラダで口の中の油をリセットし、再び白飯と牛肉コロッケへと向かう。ソースはかけない派だ。芋の甘みとひき肉の旨味、それに衣の塩気だけで十分に飯が進む。
米の一粒すら残さないよう、慎重に、そして味わうように箸を進めていく。
ドクの頭の中は、つい数時間前に未踏エリアの最深部を原子レベルで消し飛ばしたことなど完全に抜け落ちていた。
(明日の日雇い、どこか入れるかな。レオさんたち、俺が荷物持ったまま逃げたって怒ってないだろうか。もしギルドに文句言われて仕事を干されたら、今月の家賃がマズいな……)
そんな、どこまでも小市民的で、底辺としての身の丈に合った心配事だけが脳内を堂々巡りしていた。
一方、その「おっさんの孤独な夕食」は、数百万人に膨れ上がった世界中の視聴者たちに、無慈悲なほどリアルに生配信され続けていた。
【……なんだこれ】
【世界最強の男のモッパンが始まったぞ】
【CG説出回ってたけど、この生活感はリアルすぎるだろww】
【おい、あの唐揚げ、オリジンのやつじゃね?】
【さっきアビス・ナイトの群れをワンパンで消し飛ばした男が、アヅマフードの茄子のみそ汁飲んで「あぁ……」って言ってるの、脳がバグる】
【あの傷跡見たか!? シャワー上がりに見えた背中の傷、尋常じゃなかったぞ。どんだけ修羅場くぐってきたんだよ】
【で、結局誰なんだよ!? 絶妙に逆光と前髪で顔が見えねえ!】
【画像解析班、ギルドのデータベースと照合できないのか!?】
【ダメだ、解像度を上げてもノイズが走る。あの部屋自体が特殊な魔力フィールドに覆われてるんじゃないか!?】
【このおっさん、自分のやったことのヤバさに全然気づいてない顔してないか?】
コメント欄は、混乱と熱狂のるつぼと化していた。ドクがコロッケを一口かじるたびに、みそ汁をすするたびに、画面の向こう側で世界中の人間が息を呑んで見守っているという、異常極まりない構図が完成していた。
そして、この事態に最も激しく動揺していたのは、各国の探索者協会の中枢にいる権力者や、トップエクスプローラーたちだった。
アメリカ、ニューヨークのギルド統括本部。
巨大なモニタールームでは、深夜にもかかわらず数十人のアナリストが血走った目でキーボードを叩き、怒号を飛び交わせていた。メインスクリーンには、ドクが裏拳を放った瞬間の魔力波形が何度もリプレイされている。
「波形の解析結果、出ました! ……馬鹿な、計測器の上限を完全に振り切っています! 既存のSランク探索者の最大火力を、優に数千倍は上回る数値です!」
「単独の人間が出せるエネルギーじゃない! 一体どこの国の極秘兵器だ!?」
「顔が不鮮明すぎる! 骨格認証は!? 歩容解析は!?」
「泥と煤、それに前髪の陰影が邪魔をして特定率が30パーセントを超えません! 日本のギルドデータベースにある数百万人の底辺探索者の誰か、という以上の絞り込みが不可能です!」
「日本のギルドにはすでに緊急回線を繋いでいる! 何としても他国より先に接触しろ! この男がどこの所属であれ、絶対に自陣営に取り込むんだ!」
ヨーロッパのギルド連盟本部でも、最高幹部たちが緊急会議に招集され、緊迫した空気が漂っていた。
「あの規模の破壊……一歩間違えればダンジョン崩壊を引き起こしかねないぞ」
「しかし、映像を見る限り、男には一切の力みも、魔法行使のための詠唱もなかった。ただの手の動き一つであの破壊力だ」
「早急に身元を洗え。どこのパーティの所属だ? あの『紅蓮の剣』の荷物持ちの枠に入っていたはずだ。なぜ誰も彼の顔を知らない?」
「日本のギルドは何をしている! データベースの照合にこれほど時間がかかるとは無能にも程がある!」
さらに、世界中の高ランク探索者たちもまた、本能的な悪寒と歓喜に震えていた。
画面越しからでも伝わってくる、致死量すら生温いほどの濃密な力の残滓。
今まで自分たちが命を懸けて築き上げてきた「強さ」の概念が、たった四畳半の部屋で安い惣菜を頬張る名もなき男によって、根底から覆されようとしていた。
各国のギルド連盟、政府機関、最強と謳われる探索者たち。彼らが発する焦燥と熱狂の渦は、すでにドクという一個人の許容範囲を遥かに超えた巨大なうねりとなって、地球全体を巻き込もうとしていた。
「……ふぅ、食った食った」
そんな世界規模のパニックが起きているとは夢にも思わず、ドクは弁当の空き箱をゴミ袋にまとめ、満足げに腹をさすった。
冷蔵庫から安物の発泡酒を一本取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて喉に流し込む。アルコールが疲れた身体に染み渡り、心地よい眠気が一気に押し寄せてきた。
「さて、明日はハローワークに行かないとな……いい日雇いの仕事、あるといいけど」
ドクは万年床の薄い布団に潜り込むと、あくびを一つして、ゆっくりと目を閉じた。
秒で寝落ちしたドクの規則正しい寝息が、四畳半の部屋に響き始めた。
テーブルの端に置かれたドローンは、赤いランプを点滅させながら、彼が泥のように眠る姿を無慈悲に全世界へと流し続けている。
同時接続者数、500万人突破。




