第3話 死地での覚醒とワンパン
漆黒の大剣が、空気を引き裂きながら振り下ろされる。
ゴォウッという重苦しい風切り音が、耳元まで迫っていた。
ドクは固く目を閉じた。砕けた右膝の激痛が、これが悪夢などではなく、逃れようのない現実であることを容赦なく突きつけている。冷たい地下の石畳に押し付けられた頬から、自身の血の温度がゆっくりと奪われていくのがわかった。
(……これで、終わりだ)
走馬灯のように、過去の光景が脳裏を駆け巡った。
荷物持ちとして酷使されてきた10年以上の歳月。
どれだけ理不尽に殴られても、ヘラヘラと愛想笑いを浮かべて頭を下げた。ポーションの瓶の破片が腕に深く突き刺さっても、味方の範囲魔法の余波で髪が焦げ、肌が焼け爛れても、ただ「自分の不注意です、すみません」と謝り続けた。
いつか這い上がれると、自分の努力が報われる日が来ると信じていた時期もあった。だが、特別な才能を持たない30代の男に対して、世間はどこまでも冷酷だった。生きるためには、僅かなプライドすらも泥水に溶かして飲み込むしかなかった。
不思議なことに、目前に迫る死への恐怖よりも、ようやくこの終わりの見えない苦役から解放されるという、奇妙な安堵感の方が強かった。
もう、骨が軋むほど重い荷物を背負わなくていい。
もう、他人の靴の裏を舐めるように、理不尽に耐え続けなくていいのだと。
――だが。
数秒待っても、肉体を無残に分断するはずの刃の感触は訪れなかった。
「……?」
恐る恐る目を開ける。
すぐ目の前に、アビス・ナイトの錆びた兜があった。兜の奥で蠢く赤い眼光が、信じられないものを見るかのように細められている。
見上げれば、身の丈を超える大剣が、ドクの脳天に直撃していた。
いや、正確には「触れて」いた。
鋭利な刃は確かにドクの頭頂部の皮膚に当たっている。しかし、そこから先へ1ミリも沈み込んでいなかった。まるで分厚い鋼鉄の塊に刃こぼれしたナイフを無理やり押し付けているように、物理的な進行が完全に停止している。
ギィィ……ッ!
アビス・ナイトが、赤い眼光を激しく明滅させながら、大剣の柄に全体重を乗せる。呪われた甲冑の継ぎ目が軋み、火花が散るほどのすさまじい力だ。
しかし、ドクの身体はピクリとも動かない。皮膚一枚、髪の毛一本すら切れていない。
大剣の持つ圧倒的な質量と運動エネルギーが、ドクに触れた瞬間、底なしの深淵に呑み込まれるように「消滅」していた。
(なんだ……? 一体、何が起きてる?)
ドクの頭の中が混乱に染まる。
その時だった。
彼自身の身体の奥底、魂の根源のような深い場所から、熱いマグマが噴き出すような感覚が湧き上がった。
それは、長年彼がただの「ガラクタ入れ」だと思い込んできたスキル、『収納』からの悲鳴だった。
ドクの『収納』は、ただのアイテムボックスではなかった。長年浴び続けてきた他者からの悪意、理不尽な物理的打撃、魔法の余波、そして絶望的な状況下で生き延びてきたことによる莫大な経験値。極限まで圧縮されていたそれらの「概念」が、死の淵に立たされたことで遂に限界容量を突破し、ドクの身体を新たな次元へと作り変えていく。
バツンッ!
頭の中で、重厚な金属の枷が弾け飛ぶような音が鳴った。
全身の血が沸騰し、細胞の一つ一つが歓喜の声を上げるような異常な高揚感。
これまで自身を縛り付けていた「底辺」という枠組みが、内側から爆発的に拡張されていくのがわかる。限界を超えた器は、新たな形へと自らを作り変えた。
ドクの身体を包んでいた鈍い痛みが、嘘のようにすっと引いていく。
完全に砕かれていたはずの右膝の関節が、一切の苦痛を伴わずに完璧に接合されていた。聖女の治癒魔法を受けたわけではない。「損傷」という概念そのものが、新たな器の底にポイと放り込まれたのだ。
「……動く」
ドクは呆然と呟きながら、ゆっくりと立ち上がった。
背中にのしかかっていた100キロのバックパックの重さすら、今は羽のように軽く感じられた。
彼を取り囲んでいた20体近いアビス・ナイトたちが、その異様な気配の変化に反応した。彼らは一切の感情を持たないアンデッドだが、本能的に目の前の存在が「ただの人間」ではなくなったことを察知したのだろう。
赤い眼光が一斉にドクに集中する。
彼らは一切の容赦なく、四方八方から殺意に満ちた漆黒の大剣を同時に振り下ろした。
回避する隙間などどこにもない、完全な死の檻。空気が重く圧縮され、逃げ場のない圧力がドクに迫る。
「……あ、危ない!」
ドクは咄嗟に腕を交差させ、目を瞑って身をすくめた。
ガァァァンッ!!
数十本の剣撃が、ドクの身体に同時に叩き込まれる。
凄まじい衝撃音が地下迷宮に響き渡り、ドクの足元の石畳がクレーターのようにすり鉢状に陥没した。舞い上がった粉塵が視界を完全に奪う。
しかし、粉塵が晴れた後、そこにはやはり無傷で立つドクの姿があった。
アビス・ナイトたちの剣は、ドクの着古した作業着に触れただけでその威力を完全に消失していた。
彼らが何十回と大剣を叩きつけても、結果は同じだった。金属が激しくぶつかるけたたましい音だけが響き、ドク自身は蚊に刺されたほどの痛みすら感じていない。
(……痛くない。なんでだ?)
ドクは自分の手を見つめた。タコだらけの無骨な手は、いつも通り土埃に汚れている。
(こいつら、実は幻覚か何かか? いや、レオさんは確かに吹き飛ばされていた。……ということは)
ドクの思考は、彼自身の底辺としての経験則から、極めて的外れな結論を導き出した。
(そうか、こいつら見た目だけで、実は全然力がないんだ。未踏エリアに入ってすぐだったから、脅かしのギミックモンスターか何かに違いない。レオさんは不意打ちを食らって、焦って足場が滑って自爆しただけだ)
自分が急に無敵になったなどと考えるよりも、モンスター側が弱体化していたと考える方が、彼の貧相な自己評価には合致していたのだ。
ギィィ……。
アビス・ナイトの1体が、邪魔な障害物を排除しようと、再び大剣を高く振り被る。
「あー、もう。しつこいな。ちょっと退いてくれよ」
ドクは、顔の周りを飛び回る羽虫を追い払うような、極めて無造作な動作で右腕を振った。
拳すら握っていない。手の甲で軽く払いのけるだけの、素人の裏拳。
しかし、その瞬間。
限界まで膨れ上がっていた『収納』の奥底から、これまで蓄積され続けてきた莫大なダメージエネルギーの、ほんの一雫が――ドクの意志とは無関係に「解放」された。
ドッ……!!!!
ドクの右腕から放たれたのは、物理的な打撃ではなかった。限界まで圧縮された空気が悲鳴を上げ、極大のプラズマと化した光の奔流となって暗い通路を埋め尽くしたのだ。
目の前にいたアビス・ナイトの上半身が、抵抗する間もなく原子レベルで消滅した。
いや、1体だけではない。
放たれた光の奔流は、扇状に広がりながら、ドクの前方にいた10数体のアビス・ナイトを丸ごと飲み込んだ。漆黒の呪われた甲冑も、大剣も、彼らの存在を構成する瘴気すらも、一切の痕跡を残さずに虚空に溶けていく。
光の波はそこで止まらない。
地下30階層の、黒曜石のように硬い迷宮の壁を、まるで濡れた紙を突き破るように容易く穿ち、一直線に彼方へと突き進んでいく。
ゴゴゴゴゴゴォォォォォォ……ッ!!!
遅れて、鼓膜が破れんばかりの轟音と、迷宮全体を根底から揺るがす大地震が襲いかかった。足元の岩盤が跳ね上がり、天井からは巨大な落石が雨のように降り注ぐ。だが、それらの破片すらもドクの身体に触れる直前でふっと消滅していく。
ドクの背後にいた残りのアビス・ナイトたちは、発生した凄まじい暴風の余波だけで空の彼方へ吹き飛ばされ、壁に激突して次々と砕け散っていく。
光の奔流は、未踏エリアの分厚い岩盤を数キロにわたってくり抜き、ついにその最奥に位置する巨大な空間――『ボス部屋』へと到達した。
そこには、4つの首を持つ巨大な漆黒の魔竜が、1000年もの眠りから目覚めようとしていた。鱗の一枚一枚が呪いを帯び、その吐息だけで空間を歪めるほどの圧倒的な存在。Aランクパーティ100人が束になっても勝てない、本来ならこのダンジョンの最終局面に君臨するはずの絶望の象徴。
しかし、その魔竜が威嚇の咆哮を上げる暇すらなく。
迷宮の壁を貫通してきた光の奔流は、魔竜の巨体ごと、ボス部屋の空間そのものを真っ白に染め上げ、完全に消し飛ばした。
数秒後。
圧倒的な破壊の嵐が過ぎ去り、ダンジョンに再び静寂が戻った。
「…………え?」
ドクは、自分の右手を上げた姿勢のまま、間抜けな声を漏らした。
目の前の光景が、全く理解できなかった。
さっきまで続いていた狭い通路は消え失せている。
代わりに、ドクの足元から遥か彼方まで、直径数十メートルに及ぶ巨大なトンネルが、一直線にくり抜かれていた。壁面は超高熱でガラス化し、赤熱して微かに光を放っている。
アビス・ナイトたちの姿はどこにもない。魔石一つ、灰一つ残っていなかった。
「……なんだこれ」
ドクは右手を下ろし、自分の掌と、眼前に広がる人工的な大空洞を交互に見比べた。
現実感が完全に欠落している。
自分がやった? まさか。そんなはずがない。自分はただのFランクの荷物持ちだ。オーガの炎の余波で咳き込むような、底辺のおっさんだ。今だって、手には何の力も感じないし、魔法を使ったような疲労感もない。
「……あ、わかったぞ」
数秒のフリーズの後、ドクはポンと手を打った。
「トラップだ。未踏エリアの壁に、侵入者を排除するための超高火力の自爆トラップが仕掛けられてて、俺が腕を振った風圧でたまたま作動したんだな。うわぁ、危なかった。こいつら、ギミックじゃなくてトラップの巻き添えで消えたのか。すべては偶然、運が良かっただけか」
そう納得したドクは、ホッと安堵の息をついた。
「よし。とりあえず、死ななくて済んだ。レオさんたちは……逃げ切れたみたいだな」
周囲を見渡すが、当然ながらレオやマリアの姿はない。
自分が囮として見捨てられたことに対して、怒りは湧かなかった。ただ、「そういうものだ」と受け入れている自分がいる。
ふと、足元でカシャカシャと音がした。
見下ろすと、レオが投げ捨てていった配信用の小型ドローンが、風圧でひっくり返りながらも、健気に宙に浮き直そうとしていた。
機体は少し焦げているが、レンズの横にある赤いランプは、しっかりと点滅を続けている。
『REC(録画・配信中)』のサインだ。
「おっと、こいつを忘れるところだった」
ドクはしゃがみ込み、ドローンを優しく手に取った。
彼には、この小さな機械が世界の何万という人間とリアルタイムで繋がっているという実感は薄い。ただ、高価な機材を無くせば、あとでギルドから弁償を求められるかもしれないという小市民的な焦りだけがあった。
ドローンを自分の顔の前に持ち上げ、レンズの汚れを袖で拭う。
「えっと……レオさんたちは無事です。俺も、なんか運良く助かりました。トラップが暴発したみたいで。じゃあ、帰りますね」
誰に向かって言っているのかもわからないまま、ドクはカメラに向かって愛想笑いを浮かべて会釈した。
そして、ドローンを自身の肩の近くにフワリと浮遊させると、荷物の重さを確認するように何度か肩をすくめた。
100キロのバックパックは、やはり空箱のように軽い。
砕けていた膝も、気味が悪いほど絶好調だ。歩くたびに骨が軋む音も、関節の痛みもない。
「不思議だな……火事場の馬鹿力ってやつか? アドレナリンが出てるだけかもしれないな。まあいいや。早く帰って、風呂に入ろう。明日は日雇いの仕事、見つかるといいけど」
泥だらけの作業着に、無精髭。
世界最強を凌駕する力に覚醒したことなど露ほども知らない32歳の荷物持ちは、ガラス化した大空洞を背に、ゆっくりと地上への帰路につき始めた。
その時。
彼が手に持っていたドローンの向こう側、深夜の過疎配信だったはずのコメント欄が、信じられない速度で滝のように流れ始めていることに、ドクはまだ気づいていなかった。
【……は?】
【おい、今の何】
【空間ごと消え飛んだぞ……?】
【CG? 運営のヤラセ?】
【いや、Aランクのレオが手も足も出なかったアビス・ナイトの群れだぞ!?】
【それを、このおっさん、ワンパンで……?】
【おい、誰か録画してる奴いるか!? これヤバいぞ!!】
【世界がひっくり返るぞ!!!!】
静まり返った地下迷宮に、何も知らないドクの規則正しい足音だけが呑気に響き渡っていた。




