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Fランクおっさん荷物持ち、無自覚ワンパン配信で世界最強に成り上がる  作者: 伊達ジン


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第2話 深層への置き去り

 未踏エリアに足を踏み入れた瞬間、空気が物理的な重さを持ったように感じられた。


 地下30階層の通常の通路で漂っていた腐敗臭は消え失せ、代わりに、無菌室のような無機質で冷たい空気が肺を刺す。岩肌の発光苔すら生えておらず、ドローンが放つ投光器の白い光だけが、滑らかな黒曜石のような壁面を頼りなく照らし出していた。

 一歩踏み出すごとに、自身の足音が不気味なほど鮮明に反響する。生き物の気配が全くない。ダンジョンにおいて、モンスターの気配がない場所ほど恐ろしいものはないと、長年底辺を這いずってきたドクの勘が警鐘を鳴らしていた。壁面は人工物のように滑らかで、身を隠せるようなくぼみすら見当たらない。どこまでも続く黒い回廊は、まるで巨大な怪物の食道へと自ら歩みを進めているような錯覚を抱かせた。


「さあ、みんな! ここからが俺たち『紅蓮の剣』の真骨頂だぜ!」


 ドクの不安をよそに、レオは配信ドローンのカメラに向かって快活に笑いかけた。手にした豪奢な剣を軽く振り回し、カメラ目線でウィンクをして見せる。その剣の刀身は、彼がこれまでに討ち取ってきた名のあるモンスターたちの血を吸い、微かに赤みを帯びている。


「この未踏エリアの最奥には、まだ誰も見たことのないボスが眠っているはずだ。そいつを俺の剣で叩き斬って、最速踏破記録を更新してやるから、瞬きせずに見ててくれよな!」


 ドローンの側面に付いた小さなモニターには、視聴者からのコメントが滝のように流れているのだろう。レオの口角が満足げに釣り上がる。自己顕示欲に満ちたその笑顔は、彼がこの危険な未踏領域を、単なる自分を輝かせるための舞台装置程度にしか考えていないことを示していた。


「レオ、あまり急ぐと陣形が崩れてしまいますよ。慎重に進みましょう」


 マリアが上品な笑みを浮かべ、杖を胸に抱くようにして寄り添う。その純白の神官服は、この深い闇の中で異様なほど目立っていた。彼女の歩みには一切の淀みがなく、床の汚れを嫌うように、常に自身の周囲に微弱な浄化の魔力を纏わせている。


「わかってるさ。マリアのサポートがある限り、俺に死角はない。なあ、ドク! お前も遅れずについてこいよ! 配信のテンポが悪くなるだろ!」


 振り返りもせず飛んでくる怒声に、ドクは黙って首を縦に振った。


 限界を超えた荷物の重量と、先ほどのオーガ戦で浴びた熱風の余波が、悲鳴を上げるドクの全身の関節をさらに軋ませていた。普通なら一歩も動けないほどの負荷だが、彼は長年の過酷な労働で培った独自の歩法でそれを相殺していた。重心を極限まで低く保ち、靴の裏を石畳から離さずに滑らせるように前進する。呼吸は浅く、一定のリズムを刻み続ける。


(息を、整えろ。リズムを崩せば、もう二度と足が上がらなくなる)


 ドクは奥歯を噛み締め、床のわずかな凹凸に目を凝らしながら、すり足に近い歩法で前進を続けた。荷物持ちにとって、自分の限界を誤認することは即座に死を意味する。彼は自身の肉体の悲鳴を冷静に観察し、あとどれだけこの酷使に耐えられるかを計算していた。


 あと数時間。このエリアを抜け、ボスを討伐し、帰還するまで。

 頭の中を空っぽにして、ただ歩く。泥水をすすり、見下されても、今日の命を明日へ繋ぐために。それだけが、彼がこの理不尽な世界で生き残るための唯一の術だった。


 だが、迷宮は底辺のささやかな願いなど容易く打ち砕く。


「……ん? なんだ、あれ」


 先頭を歩いていたレオが、怪訝な声を上げて足を止めた。

 ドクも重い頭を上げ、前方を凝視する。


 通路の数十メートル先。光の届くギリギリの境界線に、何か黒い塊のようなものが『在った』。

 それは岩や瓦礫ではなかった。明確な輪郭を持った、人の形をした何か。


 ドローンの投光器が、その黒い塊のディテールを暴き出した。


 全身を覆う漆黒の甲冑。装飾の類は一切なく、ただ殺戮のためだけに鍛え上げられたような無骨なデザインだ。手には、身の丈ほどもある巨大な大剣が握られている。兜の奥、本来なら眼球があるべき場所には、血のように赤い光が二つ、妖しく瞬いていた。

 一体だけではない。闇の奥から、音もなく、ゆらり、ゆらりと、同じ漆黒の甲冑が姿を現す。二体、三体、五体……その数は瞬く間に十体を超えた。金属同士が擦れる音さえ立てないその異常な静寂が、彼らの異質さを際立たせている。


「……嘘だろ。なんだよ、こいつら」


 レオの声から、先ほどまでの余裕が完全に消え去っていた。


 それは、中層に現れるはずのない存在だった。

『深淵の騎士』。

 深層と呼ばれる50階層以降でしか目撃例のない、高位のアンデッドモンスター。Aランクパーティであっても、一体を相手にするだけで全滅の危険が伴うとされる死神たちだ。圧倒的な物理攻撃力と、魔法を弾く呪われた装甲。出会えば最後、生者の血をすするまで決して追跡をやめない迷宮の処刑人。


「レオ! 後ろからもです!」


 マリアの悲鳴に近い声に振り返ると、彼らが歩んできた後方の通路からも、無数の赤い眼光が迫ってきていた。


 完全に包囲されていた。

 彼らは足音すら立てず、ただ確実に包囲網を縮めてくる。前後を塞がれ、逃げ場はない。


「くそっ! なんでこんな浅い階層に深層の化け物が出やがるんだ! 運営のミスじゃねえのか!」


 レオが剣を引き抜き、喚き散らす。その声は恐怖で裏返っていた。剣を持つ手が微かに震えているのを、ドクは見逃さなかった。


「マリア! 全力でバフをかけろ! 一箇所に集中して突破するぞ!」

「は、はい! 『聖なる極光』!」


 マリアが震える手で杖を掲げる。眩い光がレオを包み込み、彼の魔力を極限まで引き上げた。空間を満たす清浄な魔力が、アビス・ナイトたちの纏う瘴気と反発し合い、パチパチと火花のような光を散らす。


「邪魔だ、退けぇぇぇっ!!」


 レオが咆哮と共に跳躍する。

 聖女のバフで極限まで強化された踏み込みで、一気に地を蹴る。彼の剣には、先ほどのオーガを両断した何倍もの爆炎が宿っていた。通路全体を灼熱の業火が舐め尽くす。

 狙うは、前方を塞ぐ一体のアビス・ナイト。


 渾身の一撃が、黒い甲冑に叩き込まれる。

 鼓膜を破るような激しい金属音と、周囲の空気を焼き尽くすほどの爆発。舞い上がった土埃が視界を遮る。


 だが。


「……な、に?」


 炎が晴れた後。

 そこには、大剣を盾のように構え、一歩も退かずに立つアビス・ナイトの姿があった。

 レオの全力の魔法剣は、甲冑に僅かな焦げ跡をつけただけだった。刀身の炎は完全に打ち消され、特注の剣にはヒビすら入っている。


 ギギッ、と、サビついた金属が擦れるような音が響く。

 アビス・ナイトが、ゆっくりと大剣を振り上げた。何の感情もこもっていない、ただの作業のような動作。


「ひっ……!」


 レオが咄嗟に剣を交差させて防御姿勢をとる。

 轟音。

 大剣がレオの剣を軽々と打ち据え、特注の真紅の鎧ごと彼を数メートル後方へ吹き飛ばした。


「ガハッ……!」


 石畳に叩きつけられ、血を吐くレオ。自慢の剣はひしゃげ、鎧には深い亀裂が入っていた。Aランクの彼が、まるで子供のようにあしらわれたのだ。


「レオ!」

「近づくな! 回復しろ、早く!」


 パニックに陥ったマリアが呪文を唱えようとするが、恐怖で歯の根が合わず、上手く魔力が練れない。杖を持つ手が震え、詠唱が何度も途切れる。


 圧倒的な力の差だった。

 これが深層のモンスター。Aランクパーティなど、彼らにとっては路傍の石に等しい。


 アビス・ナイトたちは歩みを止めない。

 一切の感情を持たず、ただ生者を蹂躙するために距離を詰めてくる。大剣が床を擦る重苦しい音が、死のカウントダウンのように響き渡る。


「……ドク」


 血まみれの口元を拭いながら立ち上がったレオが、低い声で呼んだ。

 その目には、狂気にも似た光が宿っていた。生存本能と保身が、彼の理性を完全に焼き切っていた。


「……はい」


 ドクは岩壁を背にし、いつでもバックパックを切り離せるように肩紐に指をかけていた。

 この状況が何を意味するか、彼は理解していた。全滅だ。奇跡でも起きない限り、ここから生きて帰ることは不可能に近い。


「お前、荷物持ちだよな」


 レオが、ふらつく足取りでドクに近づいてくる。


「ポーターの絶対のルールってなんだっけ?」

「……パーティの荷物を守り、いかなる時も戦闘の邪魔をしないこと。そして、自分の身は自分で守ること」

「違う」


 レオの顔が、怒りと恐怖で歪んだ。


「『盾になること』だ。底辺のゴミが、俺たち選ばれた人間のために命を懸けるのは当然のことだろうが」


 その言葉の意味を理解するより早く、レオのブーツがドクの右膝を容赦なく蹴り抜いた。


「ゴッ……!」


 ゴキリ、という鈍い音が響き、ドクの身体が崩れ落ちる。

 膝の関節が完全に砕けていた。激痛が脳を焼き、声にならない呻きが漏れる。長年酷使してきた関節は、もはや自重を支えることすらできない状態に破壊された。


「あ、ああ……」


 100キロの荷物に押し潰されるように床に這いつくばるドクを見下ろし、レオは醜悪な笑みを浮かべた。


「お前のその無駄にデカい荷物、ちょうどいいバリケードになるじゃねえか。ここでそのデカブツ共を通せんぼしてろ」


 レオは宙に浮いていた配信ドローンを乱暴に掴み取ると、操作パネルをいじり、ドクの顔の前に投げ捨てた。


「ドローンは置いていく! 視聴者どもに、お前が立派に殿を務めて死ぬところを見せてやれ! ……安心しろ、お前の家賃くらいは香典として払ってやるよ」

「……っ、レオさん……!」


 ドクが伸ばした手は空を切った。激痛で視界が明滅し、指先に力が入らない。


「行きましょう、マリア! 横道の隙間からなら抜けられる!」

「は、はい! ……ごめんなさい、ドクさん。あなたのことは忘れません!」


 マリアが涙ぐんだような顔を作って祈りのポーズを見せた直後、二人はドクを置き去りにして、脇の暗がりへと駆け出していった。生き残るための打算に満ちた、淀みのない足取りだった。

 彼らの足音は、あっという間に暗闇に吸い込まれて消えた。


 残されたのは、砕けた膝を抱えて倒れ伏すドクと、無機質に飛び回るドローン。

 そして、彼を完全に包囲した二十体近いアビス・ナイトだけだった。


「……あ、あ……」


 口から漏れるのは、乾いた空気の音だけ。

 右膝の激痛が、現実感を嫌というほど突きつけてくる。


(ああ。結局、俺はこうなる運命だったんだ)


 冷たく硬い石畳に頬を押し付けながら、ドクはぼんやりと考えた。

 何のために、ここまで耐えてきたのか。

 罵倒され、見下され、パンの耳をかじりながら、泥水をすすって生きてきた。

 いつか、報われる日が来るかもしれないと。

 Fランクの底辺でも、真面目に働いていれば、誰かが見ていてくれるかもしれないと。


 そんなものは、ただの幻想だった。

 圧倒的な暴力と、絶対的な理不尽の前では、底辺の命など埃よりも軽い。

 彼は、バックパックの重りと同じ、ただの「モノ」として捨てられたのだ。


 ズズン、ズズン。


 甲冑の重い足音が、ドクのすぐ目の前まで迫っていた。

 見上げれば、漆黒の巨躯が、天を突くような大剣を振り上げている。

 兜の奥の赤い眼光が、虫ケラを見るような冷徹さでドクを見下ろしていた。


 ドローンの赤いランプが点滅している。

 今、この瞬間も、世界中の人間がモニター越しにこの無様な死を消費しているのだろう。滑稽なピエロの最期を嗤いながら。


(……ごめんなさい、母さん。俺、立派な探索者には、なれなかったよ)


 ドクは目を閉じた。

 逃げる力も、抗う気力も、もう残っていなかった。

 死の刃が振り下ろされる、その瞬間を待つ。


 ただ、一つだけ。

 彼の心の奥底、長年感情を殺し続けてひび割れた魂の底で、小さな、本当に小さな『何か』が熱を持ち始めていたことだけは、彼自身も、配信を見ている誰一人として、気づいていなかった。

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