第37話 レオの悪あがき
トマトの酸味とハラペーニョの青々とした辛味が、焦げ臭い空気を鮮やかに切り裂いていく。
「はい、お待たせ。味見してみてくれ。辛さが足りなかったら言って」
ドクは手早く仕上げた肉みそとサルサ・ピコデガヨを小さな紙皿に盛り付け、呆然とへたり込んでいたエレナに差し出した。
エレナは震える両手でそれを受け取り、信じられないものを見るようなブルーグリーンの瞳で、紙皿とドクの顔を交互に見比べた。
数万度の熱を放つ深層ボスと、鋼鉄の百足の群れ。それらをたったの一撃で、チリ一つ残さず空間ごと消滅させた男が、数秒後には鼻歌交じりに屋台の延長のような手際で料理を振る舞っている。
彼女の脳内に構築されてきた魔法理論と常識のすべてが、音を立てて崩れ落ちていた。
「……あ、ありがとう……」
エレナが蚊の鳴くような声で礼を言い、フォークで一口、口に運ぶ。
極限の緊張と恐怖で強張っていた胃袋に、フレッシュな酸味と肉の強烈な旨味が染み渡り、彼女の目からポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。
そんな奇妙で平和な空気を、耳障りな金切り声が引き裂いた。
「ふ、不正だ……ッ! あんなもの、あり得ない!!」
後方の瓦礫の山からふらふらと立ち上がったのは、『紅蓮の剣』のリーダー、レオだった。
借金をして新調したはずの大剣はどこかに放り捨てられ、整っていたはずの金髪は土埃と脂汗で額にへばりついている。彼は血走った目を剥き出しにして、ドクに向かって震える指を突きつけていた。
「チートだ! ツールを使ったに決まってる! ただのFランクが、あんな……あんなデタラメな真似、できるはずがねえ!!」
自身のAランクとしてのプライド、そして何よりも、数万人の観衆と配信カメラの前で、一般客を盾にして逃げ惑ったという惨めな現実。それらを直視できず、彼の精神は完全に破綻しかけていた。
すべてはこの底辺の男が仕組んだ不正なのだと、そう思い込まなければ自我が保てなかったのだ。
「おい、運営! ギルドの連中! こいつを拘束しろ! ダンジョン外での過剰な武力行使と、不正ツールの使用だ! 規約違反で永久追放にしろ!!」
泡を飛ばしながら喚き散らすレオの姿は、ひたすらに醜悪だった。
しかし、ドクは調理器具を片付けながら、不思議そうに小首を傾げただけだった。
「……ツール? 何のことだ? 俺はただ、溜まってたものを吐き出しただけだけど。それよりレオさん、怪我はないか? 随分と遠くまで走ってたみたいだけど」
煽りでもなんでもない。ドクの純粋な善意からの心配の言葉が、レオの矮小な自尊心をさらに容赦なく抉り取った。
「ふざけるなッ! 俺を見下してんのか、このゴミが!!」
レオが半狂乱になってドクへ飛びかかろうとした瞬間、彼の鼻先数ミリを、超高熱の刃が通り過ぎた。
「ヒッ……!?」
熱波で前髪を焦がされ、レオは無様に尻餅をつく。
彼を見下ろしていたのは、燃え盛る魔剣を片手に下げたルシア・カルヴァーリョだった。彼女の唇には笑みが浮かんでいるが、その眼差しは路傍の汚物を眺めるかのように冷酷だった。
「見苦しいわよ、自称Aランク。自分の醜態をごまかすために、本物の強者に噛みつくなんて。少しは自分の立場を理解したらどう?」
「ち、違う! 俺は悪くない! あんなバケモノどもの相手なんて、俺の仕事じゃ……そうだ、マリア! お前からも言ってやれ! 俺たちは被害者だと!」
レオは縋るように、少し離れた場所でへたり込んでいるマリアを振り返った。
しかし、ゆっくりと立ち上がったマリアの瞳に宿っていたのは、かつての盲信や愛情ではなく、冷めきった計算と、明確な軽蔑の光だった。
「……近寄らないで」
「え……?」
「逃げ遅れた子供や女を蹴り飛ばして、自分だけ助かろうとした男と同じパーティだなんて、反吐が出るわ。私の経歴の最大の汚点よ。今日限りで、私は『紅蓮の剣』を抜けます」
マリアは純白の神官服についた泥を払い、レオを一瞥もせずに背を向けた。彼女の頭の中ではすでに、この炎上からいかに自分だけ無傷で逃れ、新たな有力パーティへ鞍替えするかの算段が始まっていた。
「ま、待てよマリア! 嘘だろ!? お前まで俺を見捨てるのか!」
上空では、生き残った数機の公式ドローンが、その一部始終を無慈悲な高画質で全世界へと配信し続けていた。かつての英雄の完全なる失墜劇を。
★★★★★★★★★★★
数時間後。
イベントの全面中止と、事後処理に向けた大混乱が続く中、ドクたちは探索者協会八王子支部の最上階にある特別VIPラウンジへと案内されていた。
マスコミや興奮冷めやらぬファンたちから彼らを隔離するための、ギルド側の緊急措置だ。
分厚いマホガニーの扉で完全に外界の音が遮断された室内は、毛足の長いペルシャ絨毯が敷かれ、中央にはイタリア製の黒革のソファセットが鎮座している。
「ふぅ……。しかし、大事にならなくてよかったな。一時はどうなることかと思ったよ」
ドクは巨大なバックパックを床にドスンと下ろし、出された高級な玉露の茶を啜りながら、ピントのずれた感想を漏らした。
隣のソファに座っていた瞳は、タブレット端末で世界のトレンドを埋め尽くしている『八王子消滅未遂』『規格外の光の柱』『紅蓮の剣・完全崩壊』といった見出しをスワイプしながら、呆れたようにため息をついた。
「ドクさん……あなたが地形ごとボスを消し飛ばしたせいで、今、世界のパワーバランスが根底からひっくり返ってるんですよ。全然『大事にならなくてよかった』じゃないです」
「そうか? まあ、怪我人が出なかったなら、それが一番だよ」
ドクが屈託なく笑ったその時、部屋の隅に置かれていた黒いナイロン製のペット用キャリーバッグが、ガサガサと不自然に揺れ始めた。
瞳がイベント会場への移動用に奮発して購入した、魔力遮断機能付きの高級ケージだ。
ジジジ……。
内側から爪で引っ掻く音と共に、少しだけ開いていたファスナーの隙間から、湿ったピンク色の小さな鼻先がニュッと突き出た。
そのまま、「フンス、フンス」と周囲の匂いを嗅ぐと、器用に前足を使ってファスナーを内側から押し広げる。
「あっ、コロ! まだ出ちゃダメだってば!」
瞳の制止も虚しく、ズルリと真っ黒な毛玉がケージから這い出した。
フェンリル・パピーのコロだ。
見慣れない広くて豪華な部屋に、コロは短い尻尾をピンと立て、目をキラキラと輝かせた。そして、Aランク魔獣特有の異常な敏捷性を発揮し、シャドォッ! と残像を残すほどの速度で絨毯の上を駆け抜けた。
「こらコロ、走っちゃダメだ。埃が立つだろ」
ドクが身を乗り出して捕まえようとするが、コロはスライディングするような動作で、部屋の中央にある巨大な革張りソファの下へと見事に滑り込んだ。
ピタッと動きが止まる。
ドクがソファの前にしゃがみ込み、薄暗い隙間を覗き込んだ。
真っ暗なソファの下の空間。
そこから、まん丸に開いた黒い瞳と、ピンク色の鼻先だけがこちらの様子を窺うように見え隠れしていた。
コロにとって、暗くて狭く、上から押し潰される心配のないその場所は、完璧な「秘密基地」に思えたらしい。
「出ておいで、コロ。そこは埃だらけかもしれないぞ」
ドクがごつい手をソファの下に差し出すと、コロは暗がりの中から短い前足を出して、ドクの人差し指を「ペシッ」と軽く叩いた。
引っ込める。またドクが手を出すと、今度は「ペシペシッ」と連続で叩いてくる。完全に遊んでいるつもりだ。
「ワフッ」
小さな得意げな鳴き声が、ソファの下から響く。
「ダメだ、完全に陣地だと思ってるな」
ドクは苦笑し、そのまま床に座り込んで、コロのちょっかいに指で付き合い始めた。タコだらけの太い指先と、柔らかな肉球が、何度もペシペシと打ち合わされる。
「もう……ドクさんも遊んでないで引っ張り出してくださいよ。ギルドの偉い人たちが挨拶に来るかもしれないのに」
瞳は口では文句を言いながらも、その平和すぎる光景に、張り詰めていた肩の力がすっと抜けていくのを感じていた。
外の世界では、ドクの一撃の正体を巡って国家レベルの議論が巻き起こり、レオたちの醜態に非難の嵐が吹き荒れている。
だが、この部屋の中にあるのは、ただの少し鈍感で心優しい男と、小さな犬とのじゃれ合いだけだった。
「ほらコロ、出てこないと、今日の晩飯は俺の特製肉みそなしだぞ」
ドクがそう言うと、ソファの下の黒い瞳がハッとしたように見開かれ、次の瞬間、コロはドクのブーツの上にダイブするように飛び出してきた。そして、ドクの腕に短い手足を巻きつけ、「クゥン……」と抗議の声を上げる。
「ははは、嘘だよ。後でたっぷり食わせてやる」
ドクは大きな手でコロを抱き上げ、その柔らかなお腹を優しく撫でた。
世界がどれほどひっくり返ろうとも、彼の平穏な日常の在り方は、ただの1ミリも揺らいではいなかった。




