第36話 静まり返る世界
純白の光が視界を焼き尽くし、あらゆる音を奪い去った後。
八王子の街に、ゆっくりと「世界」が戻ってきた。
吹き荒れていた熱風は消え失せ、焦げたアスファルトの臭いだけが微かに漂っている。
超高熱でドロドロに融解していた地面が、光の通過に伴う異常な気圧変化で急激に冷却され、パキパキと不気味な音を立てて硬化していく。崩落の地鳴りも、数万人の群衆が上げていた悲鳴も、今はもう聞こえない。
耳鳴りだけが残る完全な無音空間の中で、誰もがただ自身の呼吸すら忘れて立ち尽くしていた。
ドクが右拳を振り抜いた前方――空に向かって斜めに穿たれた空間には、何も残っていなかった。
巨大な質量と数万度の熱を誇っていた溶岩の獣も。
重機のように大地を砕いていた三頭の鋼鉄の百足も。
致死の毒牙を剥いていた六頭の蛇も。
血の一滴、甲殻の欠片すら残さず、文字通り「消滅」していた。
彼らが存在したという痕跡は、光の奔流が通過した軌道に沿って、空中の塵すらも綺麗に払拭された、不自然なほどの透明な空間だけだ。
「…………」
瓦礫の山にへたり込んでいたマリアは、純白の神官服を土埃で汚したまま、限界まで見開かれた目でその光景を凝視していた。美しい顔は脂汗に塗れ、白銀の杖は震える手から滑り落ちてカランと虚しい音を立てた。
逃げ惑う人々を突き飛ばして自分だけ助かろうとしていたレオは、無様に這いつくばった姿勢のまま、首をカクカクと不自然に痙攣させている。
ルシア、クロエ、アリサラ。そして、ドクの背後で極大バフを放ったまま崩れ落ちていたエレナ。
世界最高峰のSランク探索者たちですら、誰一人として声を発することができなかった。
彼女たちの目は、ただ目の前の男の背中に縫い付けられていた。
ルシアは、自身の剣を握る手が微かに震えていることに気づいた。魔力を練り上げる予備動作すらなく引き起こされた絶対的な暴力を前に、長年の激戦で培われた本能が完全な「格下」であることを告げている。
クロエは、極限まで鍛え抜かれた自身の物理打撃でさえ絶対に到達し得ない破壊の規模に慄き、恐怖と歓喜が入り混じった歪な笑みを顔に貼り付けて硬直していた。
アリサラは、いかに緻密な致死の罠を何重に張り巡らそうとも、あのただの右腕の一振りの前には紙屑と同義であるという直感に背筋を凍らせた。
そしてエレナは、自身が放った全力のバフが底なしのブラックホールに吸い込まれるように消え、その直後にあの事象を引き起こすための「ただの着火剤」に過ぎなかったという現実に圧倒されていた。
魔力も、闘気も、何一つ練られた気配はなかった。ただ無造作に放たれただけの、剥き出しの右ストレート。
それが、深層の絶対的な脅威を一瞬で消し去った。その理外の事象を前に、彼女たちはただ沈黙するしかなかった。
「……あー、やっぱり壊れちゃったか。美沙さん、ごめん」
水を打ったような静寂の中、間延びした男の声が響いた。
ドクは右手を顔の高さまで上げ、困ったように眉を下げていた。
彼の太い指を包み込んでいた特製のナックルガードは、ドクの放った規格外の出力に耐えきり、その役目を果たした直後、限界を迎えてパラパラと灰のように崩れ落ちていった。複雑な魔力伝導の幾何学模様が刻まれた金属片が、風に吹かれて砂に還る。
徹夜で仕上げてくれた職人の魂が込められた一品だっただけに、ドクの顔には本気の申し訳なさが浮かんでいる。
そのすぐ隣。
ドクの背後からその一撃の始終を見届けていた美沙は、灰となって消えていく自身の最高傑作を見つめ、フッと不敵な笑みをこぼした。
「……馬鹿野郎。一発は保ったろ? アタシの勝ちだ」
震える手でポケットからタバコを取り出し、ジッポライターの火を何度も空振りさせながら、ようやく火をつける。深く吸い込んだ煙を長く吐き出しながら、美沙はドクの分厚い背中を頼もしげに、力強く叩いた。
「アタシの計算をぶっちぎる出力なんて、大したバケモノだよ、アンタは」
その呟きがトリガーとなった。
上空でホバリングしていた数十機の公式ドローンが、レンズの焦点を合わせ直し、一斉にドクの姿をクローズアップする。
世界中の数千万人が同時に見つめていた『D-Tube』の配信画面。
異常なまでのアクセス集中と、視聴者全員が言葉を失ったことによる、数秒間の完全なコメント停止。
直後。
巨大なサーバーの処理能力を物理的に焼き切らんばかりの、狂乱の波が押し寄せた。
【は?】
【消えた】
【今の、何?】
【おっさん!? あの荷物持ちのおっさんがやったのか!?】
【魔法? いや、詠唱してないぞ!】
【俺の目がおかしいのか? ただ殴ったようにしか見えなかったんだが!?】
【Sランクのエレナのバフが乗ってたとはいえ、あり得ないだろ!!】
【深層ボスが、三種類まとめてワンパン……!?】
【フェイク動画じゃないのか!? 生配信だぞこれ!?】
滝のように流れるコメントは、もはや言語の体を成していなかった。英語、日本語、スペイン語、アラビア語、あらゆる言語の絶叫が入り乱れ、画面の隙間を完全に文字で埋め尽くしていく。
そして、それに続くのは爆発的なドネーションの嵐だった。
『10,000 USD』
『500,000 JPY』
『5,000 EUR』
『10,000,000 KRW』
画面の右側に、見たこともない額面の数字が次々とポップアップし、花火のようなエフェクトが重なり合って画面を埋め尽くす。
各国の大手ギルド、富裕層のパトロン、さらには匿名の国家機関らしきアカウントまでもが、この理解不能な「力」に対して、狂ったようにリソースを投げ打っていた。
「ドクさん!!」
そんなデジタルの向こう側の狂乱など露知らず、瞳がショートスピアを放り出して駆け寄ってきた。
足元からは、ベルベットの小袋から首を抜いたコロが「ワフッ! ワフッ!」と短い尻尾をちぎれんばかりに振って飛びかかってくる。
「ああ、瞳ちゃん。怪我はなかったか? コロも無事みたいだな」
ドクはいつものようにニコニコと笑い、飛びついてきたコロを片手でひょいと抱き上げた。
世界を滅ぼしかけた破壊の余韻など微塵もない、ただの人が良いおっさんの顔だった。
「怪我は、ありません……ドクさんが、全部……」
瞳は膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、ドクの分厚い胸板にすがりついた。極限の緊張と恐怖から解放された反動で、目から大粒の涙が溢れ出し、ドクの服の胸元を濡らしていく。
「よしよし、怖かったよな。もう大丈夫だ」
ドクは空いた方の手で、瞳の頭をポンポンと優しく撫でた。分厚く、タコだらけの無骨な手が、瞳に確かな安心感を与えていく。
「いやぁ……それにしても」
ドクはふう、と息を吐き、自分の腹の辺りをさすった。
「なんだか、すごくお腹が空いたな。やっぱり、慣れないことをすると体力をかなり使うみたいだ」
莫大なストックを解放した反動、というわけではないだろう。ただ純粋に、昼食の時間が過ぎていたのだ。
ドクはコロを肩に乗せ、ひび割れためくれたアスファルトの上に置いたまま無傷だった巨大なバックパックの元へ、のっそりと歩いていく。
「……ははっ、アハハハハハッ!!」
突如、クロエの腹の底から響くような大爆笑が静寂を破った。
「最高だ! 最高じゃねえかタナカ! なんだよ今のデタラメなパンチは! アタシにもそのうち一発食らわせてくれよ!」
「勘弁してくれよクロエ。あれはエレナさんの魔法のおかげだ。俺一人の力じゃない」
ドクはバックパックの留め金を外し、中から手際よく調理器具を取り出し始めた。
「謙遜は美徳だけど、あれはやりすぎよ、ドク」
ルシアがヒールの音を響かせて歩み寄る。その赤い唇には、熱を帯びた艶やかな笑みが浮かんでいた。
「私の見込んだ通り……いえ、それ以上だったわ。本当に、底が知れない男ね」
「おじさん、また何か作るの?」
アリサラも、瓦礫の上を軽やかに跳ねてドクの横に降り立った。
「こんな状況でご飯作るとか、神経太すぎない?」
「腹が減っては戦はできないって言うだろ。もう戦いは終わったみたいだけど」
ドクは、半壊したテントの残骸から無事だった平らな石を拾い上げ、手慣れた動作でその上に卓上魔導コンロをセットした。
「昨日の晩飯の余りで、タコスの材料があるんだ。みんなも食べるか?」
「食べる!」
即答したのは、涙を拭った瞳だった。呆れと安堵が入り交じった顔をしているが、ドクの料理の味を誰よりも知っている彼女の胃袋は、あの匂いを想像しただけですでに臨戦態勢に入っていた。
「おっさん、アタシのは特盛りハラペーニョ増しにしな!」
美沙がくわえタバコのまま、ドクの隣に腰を下ろしてパイプ椅子をギシッと鳴らす。
「はいはい、了解。少し待っててくれ。すぐにできるから」
ドクは小さなクーラーボックスから食材を取り出す。
カチッ、とコンロに火を点ける。
分厚い鉄のフライパンを熱し、牛の粗挽き肉を投入した。
ジューッ! という暴力的な音と共に、肉の脂が弾け、香ばしい匂いが立ち上る。
ドクは肉の表面にこんがりと焼き色がつくのを待ってから、木べらで手早くほぐしていく。そこへ、小さなタッパーに小分けにしておいた特製のスパイスミックスを振り入れた。
クミン、コリアンダー、チリパウダー、オレガノ、そしてガーリックパウダー。
熱せられたスパイスの香りが一気に爆発し、焦げ臭かった戦場の空気を、強烈な食欲をそそる匂いへと強引に上書きしていく。
「……な、なんだいこの匂いは。胃袋を直接鷲掴みにされるような……」
少し離れた場所でへたり込んでいたエレナが、フラフラと立ち上がり、吸い寄せられるように近づいてきた。
「エレナさんも、さっきはすごい魔法をありがとう。おかげで助かったよ」
ドクはフライパンを振りながら、にっこりと微笑んだ。
「お礼と言っちゃなんだけど、特盛りで作るからね」
ドクは肉を弱火で煮込みながら、まな板の上でフレッシュサルサ・ピコデガヨを作り始める。
熟したトマトの赤、玉ねぎの白、ハラペーニョの緑。長年の日雇い生活で培われた無駄のない包丁さばきで、食材が均一な賽の目に刻まれていく。トントントン、という小気味よい音が響く。
そこへ塩をひとつまみ振り、半分に切ったフレッシュなライムを力強く搾る。柑橘の爽やかな香りが弾け、最後に少量のパクチーを和えて完成だ。
「よし、生地を温めるぞ」
ドクは別のコンロに網を置き、トウモロコシ粉で作られたトルティーヤを直火でさっと炙る。
表面に微かな焦げ目がつき、トウモロコシ特有の甘く香ばしい匂いが漂った瞬間、手早く皿に移す。
炙りたての熱いトルティーヤの上に、スパイスの効いた熱々のタコスミートをたっぷりと乗せ、その上に冷たいフレッシュサルサを乗せる。
仕上げに、シュレッドされたチェダーチーズを散らすと、肉の熱でチーズがとろりと溶け始めた。
「はい、お待たせ。熱いうちに食べてくれ」
ドクが差し出した紙皿を、Sランクのトップエクスプローラーたちと、駆け出しのマネージャー、そして一流の魔道具技師が、我先にと受け取った。
「いただきまーす!」
瞳が両手でタコスを持ち、大きく口を開けてかじりつく。
パリッとした生地の食感の直後、スパイシーな肉の旨味と、ライムの酸味が効いた冷たいサルサが口の中で完璧に混ざり合う。ハラペーニョのピリッとした辛さを、溶けたチーズがまろやかに包み込んでいた。
「んんっ!! 美味しいっ! ドクさん、これ最高です!」
「ハハハ! こいつはビールが欲しくなる味だな!」
「……信じられない。こんなジャンクな料理が、五ツ星レストランのフルコースより美味しく感じるなんて」
「アタシのハラペーニョ増し、バッチリ効いてるじゃないか。最高だよ、おっさん」
崩壊したイベント会場の片隅で、最強の女たちがタコスを頬張りながら満面の笑顔を見せる。
その様子を、ドローンは静かに配信し続けていた。
コメント欄には、「おっさん強すぎ」「料理もプロ級かよ」「俺もタコス食いたい」「あのSランクたちを完全に手懐けてる……」といった書き込みが、今度は和やかなスピードで途切れることなく流れ続けていた。
ただ一人。
遠く離れた瓦礫の陰から、その光景を血走った目で見つめ、歯を食いしばっている男の存在を除いては。




