第35話 最強のストック解放
ドクが地面に下ろした総重量100キロを超える巨大なバックパックは、ひび割れ、熱で柔らかくなったアスファルトに深々とめり込み、微動だにしなかった。
その巨大な塊の横で、場違いなほど小さな黒い毛玉が、不器用にもぞもぞと動いていた。
フェンリル・パピーのコロだ。
コロの頭は、先ほど美沙が特製ナックルを取り出した、無駄に豪奢なベルベット生地の小袋にすっぽりと収まっていた。魔道具店の高級な特注品らしく、内側には魔力遮断の滑らかな裏地が張られている。
地鳴りのような轟音が響き、ドロドロに溶けたアスファルトから熱風が吹き荒れる中、コロはそのツルツルとした手触りがよほど気に入ったのか、袋の中に頭を突っ込んだまま前足で生地をホリホリと掻き、短い尻尾をパタパタと小刻みに揺らしている。
カサカサ、スリスリ。
世界が終わるような惨状の真ん中で、高級な袋遊びに夢中になっているその姿は、あまりにも間の抜けたものだった。
瞳はショートスピアを握り締めたまま、その小さく揺れる尻尾を呆然と見下ろした。
極限まで張り詰めていた心臓の鼓動が、ほんの少しだけ落ち着きを取り戻すのを感じる。
(……そうだ。ドクさんが前に出たんだ。なら、もう何も心配いらない)
瞳は小さく息を吐き、前方に立つ分厚い背中へ視線を向けた。
★★★★★★★★★★★
「きゃあああっ!」
「逃げろ! 潰される!」
逃げ惑う人々の悲鳴を背に受けながら、ドクはゆっくりと歩を進めた。
数万人がひしめき合っていたイベント会場は、すでに原形を留めていない。ひしゃげた鉄骨、燃え盛るテントの残骸。ドロドロに融解したアスファルトから立ち昇る、プラスチックやゴムが焦げた刺すような悪臭が、肺の粘膜を焼くように刺激してくる。
前線の最前列。
かつてドクを囮にして逃げたAランクパーティ『紅蓮の剣』の聖女マリアは、腰を抜かし、無様に地面へ這いつくばっていた。
すでに自身の身を守るための白銀の杖はレオに突き飛ばされた拍子に失い、頼みの綱だった『シールド』もとうの昔に砕け散っている。純白だったはずの神官服は土埃と煤でドロドロに汚れ、美しかった金髪は乱れきっていた。
「あ、ああ……! 嫌、嫌っ……死にたくない……っ!」
目前には、全身からマグマを滴らせる深層ボス『溶岩の獣』が迫っていた。
巨体が動くたびに放たれる数千度の熱波が、マリアの皮膚をじりじりと焦がし始める。もはや逃げる気力すら残っていない彼女は、顔を両手で覆い、ガタガタと震えながらただ絶望の結末から目を固く閉じた。
だが。
彼女を丸焦げにするはずだった致死の熱波は、いつまで経っても届かなかった。
代わりに感じたのは、ひんやりとした不自然なほどの冷涼な空気だった。
「……え?」
恐る恐る目を開けたマリアの視界を塞ぐように、漆黒のツナギを着た、ひどく見覚えのある分厚い背中が立ち塞がっていた。
ドクだった。
彼は、マリアを庇うように彼女の前に立ち、迫り来る『溶岩の獣』の異常な熱風を、ただ静かに右腕をかざして正面から受け止めていた。
いや、受け止めているのではない。
ドクの身体に触れる直前、空気を歪ませるほどの超高熱が、プンッ、という間の抜けた音と共に、見えない虚空の穴に次々と「吸い込まれて」消失していくのだ。
物理法則を完全に無視したその現象によって、ドクの背後にいるマリアの周囲だけが、まるで夏のエアコンの効いた室内のように涼しく保たれていた。
「な……っ!? あんた、ここで何やって……!」
マリアがかすれた声で叫んだ。それは、恐怖を誤魔化すための反射的な怒声だった。
ドクは振り返らず、前方だけを見据えて静かに言った。
「下がっていてください。ここは危ないですから」
「馬鹿なこと言わないで! ただの荷物持ちのあんたに、何ができるって……」
マリアの言葉を掻き消すように、前方の景色が最悪の形で動いた。
全身からマグマを滴らせ、周囲のビルをドロドロに溶かしながら前進する『溶岩の獣』。
無数の刃のような足で大地をすり潰し、重機のような駆動音を響かせながら向かってくる三頭の『鋼鉄の百足』。
そして、逃げ惑う人々を物色するように長い首をうねらせる『六頭の蛇』。
深層クラスのボス群が、自身の前を遮るちっぽけな人間の存在に気づき、一斉に明確な敵意を向けた。
鼓膜を突き破るような複数の咆哮が重なり合い、物理的な衝撃波となって八王子の街を揺らす。
逃げ遅れた一般客たちが絶望の悲鳴を上げ、後方で這いずっていたレオが頭を抱えてうずくまった。
だが、ドクの表情に一切の揺らぎはなかった。
彼は、両手にはめたナックルを胸の前で軽く打ち合わせた。
カキン、という澄んだ金属音が鳴る。
美沙が徹夜で打ち上げた、最高硬度の特殊合金。魔力伝導の幾何学模様が刻まれたそれは、ドクの手のひらから伝わる『何か』に呼応し、微かな共鳴音を立て始めていた。
(一発だけ、か)
ドクは右足を半歩引き、腰を落とした。
右腕を後ろへ引く。
長年の重労働でタコだらけになった太い指が、ナックルのグリップをきつく握り込んだ。
その瞬間。
ドクの身体の奥底に沈んでいた底なしの『海』が、静かに波打った。
彼がこの十数年間、裏方の荷物持ちとして酷使され、その身に受け続けてきたもの。
モンスターの鋭い爪によって肉を裂かれた感触。味方の魔法の余波で皮膚が焼け爛れた熱。理不尽な暴力で関節を砕かれ、骨が軋む音。そして、這いつくばって泥水をすすりながら、ただ明日生き延びるためだけに耐え忍んだ、惨めで重苦しい時間。
到底一人では抱えきれないはずの、気の遠くなるような苦痛の記憶。
途方もない量の『負のエネルギー』。
それに加えて。
先日のイベントで、Sランク聖騎士エレナ・ヴェーバーから直接撃ち込まれた『限界突破』と『聖盾の加護』。
Aランクの重戦士ですら肉体が破裂するほどの、ヨーロッパ最高峰の『極大の祝福』。
マイナスとプラス。
絶対に交わるはずのない二つの規格外のエネルギーが、ドクの体内で圧縮され、融合し、右腕へと一気に収束していく。
ギリ、ギリィッ……!
美沙の特製ナックルが、その異常な密度に耐えきれず、放つ前からすでに悲鳴を上げ始めた。
「グルルルルォォォォォッ!!」
溶岩の獣が大地を蹴り、巨大な質量となってドクへ跳躍した。
同時に、三頭の鋼鉄の百足が左右から顎を広げて迫り、六頭の蛇が一斉に毒牙を剥いて飛びかかってくる。
上空と左右、すべての退路を塞ぐ、回避不能の死の壁。
ドクは、目前に迫る凶悪な牙や熱波を前にしても、ただ静かに右拳を握り込んでいた。
足場のアスファルトが、彼自身の踏み込みの圧力に耐えきれず、すり鉢状に粉々に砕け沈む。
「――っ」
短く、鋭い呼気。
ドクは、引き絞った右拳を、真っ直ぐに前方へ打ち出した。
それは、洗練された格闘技のフォームでも、魔法の詠唱を伴う大技でもない。
ただの、大振りのストレート。
――直後。
八王子の街から、一切の「音」が消失した。
ドクの拳の先から放たれたのは、空気の振動すら許さないほどの、圧倒的な光の奔流だった。
純白に輝くそのエネルギーの柱は、エレナの聖なる光を帯びながら、過去にドクが受けた無数の破壊の記憶を乗せて、空間そのものを抉り取るように前進した。
跳躍していた溶岩の獣が、その光に触れた。
断末魔を上げる暇すらなく、数万度の熱を放っていた巨体が、まるで最初から存在しなかったかのように原子レベルで消滅した。
左右から迫っていた鋼鉄の百足の分厚い装甲が、触れた瞬間、跡形もなく掻き消えるように蒸発する。
六頭の蛇は、その光の余波に巻き込まれただけで微塵に粉砕され、霧散した。
光の奔流は止まらない。
ボスの群れを完全に呑み込んだ後、特設ステージの残骸を塵に変え、周囲の被害を最小限に抑えるように絶妙な角度で上空へと逸れ、分厚い噴煙の雲を一直線に穿って天空の彼方へと消え去った。
吹き飛ばされた雲の切れ間から、眩い太陽の光が一直線に差し込む。
パリンッ。
甲高い音を立てて、ドクの右手にはめられていた美沙の特製ナックルが、役目を終えたように粉々に砕け散った。
極限のエネルギー放出に耐えきれず、完全に砂となって風に舞う。
「……やっぱり、一発しか保たなかったな。美沙さんにまた怒られそうだ」
ドクは、少しだけ痺れの残る右手を開いたり閉じたりしながら、落ちた独り言のように呟いた。
風が吹き抜け、巻き上がっていた土埃がゆっくりと晴れていく。
ドクの目の前に広がっていたのは、幅数十メートル、長さ数百メートルにわたって綺麗に抉り取られた大地の巨大な爪痕だけだった。
先ほどまでそこにあった、世界を終わらせるほどの絶望は、もう欠片も残っていない。
背後では、マリアがへたり込んだまま、口をパクパクと開閉させていた。
逃げ遅れていた一般客たちも、這いずっていたレオも、誰も言葉を発することができない。
数万人の群衆が、悲鳴を上げることすら忘れ、呼吸を止め、ただ新しく刻まれた大地の巨大な爪痕を呆然と見つめている。
圧倒的な静寂だけが、そこにあった。
その張り詰めた沈黙を破ったのは、ドクの普段通りの、少し気の抜けた声だった。
ドクはゆっくりと振り返ると、まだガタガタと震えているマリアや、固まっている一般客たちに向かって、申し訳なさそうに頭を掻きながら言った。
「怪我、ないですか? 終わったみたいですよ」
その直後、後方から「クフゥン」というくぐもった声が聞こえた。
見れば、コロが高級なベルベットの小袋から自力で抜け出せず、袋を頭に被ったままトコトコと明後日の方向へ歩き出しているところだった。
ドクはふっと苦笑いを浮かべ、タコだらけの手を伸ばしながら、コロの元へと歩き出した。




