第34話 おっさん、再び前に出る
肺を焼くような熱風が吹き荒れ、八王子駅前の空気は完全に赤黒く染まっていた。
アスファルトはドロドロに融解し、靴底が焦げる嫌な臭いが鼻を突く。熱膨張に耐えきれなくなったコンクリートブロックが次々と爆ぜ、崩落した特設ステージの残骸が天に向かって火柱を上げている。
「きゃあああっ!」
「嫌だ、死にたくない!」
逃げ惑う数万人の観衆の悲鳴と、深層ボスたちが大地を砕く地響きが交錯し、東側ゲート付近は完全な阿鼻叫喚の地獄と化していた。
マリアが構える白銀の杖から展開された『シールド』は、表面から細かい亀裂を生じさせ、目前に迫る溶岩の獣が放つ異常な熱量をすでに防ぎきれていない。純白だったはずの神官服は煤と泥に汚れ、彼女の美しい顔は脂汗と絶望で歪んでいた。
そんな最前線の混沌の真ん中、マリアと溶岩の獣との間に、ドクは静かに歩み出た。
巨大なバックパックを背負った彼の視界の端で、醜悪な光景が展開されていた。
かつての雇い主であるAランク探索者、レオの姿だ。
彼は借金をして新調したばかりの大剣を無造作に放り捨て、なりふり構わず安全な後方へと這いずって逃げている。その過程で、逃げ遅れてうずくまっていた子供連れの母親の肩を、自身の進路の邪魔になったというだけの理由で荒々しく蹴り飛ばし、泣き叫ぶ若者の背中を泥まみれのブーツで踏み台にして人ごみを掻き分けていた。
ドクの表情から、いつものヘラヘラとした人の良さそうな愛想笑いがスッと消え去った。
そこに怒りはない。ただ、目の前で起きている事象を冷徹に観察し、自分が今ここで何をすべきかを見極めるための、静かで底知れない男の顔だった。
「ドクさん!」
背後から、熱気と粉塵を切り裂くようにして悲痛な声が響いた。
瞳、美沙、エレナの三人だ。崩れ落ちる瓦礫を抜け、逃げ惑う人々の波を逆流してきた彼女たちの服は煤け、息は荒く乱れている。
「瞳ちゃん、美沙さん、エレナさんも。怪我は」
瞳が駆け寄ると同時、彼女の腕の中から小さな黒い毛玉――フェンリル・パピーのコロが、ドクの足元へと転がり降りた。
しかし、普段なら主人の足元を無邪気に跳ね回るはずのコロは、アスファルトの上でガタガタと小刻みに震え、一歩も動こうとしなかった。
コロの潤んだ黒い瞳は、遠くで咆哮を上げる溶岩の獣や、建物を粉砕する鋼鉄の百足に向けられているのではない。
コロは、ドクの背後に広がる目に見えない圧倒的な気配に完全に呑まれ、怯えきったように身を縮めていたのだ。Aランク魔獣であるコロの野生の本能は、物理的な破壊を撒き散らす深層ボスよりも、ドクの背後に静かに渦巻く死の気配の方に、最大の恐怖と警鐘を感じ取っていた。
ドクはゆっくりと腰を落とし、震える小さな頭をタコだらけのごつい手で優しく撫でた。
「コロ。怖いのか。……無理もないな」
タコだらけの手のひらの温もりに触れ、コロは「クゥン……」と細い声を出して、ドクの頑丈なブーツの側面にすり寄った。それでも、恐怖による震えは止まらない。
ドクは立ち上がり、周囲の戦況を視線だけで素早く把握する。
遠方では、ルシアが放つ紅蓮の炎が溶岩の獣の巨体を押し留めようと荒れ狂っているが、獣の放つ熱量が炎を上回り、周囲の酸素を凄まじい勢いで奪っていく。クロエの拳が鋼鉄の百足の甲殻を殴りつけて鼓膜を破るような爆音を響かせているが、無数の刃のような足が彼女の退路を削り取り、反撃の隙を与えない。少し離れた場所では、アリサラの不可視の罠が六頭の蛇の首を幾つも切り裂き、その不気味な動きを阻害しているが、ボスの異常な再生速度の前に罠の展開が追いついていなかった。
彼女たちは間違いなく世界最高峰の戦力だ。
しかし、四方八方に逃げ惑う一般客を背後に庇い、これ以上の街の破壊を防ぎながらという絶対的な縛りがある以上、敵の質量と数があまりにも多すぎた。徐々に防衛線が押し込まれ、被害が拡大していくのは素人目にも明らかだった。
「瞳ちゃん。コロを頼む。ここはこれからもっと危なくなる。安全な場所まで下がっててくれ」
ドクは瞳にそう告げると、再びしゃがみ込み、コロの真っ直ぐな瞳を見つめた。
「コロ。伏せ。ここで待てだ」
声に威圧感はない。だが、一切の妥協を許さない真剣な響きがあった。
コロは一瞬戸惑ったように小首を傾げたが、すぐに短い前足をピンと前へ伸ばし、ふくよかなお腹を地面にぺたんと押し付けた。ピンク色の肉球で熱いアスファルトを踏みしめ、ピンと立っていた耳を後ろにペタンと寝かせる。極度の恐怖の中でも、大好きな主人の命令を一生懸命に守ろうとする、健気で愛らしい完璧な『伏せ』の姿勢だった。
「いい子だ」
ドクは一度だけその背中を撫で、立ち上がった。
「おっさん。アタシらの心配してる場合じゃないよ。状況は最悪だ」
美沙が顔の煤を手の甲で拭いながら、忌々しそうに舌打ちをする。
エレナが白銀の杖を握り直し、鋭い視線で戦場を睨みつけながら早口で告げた。
「敵の質量が規格外すぎるわ。ルシアたちの火力でも、削り切る前に周囲の被害が拡大する。前線を完全に固定できる絶対的な壁が必要だけど、今この場にあの三体を引き受けられる人間なんて……」
エレナは言葉を切り、ドクを見た。
ドクは、逃げ惑う群衆と、崩れ落ちていくビル群を静かに見つめていた。
「美沙さん」
「……なんだい」
「このツナギ、少し汚してもいいですか」
美沙は短く鼻を鳴らした。そして自身の腰のツールポーチに手を突っ込み、何かを取り出して、ドクの分厚い胸板に力強く押し付けた。
「汚すどころか、糸のほつれ一つ作ったら承知しないよ。……ほら、手を出しな」
彼女が押し付けたのは、鈍い鉛色の光を放つ、特殊合金製の重厚なナックルガードだった。表面には複雑な魔力伝導の幾何学模様が刻み込まれ、職人の執念のような熱を帯びている。
「大急ぎで微調整した。アンタの馬鹿みたいな出力に耐えられる素材なんて、そうそうない。でも、これなら……一発だけなら、確実に保つ」
「一発」
「ああ。一発で決めな」
ドクは手渡されたナックルを両手にはめ、軽く拳を握り込んだ。冷たい金属の感触が、タコだらけの太い指に吸い付くように馴染む。極限まで計算された職人の業が、彼の拳に確かな重みを与えていた。
「ありがとう。一発で十分です」
ドクは、肩に深く食い込んでいた極太の肩紐を両手で掴んだ。
総重量100キロを超える、巨大なバックパック。中には大量のポーション瓶、予備の武器、野営用のテントや工具などが隙間なく詰め込まれ、彼が一歩動くたびに中身が重々しい音を立てていた。
ドクはそれを、ドスン、と地響きを立ててアスファルトに下ろした。
土埃が舞い上がり、重みに耐えかねた地面のブロックが放射状にひび割れてパラパラと小石が跳ねる。
「瞳ちゃん」
「は、はい!」
「今日は、荷物は置いていきます」
その言葉と、足元に置かれた巨大なバックパック。
ドクの行動の重みを痛いほどに理解した瞳は、「……はいっ!」と短く、力強く頷いた。
ドクはエレナに向き直った。
「エレナさん。バフを、お願いします」
「……本当に、行くのね」
エレナのブルーグリーンの瞳が、ドクの真っ直ぐな漆黒の瞳を射抜く。彼女の声には、かつてないほどの緊張が走っていた。
「前に言ったはずよ。私の全力は、人間の器じゃ耐えられない。確実に命を落とすわよ」
「俺は、結構頑丈にできてるんで」
短い応酬。
ドクの声には一切の気負いも、恐怖もなかった。ただ、目の前の仕事をこなす前の、静かな確認作業でしかない。
エレナはドクの揺るぎない底力を見て、小さく息を吐き、そして不敵に微笑んだ。
「……後悔しないことね」
エレナは白銀の杖を高く掲げ、自身の内にあるリミッターを完全に解除した。
彼女の足元の瓦礫が、溢れ出す魔力の密度に耐えきれずにフワリと宙に浮き上がる。空気がビリビリと物理的に震え、焦げ臭い熱風を掻き消すほどの神聖で冷たい空気が周囲を満たした。
「『聖盾の加護』! 『限界突破』!!」
短い詠唱と共に、夜の闇を切り裂くような極大の光の柱が放たれた。それは分厚い噴煙の雲に穴を開けるほどの凄まじい規模で天を突き抜け、ドクの身体を完全に包み込んだ。
ヨーロッパ最高峰のサポーターが放つ、文字通りの『全力』。
Aランクの重戦士ですら悲鳴を上げる、暴力的で高密度な光の奔流。
だが。
数秒後、光がスッと収まった跡には、着ているツナギの裾すら乱していない、平然としたドクの姿があった。
過剰なまでのエネルギーは、すべての光が一点に圧縮されるように、彼の内なる底なしの器に何の抵抗もなく吸い込まれていた。
「……本当に出鱈目な器」
エレナが呆れたように、しかしどこか嬉しそうに呟く。
ドクは首を軽く左右に振ってコキリと鳴らし、前を向いた。
戦場では、溶岩の獣が新たな咆哮を上げ、百足が装甲車を紙くずのように跳ね飛ばしている。
ドクは、ただの荷物持ちの鈍重な足取りではなく、洗練された武術家のような一切の無駄のない歩法で、静かに、そして真っ直ぐに前線へと歩みを進めた。
その広く分厚い背中を、瞳、美沙、エレナの三人が無言で見つめていた。足元のコロだけが、伏せの姿勢のまま短い尻尾を微かに振っている。




