↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
Fランクおっさん荷物持ち、無自覚ワンパン配信で世界最強に成り上がる  作者: 伊達ジン


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
33/52

第33話 『紅蓮の剣』の無様

 肺を焼くような熱風が、八王子の空気を完全に支配していた。


 空はドス黒い噴煙で覆われ、真昼だというのに太陽の光は分厚い雲の向こう側へと遮られている。代わりに周囲を不気味に照らし出しているのは、崩落したビル群から上がる赤黒い炎と、無惨に捲れ上がった大地から噴き出すマグマの毒々しい輝きだった。

 かつては美しく舗装されていたアスファルトは原型を留めずドロドロに融解し、歩道のブロックは熱膨張に耐えきれずに次々と小規模な爆発を起こしている。靴底のゴムが焦げる異臭、プラスチック製品が溶ける化学的な悪臭、そして正体のわからない何かが焼ける嫌な匂いが混ざり合い、呼吸をするだけで喉の粘膜が焼け焦げそうになる。

 特設ステージの周囲に集まっていた数万人の観衆は、突然の深層ボスの出現によって完全にパニックに陥っていた。将棋倒しになりかけた人々の怒号と、母親とはぐれた子供の悲鳴が、地響きと共に耳をつんざく。


 逃げ遅れた数十人の一般客や下級探索者たちを背後に庇う形になってしまっていた『紅蓮の剣』のリーダー、レオは、迫り来る溶岩の獣を前に、自身の呼吸が浅く、そして異様に早くなっていることに気づいていた。


「マリア……シールド、もっと前だ! 熱が届いてるだろうが!」


 レオは血走った目で怒鳴り散らし、無様に後ずさる。

 彼の手には最新の魔法金属で打たれた大剣が握られているが、その重さを支える両腕は情けないほどに震え、切っ先はフラフラと定まらない。普段なら軽々と振り回し、モンスターを両断してきたはずの愛剣が、今はただの重い鉄の塊にしか感じられなかった。指先は汗で滑り、柄を握る力すら抜けていく。

 Aランク探索者としての矜持など、とうの昔に消し飛んでいた。

 目の前にいるのは、彼らが普段中層で相手にしているモンスターなどではない。純粋な質量、暴力的な熱量、そして何より、生物としての格の違いを雄弁に物語る圧倒的な「死の気配」。深層クラスのバケモノが放つそのプレッシャーを至近距離で浴びて、レオの精神はすでに限界を迎えていた。獣が一歩踏み出すたびに大地が激しく揺れ、その振動がレオの胃の腑を直接殴りつけてくる。


「無理よ……っ! これ以上は、魔力が……!」


 純白の神官服を煤と灰で黒く汚したマリアが、悲痛な声を上げる。

 彼女の持つ杖の先端から展開された光の盾は、溶岩の獣が発する熱波に炙られ続け、今にも弾け飛びそうなほど薄く引き伸ばされていた。バキバキと、分厚い氷に亀裂が入るような不吉な音が鳴り続けている。

 マリアの顔は蒼白で、額からは滝のように汗が流れ落ちている。呼吸は乱れ、両膝はガクガクと震え、立っているのがやっとの状態だった。盾越しでさえ、肌を刺すような熱気で前髪がチリチリと焦げ始めている。彼女の魔力回路は悲鳴を上げ、これ以上の出力は肉体の崩壊を意味していた。彼女もまた、限界だった。


「グルルルゥゥ……ッ!!」


 溶岩の獣が、眼前の鬱陶しい光の盾を粉砕すべく、天地を震わせる咆哮と共に太い丸太のような前足を大きく振り上げた。

 その腕にはドロドロに溶けた岩石が纏わりつき、周囲の酸素を燃やし尽くしながら振り下ろしの軌道に入っていく。

 その瞬間。

 レオの頭の中で、張り詰めていた細い糸が、プツンと音を立てて切れた。


(……死ぬ)


 確信だった。

 あの前足が振り下ろされれば、マリアのシールドごと自分は潰され、ミンチになり、そして跡形もなく焼き尽くされる。

 死にたくない。

 俺は選ばれた人間だ。何万というファンを抱え、莫大な金を稼ぎ、いずれはSランクにまで上り詰めるはずの才能。こんな泥に塗れた場所で、こんな名もなきバケモノに惨たらしく殺されてたまるか。死んでなるものか。

 剥き出しの生存本能が、レオの脳内に一つの明確な「最適解」を弾き出した。


 かつて、未踏エリアで死に直面した時。

 彼は迷うことなく、不要な荷物持ちを物理的な「盾」として切り捨てた。結果として、自分は無傷で生還できた。

 あれは正しかった。

 生き残るためなら、他者を犠牲にすることは何一つ間違っていない。自分が生き延びること以上に優先されるべき事象など、この世に存在しない。


 レオは、一歩だけ前に出ていたマリアの背中を見つめた。

 彼女は必死に両手で杖を握り締め、獣の攻撃をコンマ一秒でも遅らせようと、なけなしの魔力を振り絞っている。


「……レオ?」


 背後の不自然な気配、あるいは魔力の供給が途絶えたことに気づき、マリアが振り返ろうとした。

 その顔に、レオは迷うことなく両手を伸ばした。

 そして。

 彼女の華奢な背中を、思い切り、獣の正面へ向かって突き飛ばした。


「え……?」


 間の抜けた声が漏れる。

 バランスを崩したマリアが、杖を取り落とし、溶岩の熱波が渦巻く前方へと無防備に倒れ込む。同時に、彼女の魔力供給を失った光の盾が、呆気なくパリンと砕け散った。

 レオは、倒れゆく長年のパートナーには一切目もくれず、完全に無防備になった背中を見せて、全速力で駆け出した。自分の命を守るはずの大剣すら今はただ邪魔になり、その場に放り捨てた。


「どけ! 邪魔だ!! 離れろぉっ!!」


 彼は、自分を頼りにして背後で固まっていた一般客の群れに、自ら猛然と突っ込んだ。

 逃げ遅れた人々を、まさに追撃を防ぐ「肉の壁」として利用するために。

 泣き叫ぶ子供の手を引いて蹲っていた母親の肩を力任せに蹴り飛ばし、パニックで立ち尽くしていた若者の胸ぐらを使って自分だけ前へ進む。逃げ惑う人々の波を乱暴に掻き分け、足元に倒れ込んだ老人を踏みつけ、悲鳴や怒号など一切耳に入らない。ただ自身の生存だけを至上命題として、群衆のさらに奥へ、奥へと醜悪に潜り込んでいく。


 上空では、イベント運営が配備した数十機の高画質公式ドローンが、無慈悲なレンズをレオの逃走劇に向けながらホバリングしていた。


★★★★★★★★★★★


 同じ頃。

 瓦礫の山と化した会場の端にある、ギルド関係者用の待機テントのそばで。


「クンッ……クンッ……アゥゥゥン……」


 ドクの足元で、黒い毛玉のようなフェンリル・パピーのコロが、普段のやんちゃな姿からは想像もつかないほど怯えきっていた。

 コロは、遠くで暴れ回る溶岩の獣や百足の方を見ているわけではなかった。

 ドクの背後の虚空をじっと見つめ、悲鳴すら上げられずに床にへばりついていた。本能が最大の警鐘を鳴らし、全身の毛が粟立っている。


「どうした、コロ? 腹でも痛いのか?」


 ドクは大きなバックパックの肩紐を握り直しながら、不思議そうに足元を見下ろした。

 コロは首を横に振り、さらにドクのブーツの裏へ潜り込もうとする。その黒い瞳は、相変わらずドクの背後の空間を恐ろしげに見つめたままだ。前足で自分の目を隠すようにして、小さく丸まっている。


「もしかして、お前……霊感とかあるのか? 幽霊でも見えてるのか?」


 ドクは呑気な声を出して、しゃがみ込んでコロの頭を撫でた。

 コロの恐怖の対象が自分であることなど露知らず、大きな手で優しく黒い毛並みを梳いてやる。


「まあ、こんなデカいモンスターが何匹も暴れてたら、そりゃ怖いよな。よしよし、お前はここで大人しくしてな」


 ドクは全く見当違いな解釈をして優しく微笑むと、コロの頭をもう一度ポンと叩いて立ち上がった。

 そして、熱風が吹き荒れる前方へと視線を向ける。


★★★★★★★★★★★


 視線の先では、マリアが絶望的な顔で地面に倒れ伏していた。

 アスファルトの熱で純白の神官服が黒く変色し、不快な煙を上げている。手をついたひざや掌からは火傷の痛みが走っているはずだが、彼女の意識はそこにはなかった。

 彼女の視線の先には、今まさに振り下ろされようとしている溶岩の獣の巨大な腕があった。


(……なんで、私が)


 マリアの頭の中は真っ白だった。

 信じていたリーダーに突き飛ばされた。背中を押された手の感触が、まだ鮮明に残っている。自分が生き残るために、一番の身内を盾にしたのだ。

 背後では、逃げ遅れた一般客たちが悲鳴を上げ、恐怖で抱き合い、目を閉じている。自分を踏み台にして逃げていった男の足音は、すでに遠のいていた。

 終わる。すべてが、焼け焦げて消える。

 獣の腕が落ちてくる。熱波が髪を焦がし、皮膚を焼き、死の気配が全身の細胞を蹂躙していく。あまりの恐怖に声すら出ず、マリアはただ目をギュッと閉じることしかできなかった。時間の流れが恐ろしいほど遅く感じられ、溶岩の滴る音が耳元で大きく響く。


 その時だった。


「……少し、どいてくれないか」


 轟音と熱風が吹き荒れ、人々の悲鳴が響き渡る絶望の空間に。

 まるで、近所のコンビニの通路を通るような、ひどく落ち着いた声が響いた。

 聞き間違えるはずのない、長年聞き飽きた、あの冴えない男の声。


 マリアが弾かれたように目を開ける。

 彼女と溶岩の獣の間に。

 巨大なバックパックを背負った、漆黒のツナギ姿の男が、ごく自然な足取りで歩み出ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。