第32話 逃げ遅れた者たち
「怪我はない?」
炎と熱風を背負ったまま、ルシアがドクを振り返る。その艶やかな赤い唇には、絶体絶命の戦場に似合わない余裕の笑みが浮かんでいた。
「ああ。助かったよ、ルシアさん」
ドクが巨大なバックパックの肩紐を握り直し、短く頷いた直後。鼓膜を破るような轟音が、二人の会話を物理的に掻き消した。
アスファルトが爆発するように捲れ上がり、巨大な影がドクの死角から跳躍する。
数十メートルの巨体を持つ鋼鉄の百足だ。重機のような駆動音を響かせ、無数の刃のような足が空気を切り裂きながら、巨大な顎がドクの頭上から迫る。
だが、その凶刃が彼に届くことはなかった。
「よそ見してんじゃねえぞ、ルシア!」
横手から弾丸のような速度で突撃してきたクロエが、百足の振り下ろした顎を素手で正面から受け止めた。
「オラァッ!!」
彼女のしなやかな筋肉が極限まで膨張し、骨が軋む音が響く。クロエは自身の何倍もの質量を持つ鋼鉄の巨体を力任せに持ち上げると、そのまま豪快な背負い投げで無人のビル跡へと叩きつけた。凄まじい地響きと共にビルが完全に倒壊し、濛々と舞い上がる粉塵の中で百足の動きが止まる。
上空では、アリサラが展開した罠がすでに作動していた。
「ちょっと、これ重すぎ……。どんだけ湧いてくるのよ!」
タイトな特殊装備を軋ませながら、アリサラが空中の足場から両手を強く引く。彼女の細い指先から伸びる『不可視の断糸』が、別の地割れから這い出してきた六頭の蛇の首を幾重にも縛り上げていた。見えない鋼の糸が硬質な鱗を削り、火花と体液を撒き散らしながら、巨獣の暴れる力を強引に封じ込めていく。
「陣形を広げすぎないで! 漏れた攻撃は私が弾くわ!」
後方からエレナの凛とした声が響く。彼女が杖を高く掲げると、前線と後方の間に淡く輝く半透明の巨大な盾が展開された。直後、溶岩の獣が吐き出した灼熱のブレスが盾に激突する。防御壁の表面で溶岩が沸騰し、凄まじい水蒸気となって相殺されるが、周囲の空気は一気に乾燥し、肺を焼くような熱気が広がった。
その盾の内側、安全が確保されたエリアでは、ヴィットーリアが膝をついた負傷者たちに静かに手を翳していた。
「大丈夫です。もう痛みは消えますよ。ゆっくり呼吸をしてください」
淡い金色の光が怪我人たちを包み込む。深くえぐれた傷や酷い火傷が瞬く間に塞がっていくのを見て、恐怖で凍りついていた人々の顔に安堵の涙が浮かぶ。
そのすぐ横では、美沙が自作の重機関砲を構え、凶悪な笑みを浮かべて引き金を引いていた。耳をつんざくような銃声と、アスファルトに弾ける空薬莢の金属音。防衛線の隙間を縫って抜けようとする中型や小型のモンスターたちが、彼女の放つ特殊弾頭の前に次々と肉片へと変わっていく。
ズズンッ……ズズズンッ……!
銃身が赤く熱を帯びる中、地鳴りは収まるどころか激しさを増した。
足元のアスファルトがさらに広範囲にわたってひび割れ、地下深くから新たな溶岩の獣や鋼鉄の百足が次々と姿を現す。
巨大なボス級モンスターの巨体が行く手を塞ぐ盾となり、その死角から無数のモンスターたちが隙間を縫って溢れ出そうとしていた。彼女たちはその場を一歩でも動けば陣形が崩壊するため、完全に釘付けにされている。
★★★★★★★★★★★
戦場の中心から少し離れた、ギルド関係者用の待機テント。
何重にも施された最高強度の防音結界によって、その空間は外の世界の終末的な惨状から完全に切り離されていた。
ドクが火を止めたばかりの土鍋からは、炊きあがったばかりの白米の甘い香りが漂っている。小鉢に盛られた肉みそや、柚子風味の塩辛が、平和で温かな匂いをテント内に充満させていた。
テントの奥では、小さな黒い毛玉――フェンリル・パピーのコロが、ピンク色のお腹を晒して無防備に転がっていた。
外の死闘や大パニックなどどこ吹く風で、彼はドクの作ったご飯の匂いに包まれながら、究極のまどろみの中にいる。
「フゥァァ……」
小さな口を限界まで開けて大あくびをすると、コテンと寝返りを打ち、短い前足をハミハミと動かす。
ドクが帰ってきたら、あのおいしいご飯をもらえる。
そんな無邪気な確信だけを抱いて、コロは再びゆっくりと目を閉じた。
★★★★★★★★★★★
イベント会場の東側ゲート付近。
そこは、ルシアたちが死守している防衛線から大きく外れ、逃げ場のない壁に挟まれた完全に孤立したエリアだった。
「ふざけんな……ッ! なんで俺が、こんな目に……!」
Aランクパーティ『紅蓮の剣』のリーダー、レオは、借金をして新調したばかりの大剣を震える手で構え、後ずさっていた。
彼の視線の先には、ルシアたちの防衛線を迂回してやってきた三頭の鋼鉄の百足と、全身からドロドロと溶岩を滴らせる獣が一頭、ゆっくりとこちらへ向かって歩みを進めている。
逃げ遅れた数十人の一般客や下級探索者たちが、レオたちの背後で恐怖に震えながら身を寄せ合っていた。母親の腕の中で泣き叫ぶ子供、スマートフォンを握りしめて祈る若者。彼らは皆、「Aランクの『紅蓮の剣』がいるから助かるかもしれない」という淡い期待を抱いて彼らの後ろに隠れていたのだ。
だが、当のレオの頭の中にあるのは、自身の生存への執着と絶対的な絶望のみだった。
(勝てるわけがねえ! こんなバケモノの群れ、俺の実力じゃどうにもならねえ!)
深層クラスのボスたちが放つ濃密な死のプレッシャーを直接浴び、レオのプライドは完全にへし折られていた。足はすくみ、呼吸は浅い。大剣の重さすら支えきれず、切っ先がガリガリとアスファルトを擦る。
「マリア! シールドだ! もっと分厚く張れ!」
「む、無理よ! さっきからずっと全力で張ってるわ!」
純白の神官服を土埃で汚したマリアが、悲鳴のように叫ぶ。彼女の杖の先から展開されている光の盾は、溶岩の獣が近づいてくるだけで発生する高熱に耐えきれず、表面にピキピキと亀裂が走り、今にも砕け散りそうだった。周囲の屋台の残骸が、獣の熱気で自然発火を始めている。
「役立たずが! だったら回復の準備をしてろ!」
レオは怒鳴り散らすが、彼自身、一歩も前へ出ることすらできずにいた。オーガ・キング戦で見せていたような虚勢すら、完全な絶望を前にして跡形もなく消え失せている。
ギチギチと不快な金属音を立てながら、無機質な複眼を持つ百足の一匹がレオに狙いを定めた。
鎌のように鋭い巨大な前足が、無慈悲に振り上げられる。
「ヒッ……!」
レオは完全に腰を抜かし、情けない悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。
マリアも杖を取り落とし、ただ自分の身を小さく丸めて目を閉じることしかできなかった。背後の群衆から、終わりを悟ったような絶望の悲鳴が上がる。
★★★★★★★★★★★
「東側から別の群れが抜けたわ!」
空中の足場から戦場全体を俯瞰していたアリサラが、鋭い声を上げる。
「チッ!」
クロエが二匹目の百足を殴り飛ばしながら、苛立たしげに舌打ちをした。
エレナとヴィットーリアも、背後の負傷者たちを守る盾の維持と治療に手一杯で、その場から一歩も動くことができない。
その背後で。
ドクは、自身の体重よりも重い巨大なバックパックの肩紐を、ギュッと両手で握り直した。革が軋む低い音が鳴る。
彼の視線は、ルシアたちが抑え込んでいる前方のボス群ではなく、悲鳴が上がっている東側のゲート付近へと真っ直ぐに向けられていた。
「ドク?」
ルシアが振り返る。
ドクは、いつもと変わらない、ただ重い荷物を運ぶ時と同じ平凡で静かな顔をしていた。
「あっち、逃げ遅れた人が固まってるみたいだ」
ドクは短くそう言うと、ルシアの返事を待つことなく歩き出した。
「ちょっと、ドク! そっちは……!」
危険だと制止しようとしたルシアの言葉は、ドクの背中から発せられる微かな、しかし絶対的な『静寂』の気配に呑み込まれた。
ドクは走らない。
ただ一歩一歩、バックパックの重みを感じながら、確実にアスファルトを踏み締めて歩いていく。
炎と砂埃が舞う戦場の中、無骨なブーツの足音だけを響かせながら、彼は迷うことなく東側へと向かっていった。




