第30話 イレギュラー発生
イベント会場の喧騒から少し離れた、ギルド関係者用の待機テント。
分厚い防音生地で仕切られたその空間には、香ばしい醤油と出汁の香りがふわりと漂っていた。外から微かに漏れ聞こえる歓声や実況のアナウンスすら、心地よいBGMのように感じられる。
「屋台のジャンクフードも美味かったけど、やっぱり落ち着くのはこれだよな」
ドクは携帯用の卓上魔導コンロの火力を微調整しながら、一人用の小さな土鍋から立ち上る湯気の匂いに全神経を集中させていた。数秒のタメの後、コンロのスイッチを切る。
「よし、蒸らし終わりだ。蓋を開けるぞ」
土鍋の重い蓋を持ち上げた瞬間、テント内に炊き立ての米の甘い香りが爆発的に充満した。
表面には「カニ穴」と呼ばれる無数の窪みが開き、強い火力で一気に炊き上げられた完璧な証拠を示している。米粒の一つ一つがしっかりと立ち上がり、真珠のように艶やかな光を放っていた。
「うわぁ……ドクさん、本当にお米炊くの上手ですよね。さっきまでお腹いっぱいだと思ってたのに、これを見たら胃袋が完全にリセットされちゃいました。お米の粒がキラキラ光ってます!」
瞳がパイプ椅子に座ったまま、身を乗り出して目を輝かせる。
ドクは「火加減を見てるだけだよ。飯盒炊爨の延長みたいなもんだ」と笑いながら、いくつもの小さなタッパーから常備菜を手際よく小鉢へ移していく。
イカの塩辛には、隠し味として柚子の皮をほんの少しだけ削って散らす。これで生臭さが消え、爽やかな香りが鼻を抜けるようになる。
春先に下層エリアの安全地帯で採集してきた山ウドは、甘辛い佃煮にしてある。独特のほろ苦さが醤油の香ばしさと絡み、強烈に白米を呼ぶ味だ。
さらに、ピリッとした刺激が癖になるチリメン山椒。
浅漬け鉢から取り出したキュウリとカブの漬け物。カブは食感が良くなるように細かく飾り切りが施され、キュウリは塩揉みして千切り生姜と和えてある。
真っ赤な自家製のしそ漬け梅干しを添え、味付け海苔は食べる直前に小型バーナーでサッと炙って磯の香りを限界まで引き出す。
最後に、いつもの『アヅマフード』のフリーズドライみそ汁(ネギと豆腐)に熱湯を注げば、完璧な定食の完成だ。
「はい、どうぞ。質素だけど」
「全然質素じゃないです! いただきます!」
瞳は割り箸をパチンと割り、すぐさま山ウドの佃煮を乗せた白米をかき込んだ。
「んんーっ! このウドの苦味と甘辛さがたまりません! ご飯が止まらなくなります! お肉なんてなくても最高のおかずです!」
「ゆっくり食えよ。塩辛もいってみな。少し柚子を効かせてある」
「はいっ。……んわ、柚子の香りがすごくいい仕事してます! 噛むほどに旨味が出てきて……それにこのみそ汁! お湯を入れただけなのに、どうしてこんなに出汁の香りがしっかりしてるんですか?」
「『アヅマフード』の企業努力だな。野営じゃいつも世話になってる。疲れた体に塩分と出汁が染みるんだ」
「本当に美味しいです。こういうご飯、毎日でも食べたいくらい……」
瞳の幸せそうな食べっぷりを見ながら、ドクも自身の椀を手に取る。
足元では、コロが大人しくAランク魔獣の干し肉をハミハミと噛んでいる。時折、ドクの足にすり寄っては、もっと撫でてくれと甘えるような仕草を見せた。
外の熱狂と興奮が嘘のように、ここだけが穏やかな日常の空気に包まれていた。瞳は満面の笑みでおかわりを要求し、ドクがしゃもじでご飯をよそい直す。
だが、その平穏は、唐突に引き裂かれた。
「グルルルルル……ッ!」
コロが干し肉を食べる手を止め、テントの入り口に向かって低く唸り声を上げた。全身の毛を逆立て、短い尻尾を股の間に巻き込み、ブルブルと小刻みに震えている。鋭い牙を剥き出しにしているが、それは威嚇というより、本能的な恐怖に支配された防衛反応だった。コロの喉の奥から漏れる音が、テント内の空気をビリビリと震わせる。
「コロ……? どうしたの?」
瞳が箸を止め、首を傾げた直後。
ドンッ、と。
心臓を直接わし掴みにされたかのような、重く粘り気のある衝撃波がテントを激しく揺らした。土鍋の蓋がカタカタと鳴り、みそ汁の水面が大きく波打ってテーブルに零れ落ちる。
「なんだ、今の音。ガス爆発か……?」
ドクが立ち上がり、テントのフラップを素早く開ける。
目に飛び込んできたのは、数万人が熱狂していたはずのイベント会場の、異様な静寂だった。
お祭り騒ぎは完全に停止し、数万の群衆がぽっかりと口を開け、まるで金縛りにでも遭ったかのように上空を見上げている。警備の探索者たちも、手元の無線機を握りしめたまま硬直していた。
第1ダンジョンの巨大なゲートの真上。
青空が広がる虚空に、見えない巨大なガラスにヒビが入るような、黒い亀裂が幾重にも走っていた。ピキッ、メキメキッという不快な音が、広大な会場全体にビリビリと響き渡る。亀裂から漏れ出すどす黒い瘴気が、周囲の空間を陽炎のように歪ませていた。
瞳は弾かれたようにテントを飛び出し、自身のレア職スキル『詳細鑑定』を上空の亀裂に向けた。
「っ……!!」
直後、瞳は両手で目を覆ってうずくまった。視界を埋め尽くすように赤黒いアラートが乱舞し、脳を直接殴られたような激痛が走る。
ドクを鑑定した時のように、情報が読み取れないという類のものではない。今回は、明確な『殺意と破壊』のデータ量が生物の処理能力を物理的に超え、強制的なシャットダウンを引き起こしたのだ。冷や汗が全身から噴き出し、過呼吸のように肩が激しく上下する。
「瞳ちゃん! 大丈夫か!」
「ドクさん……ダメ、逃げて……! 空間が、ダンジョンの最下層と直接繋がって……っ!」
瞳の悲痛な叫びを掻き消すように、上空の空間が完全に砕け散った。
パリンッという巨大なガラスが割れるような甲高い音と共に、空にぽっかりと漆黒の穴が開く。
黒い瘴気の滝が白昼の地上へ降り注ぐ中、三つの巨大な質量が、数万人の頭上に落下してきた。
一つ。全身が溶岩のように赤熱した、四肢を持つ獣。喉の奥から響く低い咆哮だけで周囲の空気が極度に乾燥し、落下地点のアスファルトがその熱量だけでドロドロに溶け出している。
二つ。六つの首を持ち、紫色の毒霧を吐き出す巨大な蛇。ギラギラと鈍く光る鱗に覆われた巨体から漏れる吐息がわずかに触れただけで、特設ステージを支えていた太い鉄骨がボロボロに腐食し、自重を支えきれずに崩れ落ちる。
三つ。鋼鉄の甲殻に覆われた、全長数十メートルに及ぶ百足。巨体が宙でうねるだけで暴風が発生し、無数の刃のような足が空気を切り裂く不気味な音が響く。
ズドォォォォンッ!!
三体の巨体が同時に地面に激突し、数万人が熱狂していた特設ステージが粉々に吹き飛んだ。
衝撃波で巨大なモニターがひしゃげ、屋台のテントが紙くずのように宙を舞う。波打ってめくれ上がったアスファルトの破片が、砲弾のような速度で四方八方に降り注ぎ、周囲の車や建物のガラスを次々と粉砕していく。
溶岩の獣が太い前足を一度振り下ろしただけで、大地が大きく抉れ、そこから赤い溶岩が噴き出した。
六頭の蛇は、それぞれが独立した意志を持つかのように、逃げ惑う小さな獲物たちを物色するように長い首をうねらせる。
鋼鉄の百足は、重機のように屋台の並ぶストリートをすり潰しながら前進し、その軌跡には瓦礫の山しか残らない。
「きゃあああああっ!」
「逃げろ! 踏み潰されるぞ!!」
「ゲートが塞がれてる! 押すな! 戻れ、こっちだ!!」
一瞬の静寂の後、群衆は完全なパニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。
最初はスマホを掲げて撮影しようとしていた若者たちも、あまりの恐怖と現実離れした光景に機器を取り落とし、悲鳴を上げて走り出した。
将棋倒しになり、誰かの靴が踏みにじられ、迷子になった子供の泣き声すら掻き消される。転んだ者を助け起こす余裕など誰にもなく、我先にと出口へ向かう波に押し流されていく。悲鳴と怒号が交錯し、一つの巨大な轟音となって空を覆う。
運営スタッフが誘導のために拡声器で叫ぶが、その声は怪物の咆哮と人々の悲鳴に完全に飲み込まれ、まったく機能していなかった。逃げようとする人々の波が入り口に殺到し、出口はすでに身動きが取れない状態になっている。
一方、特設VIPラウンジ。
強化ガラスが爆圧で吹き飛び、鋭利な破片が高級なソファや大理石のテーブルに突き刺さる中、マリアは悲鳴を上げて床に這いつくばっていた。純白の神官服が土埃と飛散したワインで汚れ、完璧にセットされていた金糸の髪が振り乱されている。
「な、なによあれ! 聞いてないわよ! 防衛システムはどうなってるの!? 誰か、誰か盾になりなさいよ!!」
「くそっ、クソッ! なんでこんな時に! 無線が通じないぞ!」
レオが血走った目で聖剣を抜き放つが、その足は無意識に後ずさっていた。剣の柄を握る両手は白く変色するほど力み、カタカタと震えを止められない。
彼らの実力では、あの中の一体ですら数秒で消し炭にされる。今まで築き上げてきた名声など吹き飛び、生存本能だけが「動けば死ぬ」という警鐘を脳内に鳴らし続けていた。勇者としての虚勢は、圧倒的な暴力の前に完全に剥がれ落ちていた。
怒号と爆音、そして絶望が支配する地獄絵図の中。
「……なんか、とんでもない放送事故が起きてるな」
ドクは一人、呆れたように呟いた。
彼は、テントの隅に置かれていた使い込まれた巨大なバックパックを「よっこいしょ」と持ち上げ、ごつい肩にガッチリと背負い直した。チェストストラップをカチリと鳴らして固定する。
逃げるでもなく、怯えるでもなく。
ただ、日雇いの現場で足場が崩れた時のような、面倒なトラブルに対処するいつもの顔で。
「危ないから、俺の後ろにいてくれ、瞳ちゃん」
ドクは、うずくまって震える瞳の前に立ち、無造作に一歩、前へと踏み出した。
その分厚い背中が、圧倒的な暴力の嵐と猛烈な熱風から、瞳を完全に遮っていた。




