第29話 マリアの屈辱
大規模コラボイベントの参加者向けに用意された特設VIPラウンジは、重厚な防音結界によって外の喧騒が完全に遮断され、静謐な空気に包まれていた。
壁を彩る古典的な絵画と、アンティークのシャンデリアが放つ柔らかな光。最高級の革張りのソファが並ぶその空間には、各国のギルドを代表するトップエクスプローラーたちがグラスを片手に談笑している。誰もが凄まじい魔力や闘気を無意識に漂わせており、空間そのものが微かに歪んで見えるほどの高密度な空間だった。給仕のスタッフたちは、彼らが放つプレッシャーに当てられ、青ざめた顔でトレイを運んでいる。
マリアは純白の神官服を身に纏い、その部屋の片隅で優雅に紅茶を飲んでいた。
周囲の視線を常に意識し、慈悲深く、かつ清楚な『聖女』の微笑みを完璧に顔に貼り付けている。ティーカップを傾ける所作の一つ一つすら、いかに自分が美しく、価値のある存在に見えるかを計算し尽くしたものだ。
(レオの奴、未踏エリアでの失敗とオーガ・キング戦の泥沼を取り戻そうと必死すぎて空回りしているわ。このままあいつに付き合っていたら、私の価値まで下がってしまう)
マリアは香り高いアールグレイに口をつけながら、周囲の探索者たちを値踏みするように視線を巡らせていた。
この世界的なイベントは、没落の兆しを見せている『紅蓮の剣』から乗り換え、より強大で権力のあるパトロンを見つけるための絶好の狩り場だ。自分の美貌とAランクの回復魔法があれば、どこの国のトップギルドでも特待生として迎え入れられるはずだ。一番条件の良いパーティを探し出し、自分を売り込む算段を立てていた。
その時、ラウンジの重厚なマホロン材の扉が静かに開いた。
入ってきた人物の姿を認めた瞬間、室内にいた全ての高ランク探索者たちの私語がピタリと止んだ。
ダークブラウンの艶やかな髪と、深みのあるヘーゼルアイ。法衣の上からでも分かる豊満なプロポーション。彼女が歩みを進めるだけで、周囲の空気が清冽な清水で洗い流されるような、圧倒的な浄化の波が広がる。テーブルに飾られていた微かに萎れかけていた薔薇が、その余波を受けただけで鮮やかな真紅を取り戻して咲き誇った。
イタリアの至宝であり、世界最強のヒーラー。Sランク聖女、ヴィットーリア・ロッシだった。
マリアは好機とばかりに立ち上がり、誰よりも早く彼女の元へ歩み寄った。
ここで世界トップの聖女と親しく言葉を交わす姿を見せつければ、自分の箔付けにもなる。
「初めまして、ヴィットーリア様。日本のAランクパーティ『紅蓮の剣』で聖女を務めております、マリアと申します」
マリアは完璧な角度で頭を下げ、甘く媚びるような声を出した。
「同じ回復職のトップとして、以前からお会いしたいと願っておりました。よろしければ、後ほど回復魔法の術式展開について、情報交換など——」
「……あなたが、マリアさん」
ヴィットーリアの声は、マリアの言葉を遮るように静かに落ちた。
マリアが顔を上げると、ヴィットーリアの深いヘーゼルアイが、自分の奥底までを見透かすように真っ直ぐに注がれていた。
「ええ。何か、私の噂でもお耳に入っておりましたか?」
「ええ。少し、ね」
ヴィットーリアの視線が、マリアの全身をゆっくりと舐めるように動く。
彼女の深く透き通る眼には、マリアの纏う淀んだ光の正体がはっきりと視えていた。
「……ひどく、淀んでいるのね」
「え?」
「あなたの魔力のことよ。回復魔法の根源は慈愛。他者の痛みを引き受け、傷ついた命を繋ぐための祈り。けれど、あなたの魔力からは、誰かを救おうという意志が欠片も感じられない。自分を美しく見せたいという虚栄心と、他者を見下す優越感だけで練り上げられた、ひどく薄っぺらな光ね」
マリアの顔から、貼り付けたような微笑みが剥がれ落ちた。
「な、何を仰っているのか……。私はこれまで、数多くの戦いで仲間を癒やし——」
「先日、ある方の傷を視る機会があったわ」
ヴィットーリアの声のトーンが、一段下がった。
ラウンジ内の気温が急激に低下したように錯覚するほどの、静かで冷酷な怒気。
「肉の奥深く、骨の髄にまで刻み込まれた無数の破壊と再生の痕。モンスターの爪牙だけでなく、味方の魔法の余波による広範囲の火傷。……中でも許しがたかったのは、悪意を持って砕かれた関節を、適切な処置もせずに放置していた痕跡よ」
マリアの肩が、ビクッと大きく跳ねた。
言われなくても、誰のことを指しているのか理解できたからだ。
「パーティの専属ヒーラーであるあなたが、一度でも真面目に魔力を流していれば、あそこまで惨い痕にはならなかったはず。……あなたは彼に、何を与えていたの?」
「あ、あれは……!」
ヴィットーリアから発せられる本物の神聖力のプレッシャーに当てられ、マリアは一歩後ずさった。
恐怖を誤魔化すように、甲高い声で言い訳が口を突いて出る。
「あの荷物持ちが鈍臭いから悪いんです! 敵の攻撃も避けられないような無能なゴミに、私の尊い魔力を使うなんて、勿体ないじゃありませんか! ポーションの残りカスで十分——」
その言葉を聞いた瞬間、ヴィットーリアの瞳から一切の温度が消えた。
「ゴミ、と。そう言ったのね」
パキン、とラウンジの窓ガラスに微かな亀裂が走った。
ヴィットーリアは一切魔法を行使していない。ただ、彼女の底知れない怒りの感情が、空間そのものを物理的に軋ませているのだ。
「弱者を守る盾となるべき前衛が仲間を囮にして逃げ、癒やしを与えるべき後衛が傷ついた者を嘲笑う。……冒険者の風上にも置けないわね」
「う、ぅ……っ」
マリアは足の震えが止まらず、その場にへたり込みそうになった。
反論しようにも、口が干からびて声が出ない。
「二度と、聖女を名乗らないことね。あなたのその淀んだ光は、誰の命も救えないただの偽物よ」
ヴィットーリアはそれ以上マリアを一瞥することもなく、優雅な足取りでラウンジの奥へと歩き去った。
残されたマリアに、周囲の海外トップエクスプローラーたちから、容赦ない侮蔑と冷笑の視線が突き刺さる。
彼女は顔を真っ赤に歪め、逃げるようにラウンジの扉から走り去るしかなかった。
★★★★★★★★★★★
「ちょっとクロエ! 私のドクに勝手に油っこいもの食べさせないでよ! 胃がもたれちゃうでしょ!」
「あぁ!? アタシが先に見つけたんだよ! 引っ込んでなブラジル女!」
イベント会場に隣接された屋外フードエリアでは、Sランク魔法剣士のルシアと、Sランク獣闘士のクロエが、一つの極太ソーセージを巡ってバチバチと火花を散らしていた。
二人の周囲には、Sランク同士の争いから漏れ出す尋常ではないプレッシャーが渦巻き、屋台の暖簾が不自然に千切れそうに風に舞っている。一般客はおろか高ランクの探索者たちでさえ、巻き添えを恐れて遠巻きに見守ることしかできていない。
「ドクさん、今のうちです! 走って!」
「おわっ!? 瞳ちゃん!?」
そのプレッシャーの台風の目の中に、Dランクの瞳が単身突撃し、巨大なバックパックを背負ったドクの腕を全力で引っ張った。
ドクは手の中で暴れていたフェンリル・パピーのコロを小脇に抱え、瞳に手を引かれるがままに人混みを縫って走り出した。
二人は、スポンサーブースが立ち並ぶ大通りから一本外れた、木漏れ日の落ちる遊歩道エリアまで逃げ込み、ようやく足を止めた。
「はぁ、はぁ……っ。まったく、あの人たちは少し目を離すとすぐドクさんを拉致するんだから……」
瞳は膝に手をつき、荒い息を吐きながら振り返った。
「ごめんごめん。でも、クロエさんの奢りで色々と珍しいものをご馳走になったよ」
ドクは全く息を切らす様子もなく、コロの頭を撫でながら苦笑した。
瞳は息を整えながら、改めて目の前の男の姿を見上げた。
美沙が三日三晩徹夜して仕上げたという『飛竜の革とミスリルのハイブリッド・ツナギ』。その漆黒の特殊装備は、ドクの分厚い胸板や引き締まった骨格に完全にフィットしており、機能美の極致とも言える洗練されたデザインだった。
普段の薄汚れたジャージ姿とは打って変わり、ダークグレーの色合いが彼の深く彫りのある端正な顔立ちをいや増して引き立てている。
先ほどから、すれ違う一般客の女性たちが、思わず足を止めてドクを二度見していくのが瞳にもはっきりとわかった。中にはスマートフォンを取り出してこっそり撮影しようとする者までいる。
「なんだか、今日はやけに見られるな。顔にポテトのケチャップでもついてるのかな」
「……ついてませんよ。ツナギが似合いすぎてるだけです」
瞳は少しだけむくれて言った。
マネージャーとしては、彼が注目されるのは正しいはずだ。だが、今の周囲の視線は明らかに「高ランク探索者への憧れ」ではなく「魅力的な男性への熱視線」だった。それが、瞳の胸の奥をほんの少しだけチクチクと刺す。
「さてと。それじゃあ、改めて会場の視察に行きましょうか」
「視察?」
「そうです! マネージャーとして、今後のイベントの動線確認と、出展しているスポンサー企業のリサーチです。決して、お祭りに便乗してサボって遊ぼうなんて思ってませんからね!」
瞳は顔の熱を誤魔化すように早口で捲し立て、スタスタと前を歩き出した。
ドクは「はいはい、仕事だな」と優しく微笑み、コロを肩に乗せたままその後を追った。
遊歩道沿いには、各国のギルドが出資した珍しい屋台が立ち並んでいる。
魔獣の肉を香ばしいスパイスで焼き上げる串焼きや、深層で採れる発光植物を使った色彩豊かなランタンの販売など、ダンジョン特有の文化が色濃く反映された出店ばかりだ。様々な言語が飛び交い、非日常的な熱気が辺りを包み込んでいる。
「わっ……」
前方から歩いてきた集団に押され、瞳がバランスを崩しかけた。
その瞬間、ドクがスッと瞳の背後に回り込み、ごつい手で彼女の華奢な肩を支えた。
「危ないよ。今日は人が多いから、はぐれないようにね」
ドクはごく自然な動作で、瞳の小さな手を取った。
分厚くて無骨な手。だが、そこから伝わる体温は、不器用なほどに温かかった。
「あ……はい」
繋がれた大きな手のひらの温かさに、瞳は顔を真っ赤にして俯いた。
少し歩いた先で、ドクがある屋台の前で足を止めた。
魔力氷を使った、色鮮やかなフルーツ飴の屋台だ。
「これ、二つください。イチゴのやつ」
ドクは自分の使い古された財布から小銭を出し、赤いフルーツ飴を受け取った。
そして、そのうちの一つを瞳の前に差し出す。
「はい。いつも俺の矢面に立って、色々面倒なことを引き受けてくれてるお礼。甘いもの、好きだろ?」
瞳は差し出されたイチゴ飴を見て、瞬きをした。
「ありがとうございます……」
受け取る指先が、微かに震える。魔力氷でコーティングされた飴は、初夏の日差しを反射してキラキラと輝いていた。
「それにしても、すごい熱気だな」
ドクは自分の分の飴をかじりながら、広場の向こうで歓声を上げる群衆を見渡した。
「皆、トップの探索者たちを一目見ようと目を輝かせてる。……俺みたいな底辺が、こんな華やかな場所にいていいのか、たまに不安になるよ」
瞳は飴から顔を上げ、ドクの顔をまっすぐに見つめた。
「ドクさんは、底辺なんかじゃありません。……誰よりも強くて、誰よりも優しい、本物の探索者です」
「買い被りすぎだよ」
「本当です! だから、私がマネージャーとして、ドクさんの凄さを……いや、凄さは隠しつつ、ちゃんとドクさんが報われるように、これからも絶対に守りますから」
真っ直ぐにぶつけられた瞳の言葉に、ドクは少し驚いたように目を丸くした。
それから、本当に嬉しそうに目尻を下げて笑った。
「ありがとう。瞳ちゃんがいてくれると、なんだか安心するよ」
その飾らない笑顔を前にすると、マネージャーとして彼を守らなければという強い決意すら、甘く溶かされてしまいそうになる。
「クゥン」
肩に乗ったコロが、二人の空気を茶化すように鼻を鳴らした。
「ほら、コロも呆れてますよ。行きましょう、次のブースの視察です!」
瞳は照れ隠しに歩き出す。
だが、その手はしっかりと、ドクの大きな手に引かれたままだった。




