第27話 慈愛の抱擁
喫茶店のアンティークな木製ドアがカランと鳴り、初夏の夜風がドクの火照った頬を撫でた。
「さあ、行きましょうか」
ヴィットーリアは優雅に会計を済ませると、戸惑うドクの分厚い腕に自身の細い腕を絡ませた。Sランクの聖女、それも世界的な知名度を誇る彼女が、薄汚れたジャージ姿のFランク荷物持ちと腕を組んで夜の街を歩く。すれ違う人々が幾度も振り返るが、彼女は全く意に介する様子もなく、涼やかな微笑みを浮かべたまま堂々と歩を進めていく。
「あ、あの……ヴィットーリアさん。送ってくれるのはありがたいんですけど、俺のアパート、こっちの方向じゃ……」
「ええ、分かっているわ。向かうのはあなたのお家ではないもの」
「へ?」
ドクが間の抜けた声を上げた直後、大通りに滑り込むように一台の黒塗りのハイヤーが停車した。運転手が恭しく後部座席のドアを開け、ヴィットーリアはドクの手を引いたまま、流れるような動作で車内へと滑り込む。
「ちょ、えっ!? ホントにどこ行くんですか!?」
ドクの悲鳴に近い問いかけは、静かに閉まった高級車の防音ドアに遮られた。
ハイヤーが到着したのは、都内の中心部にそびえ立つ外資系の超高級ホテルだった。エントランスの煌びやかなシャンデリアと、大理石が敷き詰められたロビー。自分の背負っている使い込まれた背負子の布擦れの音が、この空間では耐え難いほどのノイズに感じられる。
VIP専用のエレベーターが滑らかに最上階へと昇り詰め、案内されたのは壁一面のガラス窓から東京の夜景を見下ろすことができるスイートルームだった。
「さあ、荷物を下ろして。そこへ座ってちょうだい」
ヴィットーリアはドクの背中から重い背負子をそっと外し、部屋の中央にある最高級の革張りソファへと彼を促した。ドクは完全に萎縮し、膝を揃えてソファの端にちょこんと腰掛ける。
室内には、彼女が普段から好んで使っているであろう、百合に似た上品で甘い香水の匂いがふわりと漂っていた。
「あの、やっぱり俺みたいなのがこんな所にいるのは……」
「しーっ」
立ち上がろうとしたドクの唇に、ヴィットーリアは白い人差し指をそっと当てた。
そして彼女は、ドクの正面に静かに膝をついた。タイトなドレスの裾が床に広がるのも厭わず、彼女は自身の両手で、分厚く無骨なドクの顔を包み込む。長年の肉体労働で日焼けし、小さな傷跡が絶えないその頬を、彼女の滑らかな親指が優しく撫でた。
先ほどの喫茶店で彼の肉体の深淵に触れ、そこに刻まれた致死量の苦痛の記憶を読み取った彼女のヘーゼルアイには、静かな怒りと、それを遥かに上回る深い悲哀が揺れていた。
「……もう、いいのよ」
ヴィットーリアはゆっくりと身をかがめ、ドクの頭を自身の豊かな胸元へと引き寄せた。
「えっ!? ちょっ、ヴィットーリアさ……っ」
「今はただ、力を抜きなさい」
柔らかく、どこまでも温かい感触がドクの顔を包み込む。陽だまりのような彼女の魔力の気配が、至近距離からドクをすっぽりと覆い隠した。
ドクは完全に硬直した。長年底辺を這いずり回り、他人の靴の裏を舐めるようにして生きてきた彼にとって、自身に向けられる見返りを求めない無条件の優しさなど、どう対処していいか全くわからない未知の事象だった。太い腕が行き場を失って空中で彷徨い、全身の筋肉が岩のように強張る。
「私の前では、もう無理して笑わなくていい。痛い時は痛いと、辛い時は辛いと言っていいの……」
耳元で囁かれる、甘く、とろけるような声音。微かな抵抗すら許さないほどの圧倒的な包容力に、ドクは冷や汗を流しながら、徐々にその温もりに感覚を奪われていくのを感じていた。
その時だった。
カチャリ、と。
重厚なマホガニーの扉が、何のノックもなく、ごく静かに開かれた。
怒鳴り声はない。足音すら、分厚い絨毯に吸い込まれて消えている。
しかし、開かれた扉の隙間からスイートルームへと流れ込んできたのは、物理的な質量を伴った『絶対零度の殺気』だった。
ドクの背筋に、これまでのダンジョン探索でも感じたことのない悪寒が走る。
扉の向こうに立っていたのは、ショートスピアを握りしめ、顔から一切の表情を消し去ったマネージャーの瞳だった。
そして彼女の背後には、見慣れた規格外の面々が、まるで暗殺者のように音もなく並んでいる。
「……あら。随分と静かにお手入れをしているのね、ヴィー」
ルシアは腕を組み、美しい赤髪を揺らしながら、氷のように冷ややかな微笑みを浮かべている。彼女の周囲だけ、空気が陽炎のように揺らめいていた。
「チッ……ホテルごと吹き飛ばしても、おっさんなら無傷で残るか?」
クロエは拳を握り込み、低い声で物騒な独り言を呟きながら、極限まで圧縮した闘気を両腕に集束させている。
「……理解不能。私の極大バフの後、時間を置かずにヴィットーリアの治癒領域に接触している。生体マナの反発係数が……いえ、今はそれよりも……」
エレナはタブレットを片手に何かを計算しているが、そのブルーグリーンの瞳の奥には、吹雪のような冷たい感情が渦巻いていた。
「アンタら、アタシの最高傑作のツナギに香水の匂いが染み付いたらどう落とし前つける気だい?」
美沙が工具用の分厚いグローブをはめながら、職人特有の鋭い眼光でヴィットーリアを射抜く。
誰も声を荒げていない。物を壊してもいない。
ただ、世界最高峰のSランク四人とAランクの職人、そして専属マネージャーが一斉に放つ無言のプレッシャーで、ホテルのスイートルームの空気が物理的に軋みを上げ、窓ガラスが微かに共鳴して震えていた。並の探索者なら、この空間にいるだけで精神が崩壊して泡を吹いて倒れている。
「あらあら」
ヴィットーリアはドクを抱きしめたまま、全く動じることなく優雅に微笑んだ。
「お友達のお出迎えかしら。でもごめんなさい。この子は今、私が預かっているの。もう少し、このままで……」
ヴィットーリアが言葉を紡ぎ終えるより早く、六人の女性が一歩、無言のまま距離を詰めた。
魔力と闘気、そして純度百パーセントの殺意が交錯し、部屋の照明がチカチカと明滅を始める。
「あ、あの……みんな、ちょっと落ち着いて……!」
ドクの悲痛な声は、極限まで張り詰めた空気の中で虚しく響いた。
――その、文字通り息もできないほどの重圧の中心で。
「……おじさん、こっち」
ドクの耳元で、風の囁きのような声がした。
「え?」
次の瞬間、ドクの視界がふわりと歪んだ。
周囲の異様なプレッシャーが遠のき、色彩が反転したかのような錯覚。気がつけば、彼は一触即発のスイートルームから忽然と消え去り、ホテルの裏路地にある薄暗い搬入口に立っていた。
「ふふっ。あのままあそこにいたら、おじさん、本当に跡形もなく食べられちゃうよ?」
隣でクスクスと笑うのは、タイトな黒い装備に身を包んだアリサラだった。
彼女は自身のSランクスキル『幻影』と『空間転移の罠』を精密に複合させ、あのカオスな空間からドクだけをピンポイントで盗み出したのだ。
「アリサラさん……? ここ、ホテルの裏?」
「そ。私がおじさんを誘拐しちゃった。……ねえ、ちょっとだけ、私に付き合ってくれない?」
アリサラは黒豹のようにしなやかな動作でドクの腕に絡みつき、そのまま夜の街へと歩き出した。ドクは慌てて「ちょ、アリサラさん、腕!」と引き剥がそうとするが、彼女は面白そうに笑って離さない。
行き着いた先は、駅前の喧騒から少し離れた、こぢんまりとしたクレープ屋の屋台だった。黄色いキッチンカーの周りには、数組のカップルが楽しそうにクレープを頬張っている。
「はい、おじさんはチョコバナナね。私はストロベリー」
アリサラは手渡されたクレープを嬉しそうに受け取った。Sランク探索者として世界中を飛び回り、裏社会の危険な依頼も平然とこなす彼女が、今はただの年相応の女性のように目を輝かせている。
ドクは渡されたクレープを不器用な手つきで持ち、遠慮がちに端をかじった。
「……甘い。こんなの食べるの、何年ぶりだろう」
「美味しいでしょ? ずっとお仕事ばっかりじゃ、疲れちゃうからね」
アリサラは公園のベンチに座り、足をブラブラと揺らしながらドクの横顔を観察した。
世界を滅ぼせるほどの規格外の力を持ち、先ほどはSランクの女たちがその身を焦がすような執着で奪い合っていた男。それなのに、今の彼は、甘いクレープに少し感動しているだけの、どこにでもいる「人のいいおじさん」だった。
(……変な人)
アリサラは、これまで数え切れないほどの「未知の宝」や「危険なスリル」を求めて世界中のダンジョンを探索してきた。強い力を持つ者は、例外なくその力に溺れるか、野心を抱くか、あるいは重圧に押し潰される。
だが、この男は違う。
底なしの力を持ちながら、彼の日常は驚くほど平坦で、ありふれたものに根ざしている。
「ねえ、おじさん」
アリサラは、少しだけ真面目な声で尋ねた。
「あの力があれば、世界中の全部が思い通りになるのに。……どうして、そんなに普通でいられるの?」
ドクはクレープを食べる手を止め、不思議そうな顔をしてアリサラを見た。そして、手元のクレープにもう一度視線を落とすと、穏やかな笑顔を浮かべた。
「だってみんなでこうして食べるクレープ、すごく美味しいからね」
その短い言葉と飾らない笑顔の奥には、彼が今日という日を生き、ささやかな喜びに心から感謝しているという事実だけが存在していた。
アリサラは、自身の内側に全く新しい感情が芽吹くのを感じた。
それは、彼女がこれまで追い求めてきた命懸けのスリルでも、未知のアーティファクトを発見した時の高揚感でもない。
スリルと危険だけを貪欲に求めてきた彼女の乾いた心が、彼のありふれた日常への執着という『究極のシークレット』に触れ、ゆっくりと満たされていく感覚。
それは、心地よい敗北感と、この静かで優しい時間を誰にも邪魔させたくないという、ひどく甘い独占欲だった。
「……そっか」
アリサラは小さく呟き、ドクの肩にコトンと頭を預けた。
「えっ、アリサラさん? 疲れたのか?」
「しーっ。もうちょっと、このままでいさせて」
ドクの困惑した声を無視して、アリサラはゆっくりと目を閉じた。
遠くから聞こえる車の走行音と、クレープの甘い匂い。彼女は今、世界で最も価値のある宝物を自分だけが独占しているような、静かな喜びに浸っていた。




