第26話 究極の癒やしを求めて
都内にある超高級ホテルの最上階。
壁一面の巨大なガラス窓の向こうには、まるで宝石箱をひっくり返したかのような東京の夜景が果てしなく広がっている。その眩い光の海を背にして、ヴィットーリア・ロッシは薄暗い室内で手元のタブレット端末を静かに見つめていた。
画面の中で再生されているのは、今や世界中の探索者やアナリストたちを熱狂の渦に巻き込んでいる、あの短い動画アーカイブ。
「……」
ヴィットーリアの深みのあるヘーゼルアイが、画面越しの光の奔流を静かに追う。
だが、彼女の瞳が捉えていたのは、男が放った破壊の規模や物理的なエネルギーの異常な数値などではなかった。その瞬間に彼の肉体を巡った特異な魔力波長、そして隠しきれない命の軋みだ。
命の波長や魔力の根源を読み取れる彼女の目には、あの動画の裏にある真実がはっきりと見えていた。
「……なんて、悲しい光なのかしら」
微かに漏れた呟きは、重厚な絨毯に吸い込まれて消えた。
彼女には見えていた。男の拳から放たれたあの規格外のエネルギーの正体。
あれは、練り上げられた魔力でも闘気でもない。
骨が砕かれ、肉が焼かれ、内臓が破裂し、神経が焼き切られるほどの、途方もない『苦痛』の蓄積。何万回、何十万回と繰り返された致死のダメージが、彼の中で行き場を失い、極限まで圧縮されて塊となったもの。
世界を震撼させたあの一撃は、決して強さの証明などではない。
長年、底辺で理不尽に踏みにじられ続けてきた彼の肉体が発した、声なき悲鳴の集合体だった。
「これほどの痛みを抱え込んで、精神が壊れていないなんて……」
ヴィットーリアは胸の前で静かに十字を切り、目を閉じた。
痛みを堪え、ただ一人で耐え忍んできた見知らぬ男の魂に、そっと祈りを捧げるように。
彼女が急遽、極秘裏に来日を果たした理由は、未知の強者と手合わせをするためでも、彼を利用して名声を得るためでもない。
世界でただ一人、彼が抱え込んでいる底なしの痛みに気づいてしまったからだ。傷ついた者を絶対に放っておけない彼女自身の慈愛の心が、彼女を日本へと突き動かしていた。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。
八王子駅前から少し離れた、閑静な大通り。
「よし、今日の夕飯は豚肉と大根の煮物にしよう。美沙さんも徹夜続きみたいだし、生姜を効かせて少し濃いめの味付けがいいな」
ドクはスーパーのレジ袋を片手に下げ、ごく普通の休日の父親のような足取りで歩いていた。
昨晩の『キマイラ騒動』の事後処理で、マネージャーの瞳や、当事者であるエレナたちは、朝からギルド本部の会議室で缶詰になっている。ルシアとクロエも、駅前での度重なる器物破損についての事情聴取を受けており、ドクは久しぶりに数時間の完全な自由時間を得ていた。
相棒のフェンリル・パピーのコロは、美沙の工房で彼女の作業着の裾にじゃれついているはずだ。
平和だ。
誰も怒鳴らない。誰も自分を囮にして逃げない。
自分のペースで美味しいご飯を作って、食べて、温かい布団で寝る。それだけで、彼にとっては信じられないほどの贅沢だった。
そんなことを考えながら歩いていると、前方の交差点付近で、少し不自然な人だかりができているのに気づいた。
中心にいるのは、長身の女性だった。
変装など一切していない。ダークブラウンの艶やかな髪をさらりと肩にこぼし、上質なシルクのブラウスとタイトスカートに包まれた豊満なプロポーションを隠そうともせずに、ただ堂々と立っている。
その彫りの深いクラシックな美貌はもちろんのこと、彼女の全身から溢れ出る神々しいまでの慈愛のオーラが、周囲の空間を完全に支配していた。行き交う人々は無意識のうちに彼女を避けるように大きく道を空け、遠巻きに立ち止まっては、ただうっとりと見惚れてため息を漏らしている。誰もが彼女に惹きつけられているのに、その圧倒的な存在感を前にして、声をかけることすらできずにいた。
(……迷子かな?)
ドクがそう思い、立ち止まった瞬間。ふと、その女性が顔を向けた。
深く透き通るようなヘーゼルアイが、真っ直ぐにドクを捉える。
彼女は周囲の人だかりなど気にも留めない様子で、コツコツとヒールを鳴らして人波を割り、ドクの目の前まで歩み寄ってきた。
甘く、深く、どこか安心するような香水の香りがふわりと漂う。
「あら、ちょうど良かったわ。迷子になってしまって……少し、道を教えていただけないかしら?」
流暢な日本語。だが、その発音にはほんの少しだけヨーロッパ圏特有の柔らかな訛りが混ざっていた。
「あ、はい。俺でわかる場所なら。どこに行きたいんですか?」
ドクがレジ袋を少し持ち上げながら尋ねると、彼女は魅力的な瞳を細め、ふわりと微笑んだ。
「静かに、二人でお話しできる場所へ」
★★★★★★★★★★★
ヴィットーリアに半ば腕を引かれるようにして辿り着いたのは、大通りから一本路地に入った場所にある、緑に囲まれた老舗の喫茶店だった。
アンティーク調の家具が並ぶ店内は人が少なく、静かなジャズが流れている。
奥のテーブル席に向かい合って座ると、映画のスクリーンから抜け出してきたようなイタリアンビューティーの登場に、カウンターの中でサイフォンを弄っていた初老のマスターが一瞬手元を狂わせたのが見えた。
「ありがとう。私、極度の方向音痴で。あなたに会えなかったらどうなっていたか」
ヴィットーリアは運ばれてきたアイスティーのグラスに触れながら、優雅に微笑んだ。
「いや、俺もたまたま夕飯の買い出しで通りかかっただけなんで。……それにしても、随分と目立つ人ですね。女優さんか何かですか?」
「ふふ、少し事情があって。でも、あなたとこうしてゆっくりお話しするには、ちょうど良かったわ」
ドクは彼女の顔を見て、どこかで見たことがあるような気がした。
だが、長年日雇いの激務に追われ、海外のトップ探索者の配信など見る余裕もなかった彼にとって、目の前の女性が世界的に名を知られるSランクの人物であるという事実に結びつくはずもなかった。
「その……俺に何か用事があったんですよね?」
ドクが少し居心地悪そうに尋ねると、ヴィットーリアの瞳が、ふと真剣な色を帯びた。
彼女の視線は、ドクの顔ではなく、テーブルの上に置かれた彼の手に向かっていた。
分厚く、指の関節はいびつに太く、手のひらから甲にかけて無数の古傷や火傷の痕が幾重にも重なって残る、過酷な労働者の手。
ヴィットーリアは何の躊躇いもなく身を乗り出し、両手でドクの右手をそっと包み込んだ。
「えっ……」
ドクは思わず声を漏らした。
彼女の手のひらは驚くほど柔らかく、そして温かかった。反射的に手を引っ込めようとしたが、彼女の指先がしっかりとドクの手首をホールドしており、その優しい拘束からは奇妙なほど逃れられなかった。
「少し、見せてちょうだい」
ヴィットーリアの指先から、微かな淡い金色の光がこぼれた。
それは傷を表面から治すための単なる回復魔法ではない。対象の肉体に深く刻まれた『過去の痛み』の履歴を読み取る、彼女特有の微細な魔力の波長だった。
その光がドクの分厚い皮膚を透過した瞬間。
「…………ッ」
ヴィットーリアの美しい眉が、微かに、だがはっきりと顰められた。
彼女の脳裏に流れ込んできたのは、想像を絶する暴力の記憶だった。
皮膚の表面の傷などではない。筋肉の繊維一本一本、骨の髄、神経の末端にまで深く刻み込まれた、破壊と再生の凄惨な痕跡。
モンスターの爪牙による裂傷。味方の範囲魔法の余波による広範囲の火傷。
そして何より……関節を意図的に砕かれた、悪意ある打撃の痕。
「……あなた、これまでどんな扱いを受けてきたの?」
ヴィットーリアの声は静かだった。
だが、その穏やかな響きの奥には、凍てつくような怒りが静かに燃えていた。
弱い者を守り、導くべき「強者」たちが、この男を都合の良い壁として使い、無数に傷つけ、あまつさえ囮にして見捨てたという事実に対する、純粋な嫌悪。
「え? いや、ただの荷物持ちだったから。危ない目に遭うのは日常茶飯事だし、このくらいの傷、ポーションの残りカスを塗っとけばそのうち治るし……」
ドクは困惑しながら、申し訳なさそうに曖昧な笑みを浮かべた。
自分が純粋に心配されることに、全く慣れていないのだ。
その顔を見て、ヴィットーリアは悲しげに目を伏せた。
「治っているように見えるだけ。……あなたは、自分の体を、いえ、自分の命を、ゴミ箱か何かだと思っているの?」
「ゴミ箱って……」
「痛かったはずよ。苦しかったはず。それを『そういうものだ』『自分が底辺だから仕方ない』と諦めて、自分の中に無理やり押し込めているだけじゃない」
ヴィットーリアのヘーゼルアイが、真っ直ぐにドクを射抜く。
そこには、同情でも憐れみでもない、一人の人間の尊厳を深く憂う強さがあった。
「あなたのあの一撃は、あなたの悲鳴の塊よ」
ドクは、息を呑んだ。
自分の『ストック解放』の正体。それが単なるスキルの威力などではなく、長年蓄積された『ダメージ』の解放であることを、この見知らぬ女性は一目見ただけで正確に見抜いている。
「俺は……別に、恨んでなんか……」
「恨むとか、許すとか、そういう話をしているのではないの」
ヴィットーリアは微笑み、ドクの分厚く硬い手を引き寄せると、自分の柔らかい頬にそっと押し当てた。
「えっ、ちょ、ちょっと……!」
ドクは慌てて手を引こうとしたが、ヴィットーリアの指がしっかりと彼の手首をホールドしていて逃げられない。
彼の無骨な手のひらに、彼女の滑らかで温かい頬の感触が直接伝わってくる。心臓が不自然に跳ね、頭の中が真っ白になった。
「世界中の人があなたの力に熱狂して、あなたを利用しようとしても。私は違うわ」
香水の甘い香りと、初めて経験するような絶対的な母性と包容力が、彼を取り囲む空気を満たしていく。ドクは言葉を失い、ただ目の前で微笑む彼女を見つめ返すことしかできなかった。
「私はヴィットーリア。あなたを癒やすために来たの。あなたのその強張った心と体に刻まれた痛みを、一つ残らず私が塞いでみせるわ。……もう、一人で痛みを溜め込まなくていいのよ」
「……ヴィットーリア、さん」
「ええ。これからは、少しだけ私に甘えてちょうだいね」
ヴィットーリアはドクの手を頬に当てたまま、悪戯っぽく、しかし極上の慈愛を込めてふわりと微笑んだ。




