第25話 氷の女王の陥落
粉塵が舞い上がり、視界が白く染まる。
降り注ぐ強化ガラスの破片が鈍い音を立ててアスファルトを叩く中、エレナは絶望に青緑の瞳を見開いたまま、ただその光景を凝視していた。
自身が放った極大バフがドクの身体に触れ、行き場を失った過剰なエネルギーが彼の肉体を内側から破裂させる――その致命的な結果を覚悟していた。
だが、現実は彼女の予測を、物理法則ごと置き去りにした。
「…………っ」
エレナは呆然と唇を震わせ、言葉にならない息を漏らした。
土煙がゆっくりと晴れていく。
そこに立っていたのは、着ている服の裾すら焦げていない、無傷のドクだった。
そして彼の足元には、先ほどまで狂乱していたはずのキマイラが、四肢を不自然に突っ張らせたまま、まるで石像のように硬直して倒れ伏していた。死の気配を浴びた恐怖で、ピクリとも動かない。
さらにエレナの常識を根底から破壊したのは、自身が放った『聖盾の加護』と『限界突破』の行方だった。
Aランクの重戦士ですら魔力回路が焼き切れ、肉体が崩壊するほどの暴力的で高密度な光の奔流。それが、ドクの身体に触れた途端、まるで乾ききった広大な砂漠に水滴が1粒落ちたかのように、一切の抵抗なくスッと吸い込まれて消えたのだ。
魔力酔いの兆候もなければ、過剰なエネルギーによる熱の放出もない。
「うおっ……急にガラスが割れてびっくりした」
ドクが何事もなかったかのように頭についたガラスの破片を払い、倒れ伏しているキマイラを不思議そうに見下ろした。それから、へたり込みそうになっているエレナの方を振り返って、屈託のない笑みを浮かべた。
「怪我はないか? お姉さん、さっきは俺を庇おうとして魔法を使ってくれたんだよな。ありがとう。おかげで助かったよ」
全く理解していない。自分が今、どれほどの致死のエネルギーを『無傷で収納』したのかを。
「……」
エレナは声を発することができなかった。脳内の処理能力が完全に限界を超え、思考が白く焼き切れている。
その時、硬直して倒れ伏しているキマイラの巨体に向けて、三つの影が音もなく跳躍した。
「動けないみたいだけど、念のためね。よそ見してる場合じゃないわよ、駄犬」
ルシアの冷たく低い声が響くと同時、赤熱する刀身が空気を焼く鋭い音と共にキマイラの太い首を正確に両断した。
傷口からドス黒い血が噴き出すより早く、遅れて踏み込んだクロエの右拳が、地面に横たわるキマイラの胴体の中心を無慈悲に粉砕する。ドパァンッ、という爆発音と共に肉片と魔石が放射状に飛び散り、残った四肢はアリサラの展開した極細の鋼糸によって瞬く間に細切れへと変わった。
三人は息一つ乱すことなく、互いに目配せすらしない。
ルシアは流れるような動作で剣を鞘に納め、クロエは拳についた血糊を無造作に払い落とし、アリサラは指先を微かに動かして鋼糸を回収する。ただそれだけの静かな動作が、先ほどまでAランク相当の脅威として周囲を恐怖に陥れていた魔獣の、完全なる終わりを告げていた。
「ドクさん! 大丈夫ですか!?」
瞳がスピアを放り出して駆け寄り、ドクの身体をベタベタと触って怪我がないか確認する。
「ああ、平気だよ。みんなすごいな、あんな大きなモンスターをあっという間に倒しちゃうなんて」
ドクの呑気な声が響く中、エレナの脳内では、先ほどの光景がスローモーションで何度も再生されていた。
(私の全力のバフが……一切の反発もなく、完全に受容された……?)
目の前のこの男は、彼女の100パーセントの出力を、無意識に、一切の負荷を感じさせることなく受け止めた。
底がない。限界値が存在しない。どれだけ注ぎ込んでも決して壊れない、無限のキャパシティ。
それは、魔法のロジックとステータスの限界を探求し続けてきた彼女にとって、まさに『神の器』を目の当たりにしたに等しかった。
どれほどの計算を重ねても届かなかった理想の被検体が、今、目の前で呑気に頭のガラスを払っている。
(……見つけた)
エレナの中で、長年張り詰めていた理性の糸が、プツンと音を立てて切れた。
同時に、氷の仮面の下に隠し持っていた『重度の魔法オタク』にして『研究者』としての本性が、爆発的に膨れ上がる。
「あの……」
エレナはふらふらとした足取りでドクに近づくと、そのごつい両手を、自分の両手でガシッと強く握りしめた。
「お姉さん?」
「……データが、足りません」
「え?」
「さっきのバフの吸収プロセス。魔力伝導率の推移と、魔力回路の拡張性の限界値。すべてが未知数です。お願いです、あと50回……いえ、100回ほど、私の全力のバフをかけさせてもらえませんか!?」
「ひゃ、100回?」
「大丈夫です! あなたのその完璧な器なら、絶対に破裂しませんから! さあ、遠慮せずに私のすべてを受け止めてください!」
ブルーグリーンの瞳を血走らせ、鼻息を荒くして迫る絶世の美女。
その異様な気迫に、ドクはたじろいで後ずさるが、エレナは絶対に逃がさないとばかりに距離を詰める。
「ちょっと! 何物騒なこと言ってるんですかこの変態騎士!」
瞳が慌てて2人の間に割って入ろうとする。
「邪魔をしないでくださいマネージャーさん! これは学術的に極めて重要なデータ収集なんです! 彼の肉体構造は、既存の魔法理論を根本から覆す可能性を秘めているんですよ!」
「データ収集を口実にベタベタ触らないでください! ドクさんが困ってるじゃないですか!」
ルシアが剣の柄に手を置いたまま、面白そうにくすくすと笑う。
「あらあら、堅物の氷の女王様も、ついに陥落しちゃったみたいね。アタシたちのライバルがまた1人増えちまったな。まあ、退屈しなくていいけどよ」
クロエも首を鳴らしながら、呆れたように肩をすくめた。
★★★★★★★★★★★
1時間後。
場所を移し、探索者協会八王子支部の地下にある特別訓練場の控室。
冷たいコンクリートの壁に囲まれた実用的な空間に、不釣り合いなほど甘く熱っぽい声が響いていた。
「エレナさん、その……首筋を測るのはいいんですけど、息がかかってくすぐったいというか……」
「動かないでください。今、頸動脈付近の魔力抵抗値を計測しているんです。……素晴らしい。外部からの魔力干渉に対して、細胞レベルで完全なニュートラル状態を保っている。まるで乾いたスポンジのように、どれほどのエネルギーでも無制限にストックできる構造……ああ、美しい」
ドクはパイプ椅子に座らされ、エレナによって首や肩、腕の筋肉をペタペタと執拗に触られながら、小型の魔力測定器を当てられていた。
先ほどの『完璧な騎士』としての高貴なオーラはどこへやら。今のエレナは、未知の被検体を見つけて興奮を抑えきれない、ただのポンコツ研究者と化している。洗練された白いスプリングコートは少し着崩れ、美しいブロンドの髪も測定に夢中になるあまり乱れていたが、本人は全く気にする様子がない。
「次は脊髄付近の魔力回路のバイパスを確認します。少し前かがみになってください」
「えっ、背中も? もう十分じゃないかな……」
「いけません。あなたのその身体は、もはや人類の至宝なんです。私にはこれを隅々まで解明する義務があります。この分厚い筋肉の内側に、一体どんなエネルギーの変換機構が隠されているのか……ああ、考えただけで鳥肌が立ちます!」
「完全に自分の世界に入っちゃってるわね」
壁際によりかかっていたアリサラが、呆れたようにため息をつく。
「ドクさんもドクさんで、嫌がればいいのに。本当に人がいいっていうか、無防備すぎるんだから」
瞳はタブレットで今後のスケジュールの調整をしながら、チラチラとドクの方を見ては唇を尖らせていた。
マネージャーとして、彼を守るために裏で色々と手を回しているというのに、当の本人がこれほど無防備にSランクの美女たちに隙を見せているのでは、胃がいくつあっても足りない。
(あの人、わざとやってるわけじゃないのが一番タチが悪いんですよね……)
瞳は内心で愚痴をこぼしながら、タブレットの画面を強めにタップした。
そんな重苦しい空気を中和するように、部屋の隅で規則的な音が鳴っていた。
シュッ。シュッ。シュッ。
ドクの足元に置かれたローテーブルの上。
フェンリル・パピーのコロが、箱ティッシュに前足を乗せ、短い鼻先を突っ込んでは、次々とティッシュを引き抜いていた。
「ワフッ!」
白い紙がフワリと宙を舞うたびに、コロは短い尻尾をパタパタと振り、目を輝かせる。1枚引き抜くと、下からまた新しい紙が顔を出す。その無限に湧き出る不思議な仕掛けが、Aランク魔獣の幼体である彼の好奇心を完全に刺激してしまったらしい。
前足で器用に箱を押さえつけながら、小さな口でティッシュの端を咥えては上へ放り投げる。シュッ、シュッ、とリズミカルに紙を引き抜き続け、テーブルの周りにはあっという間に白い雪のようなティッシュの山ができあがっていく。時折、空中に舞ったティッシュをキャッチしようと短い足でジャンプするが、うまく届かずにペタンと着地する。
「こらこら、コロ。そんなに出したらもったいないだろ」
ドクはエレナに背中をホールドされたまま、空いている方の手で散らばったティッシュを回収し始めた。長年の肉体労働でタコだらけになった太い指先が、柔らかなティッシュを優しく掴んでいく。
コロは「アゥ?」と小首を傾げ、自分がせっかく出したものを回収されるなら、もっと早く出さなきゃとばかりに、さらにペースを上げてティッシュを引き抜き始める。
Aランク特有の異常な敏捷性が、こんなところで無駄に発揮される。シュバババッ! と残像が見えるほどの見事な連続引き抜きを披露し、ドクの顔にフワフワと大量のティッシュが降り注いだ。
コロは自慢げに胸を張り、「ワフゥ!」と一声吠える。
「あはは、わかったわかった。お前の勝ちだよ。でも、掃除が大変になるからもうおしまいな」
ドクは苦笑しながら、顔にかかったティッシュを避けて、箱を遠ざけた。そしてコロの小さな頭を優しく撫でる。
コロは満足げに「クゥン」と鼻を鳴らし、ドクの分厚い手のひらにすりすりと頭を擦り付けた。コロのピンク色の舌が、ドクの指先をぺろぺろと舐める。
「……ねえ、あの男。自分がどれだけ異常な空間の中心にいるか、本当にわかってないわよね」
ルシアが紙コップのコーヒーをすすりながら、呆れたような、それでいて愛おしそうな視線をドクに向けた。
「世界トップクラスのSランクが4人も集まって、そのうちの1人は理性を吹き飛ばしてベタベタ触ってるっていうのに、本人は犬と遊んでるんだからな。肝が据わってるのか、ただの馬鹿なのか」
クロエも苦笑して同意しつつ、壁に寄りかかったまま自分の拳を見つめる。
「でもまあ、悪くない空間だろ。あの野郎がいれば、アタシたちも無理に肩肘張る必要がねえんだからよ」
「ドクさーん、そろそろイベントの合同練習のブリーフィングが始まりますから、エレナさんを引き剥がしてこっちに来てください!」
瞳の呼びかけに、ドクは「ああ、わかった」と頷いた。
「エレナさん、そろそろ時間みたいだから。俺、行かないと」
「待ってください、まだ背筋の膨張率のデータが……! ああっ、行かないで私の完璧な器……!」
ドクが立ち上がると、エレナは名残惜しそうに彼のごつい腕から手を離した。
その顔には、先ほどまでの冷徹な氷の女王の面影は微塵もなく、ただ純粋な探求心と、ようやく見つけた『自分の全力を受け止めてくれる存在』への熱を帯びた執着だけが浮かんでいた。
ドクは足元に置かれた大きなバックパックをヒョイと持ち上げ、慣れた手つきで背負い直す。そして、足元でじゃれついていたコロを拾い上げ、ジャケットの懐にすっぽりと潜り込ませた。
コロは居心地の良い定位置に収まると、小さくあくびをして目を閉じる。
ドクはバックパックの肩紐の位置を調整し、ルシアたちの方を振り返って、いつも通りの屈託のない笑顔を向けた。
「それじゃあ、荷物持ちの仕事、今日も頑張るよ。みんな、よろしくな」




