第24話 無限の器
路地裏の狭い空間に、致死量すら生温い四つのプレッシャーが渦巻いていた。
ブラジルの魔法剣士ルシア、ベルギーの獣闘士クロエ、タイの幻影の盗賊アリサラ。そして、ドイツの聖騎士エレナ。
世界最高峰のSランクたちが、ただ一人のFランク荷物持ちを巡って静かな火花を散らしている。彼女たちが無意識に発する魔力と闘気の余波だけで周囲の気温が不自然に上がり、路地裏のコンクリートの表面から揺らめく陽炎が立ち昇っていた。肌を刺すような重圧に、並の探索者であればこの場に立っていることすら困難だろう。
「ストップ! ストップです!!」
これ以上は限界だと悟ったマネージャーの瞳が、両手を大きく広げてドクの前に立ち塞がった。彼女の小さな肩は強烈なプレッシャーを前に微かに震えているが、その瞳には一切の怯えがない。
「ここでSランク同士が揉めたら、八王子の駅前が更地になります! 皆さん、有り余った体力はイベントの合同練習で発散してください! ギルドの特別訓練場を押さえてありますから!」
瞳の悲痛な叫びに、Sランクたちは渋々といった様子でプレッシャーを収めた。
「まあ、小鳥ちゃんの言う通りね。こんな狭いところで暴れても面白くないわ」
ルシアが赤い髪をファサリと揺らし、剣の柄から手を離す。クロエも「チッ、準備運動にもなんねえな」と首を鳴らし、アリサラは「私はいつでもいいよ」と岩壁から音もなく着地して微笑んだ。
エレナは、周囲の空気が一気に弛緩したのを感じながら、青緑の瞳を細めた。
(日本のギルドが誇る特別訓練場……。いい機会だわ。この異常な集団の力、そしてこの得体の知れない男の底を、私の眼で見極めさせてもらう)
「私も同行して構わないかしら。日本のトップエクスプローラーたちの連携、興味があるわ」
完璧な騎士としての仮面を被り直し、エレナは冷ややかな声で提案した。
瞳は少し警戒した様子を見せたが、相手はドイツのトップエクスプローラーだ。無下に断ることもできず、「見学だけなら」と頷いた。
★★★★★★★★★★★
八王子支部の地下深くに建造された、広大な『特別訓練場』。
高強度の魔力結界で覆われたその空間は、どんな高ランクの魔法や物理打撃を放っても、地上の都市部に一切の影響が出ないように設計されている。サッカーコート数面分にも及ぶ広大な演習エリアは、世界中から集まる猛者たちのフルパワーを受け止めるための堅牢な造りとなっていた。
その演習エリアの端に設けられた安全な控え室で、ドクは一人、小さな魔導コンロの前に立っていた。
「みんな、朝からまともに食べてないって言ってたからな。エレナさんも、さっき団子を一つ食べただけだし」
ドクは呟きながら、持参した巨大な土鍋の蓋を静かに開けた。
ぶわっと立ち昇る白い湯気と共に、炊き立ての白米の甘い香りが部屋いっぱいに広がる。
彼が作ろうとしているのは、荷物持ちの定番である『お握り』だ。
今回彼が用意した具材は二つ。香ばしく焼き上げたタラコと、特製の叩き梅。
肉厚な南高梅の種を抜き、ペースト状になるまで叩いたものに、ほんの少しの削り節と極上の醤油を垂らす。すると、ただ酸っぱいだけではない、出汁の旨味が凝縮された爽やかな香りが控え室の空気に混ざり合った。
ドクは手際よくご飯をまとめ、具材をたっぷりと包み込んでいく。
あっという間にお盆の上に並べられたのは、大ぶりでふっくらとしたお握りの山だ。最後に巻かれた海苔が熱で僅かに縮み、磯の香ばしい匂いを部屋中に拡散させる。
一粒一粒が真珠のように輝く米の艶、はみ出した具材の色合い、そして立ち昇る湯気。それは、疲労した探索者の食欲を否応なしに刺激する、暴力的なまでの魅力を放っていた。
「よし、できた」
温かい麦茶のコップと共にお盆をテーブルに置くと、ドクは控え室の隅でタブレットを見つめている金髪の女性に声をかけた。
「あ、エレナさんも良かったらどうですか? 日本の簡素な食事ですけど」
訓練場でのルシアたちの模擬戦のデータを真剣な顔で確認していたエレナは、画面から目を離さずに冷淡な声で答えた。
「……私は結構よ。食事は済ませているわ」
トップエクスプローラーとして、出処の知れないものを口にするのはリスクがある。それに、彼女の舌はヨーロッパの最高級の宮廷料理や、栄養価を完璧に計算された特製の魔導食に慣れきっている。こんな炭水化物の塊など、そもそも口にする気になれなかった。
そう、頭では完全に拒絶していたのだ。
しかし、彼女の肉体は悲鳴を上げていた。
早朝からの極秘の移動、時差ボケ、そしてこの数時間、規格外の者たちに囲まれて無意識に張り詰めていた神経。先ほど団子を口にしたとはいえ、疲労が蓄積した彼女の胃袋にとって、それは完全に焼け石に水だった。
そこへ容赦なく襲いかかってきたのが、炊き立ての白米の甘い匂いと、炙られた海苔の磯の香りだった。
それは、いかなる精神防御の魔法もすり抜け、エレナの脳髄と胃袋を直接鷲掴みにした。
きゅうぅぅっ……。
胃酸が空の胃壁を焼くような、小さく、しかしひどく切実な音が、彼女の身体の内側から漏れた。
エレナはタブレットを持つ手をピクリと震わせ、奥歯を強く噛み締めた。己の身体の不甲斐なさに羞恥が込み上げるが、磯の香ばしい匂いは彼女の騎士としての理性をゴリゴリと削り取っていく。
「遠慮しないでください。たくさん握ったんで。それに、無理して立ってると立ちくらみしちゃいますよ」
ドクが温厚な笑みを浮かべて、お盆をスッと差し出してくる。
エレナは震える手で、焼きタラコのお握りを一つ手に取った。海苔の香りが、もう我慢しなくていいと脳に直接囁きかけてくる。
観念して、小さく一口、かじる。
「……!」
エレナの青緑の瞳が、限界まで見開かれた。
歯が海苔を噛み切った瞬間に広がる風味と、口の中でふわりとほどける白米の甘み。そして、香ばしく炙られたタラコの塩気と、レア部分の濃厚な旨味が、絶妙なバランスで混ざり合う。
単なる塩と米と魚卵。それだけの組み合わせなのに、彼女が今まで食べてきたどんな高級料理よりも、彼女の細胞が直接「美味い」と歓喜の声を上げていた。
気がつけば、完璧な騎士の仮面などどこへやら、彼女は二口、三口と夢中でお握りを頬張っていた。続いて叩き梅のお握りにも手を伸ばす。梅の爽やかな酸味と鰹節の深いコクが、疲れ切った胃袋を優しく満たしていく。
「お口に合ってよかった。荷物持ちは、体力勝負だからね。少しでも美味いものを食って、機嫌よく働いてもらわないと」
ドクは自分もみそ汁をすすりながら、嬉しそうに目を細めた。
エレナは咀嚼しながら、目の前の男を観察した。
(この人……魔力も闘気も全く感じない。それなのに、料理一つとっても無駄な動きが全くない。……この底知れない静けさは、一体何なの?)
胃袋を完全に掴まれた敗北感と共に、エレナの知的好奇心はさらに強く刺激されていた。
★★★★★★★★★★★
食後。
分厚い強化ガラスで仕切られた観覧席から、ドクと瞳、そしてエレナは、眼下の特別訓練場の様子を見下ろしていた。
訓練場の中央では、ルシアとクロエが模擬戦を行っていた。
「燃え尽きなさい! 『紅蓮刃』!」
「ぬるいぜ! 『剛腕粉砕』!」
太陽の表面温度に匹敵する超高熱の斬撃と、空間そのものを歪ませるほどの質量を持った右ストレートが激突する。
ドゴォォォォォォンッ!!
Sランク同士の衝突による莫大なエネルギーが爆発し、訓練場全体を激しく揺さぶる。分厚い魔力結界がビリビリと軋み、観覧席の強化ガラス越しにまで強烈な振動と熱波が伝わってきた。
「すごいな。二人とも元気だ」
ドクは巨大なバックパックを背負ったまま、まるで運動会の徒競走でも見ているかのようなのんきな声を出した。
「元気ってレベルじゃありませんよ……」
瞳が呆れたようにため息をつく。
エレナは、タブレットに表示される結界の耐久値メーターを見て眉をひそめた。
(日本の結界技術は優秀だけど、あの二人の出力を想定していない。このままでは、結界が破綻するわ)
その予感は、最悪の形で的中した。
ルシアとクロエの激突の余波が、想定外の軌道を描いて訓練場の隅に設置されていた『捕獲魔獣用ケージ』の制御装置を吹き飛ばしたのだ。
ピーッ! ピーッ! ピーッ!
鋭い警報音が鳴り響く。
分厚い鋼鉄の扉がスライドし、暗闇の中から巨大な影が飛び出してきた。
「ガロォォォォォォッ!!」
四つの赤い目、鋼鉄の鱗に覆われた巨体。Aランク相当の特任訓練用魔獣『装甲キマイラ』だ。
長期間ケージに閉じ込められていたストレスと、直前の爆発音によって完全に狂乱状態に陥ったキマイラは、結界のほころびを強引に引き裂き、そのまま真っ直ぐに――観覧席にいる瞳とドクに向かって突進してきた。
「えっ……!?」
瞳が悲鳴を上げ、ショートスピアを構えようとするが、相手はAランク。距離も近すぎる。眼下のルシアやクロエが異変に気づいてこちらへ向かっているが、到底間に合わない。
分厚い強化ガラスなど、Aランク魔獣の突進の前では飴細工に等しい。
「瞳ちゃん、危ない!」
ドクが、巨大なバックパックを背負ったまま、瞳を庇うように一歩前に出た。
(ダメ、彼じゃ殺される!)
エレナの脳が、極限の速度で思考を回転させる。
私しかいない。私が彼らを守る。
だが、キマイラとの間に防御壁を展開する時間は全くない。今できるのは、対象の肉体を直接強化する付与魔法のみ。
エレナは無意識のうちに、自身の魔力の『リミッター』を完全に解除していた。
対象は、一番前に立っているドク。
「『聖盾の加護』! 『限界突破』!!」
エレナの杖から、神々しいまでの極太の光の柱が放たれ、ドクの身体を包み込んだ。
それは、ヨーロッパ最強のサポーターが放つ、文字通りの『全力』。
放った直後、エレナは自身の過ちに気づき、血の気が引いた。
(しまった……!!)
彼女の全力のバフは、Aランクの重戦士ですら魔力回路が焼き切れ、最悪の場合は内側から肉体が破裂するほどの過剰なエネルギーだ。だからこそ、彼女は長年その力を封印してきた。
それなのに今、魔力を一切持たないただのFランクの荷物持ちに、その全力をかけてしまった。
キマイラの攻撃を待つまでもない。彼は、私の魔法のせいで破裂して死ぬ。
パリィィィンッ!!
強化ガラスが粉砕され、狂乱するキマイラの巨大な爪が、光に包まれたドクに襲いかかった。
ガラスの破片と粉塵が舞い上がり、観覧席の視界を完全に奪う。
「ドクさん!!」
瞳の絶叫が響く。
エレナは絶望に青緑の瞳を揺らし、膝から崩れ落ちそうになった。私のせいで、また人を壊してしまった。守りたかったのに、私の力が彼を殺した。
だが。
土埃がゆっくりと晴れた後。
そこに広がっていた光景に、エレナの優秀な頭脳は完全に機能停止した。
「……ふぅ。びっくりした」
ドクは、無傷で立っていた。
美沙が作った特注のツナギには傷一つなく、背中のバックパックも無事だ。
そして、ドクに直撃したはずのエレナの『全力のバフ』は、跡形もなく消え去っていた。魔力の残滓すら、微塵も残っていない。
「うおっ。なんだこれ、急に肩が軽くなったぞ。視界もすごくクリアだ」
ドクは自分の肩をぐるぐると回し、驚いたように目をパチパチと瞬かせた。
「なんか栄養ドリンクを十本くらい一気に飲んだみたいだ。すごいな、エレナさん。これが外国のマッサージ魔法か? 長年の肩こりが嘘みたいに消えたよ」
「……は?」
エレナの口から、間抜けな声が漏れた。
「ギ、ギィ……」
そして、ドクに襲いかかっていたはずの装甲キマイラは。
ドクが肩を回した瞬間に、彼から無意識に漏れ出した極大魔力の圧を至近距離で浴びた。
強靭なAランクモンスターは、悲鳴を上げることも、白目を剥く暇すら与えられなかった。圧倒的な死の気配の前に生物としての防衛本能が完全に暴走し、四肢を石像のように硬直させ、そのままの姿勢でドスンと床に倒れ伏していた。ピクリとも動かない。
「……あれ。こいつ、急に倒れたぞ。床が滑ったのかな? こんな所で走るからだ」
ドクは硬直したキマイラを見下ろし、のんきな声を出した。
「……」
エレナは、手から滑り落ちた杖が床に転がる音すら聞こえていなかった。
ただ呆然と、目の前に立つ男を見つめている。
私の全力を。
私が長年、誰かを壊してしまうと恐れて鎖で縛り付けてきた、忌まわしくも強大なこの力を。
この男は、傷一つ負うことなく、それどころか「マッサージ」だと言って涼しい顔で全て飲み込んでしまった。
どれだけ注ぎ込んでも決して溢れることのない、無限の器。
静まり返った観覧席で、エレナの青緑の瞳がかすかに震える。
圧倒的な現実を前にした彼女の心の中で、かつてないほどの静かな驚愕と、ある確信が芽生え始めていた。




