第23話 完璧な騎士の憂鬱
『氷の女王』。あるいは『完璧な騎士』。
ヨーロッパの探索者界隈において、Sランク聖騎士エレナ・ヴェーバーに向けられる賛辞は、常に冷たく硬質な響きを帯びていた。
輝くようなブロンドのカーリーヘアに、健康的に日焼けした肌。一切の感情を排したかのような理知的なブルーグリーンの瞳。鉄壁の防御と、あらゆる戦況を覆す強力なバフを操る彼女は、非の打ち所のないトップエクスプローラーとして君臨している。
(……それにしても、日本の魔道具店は興味深いわね。東洋の独自の術式理論と、特殊合金の加工技術が絶妙なバランスで融合している。先ほどショーウィンドウで見た魔力増幅器の回路構成……魔力伝導率のロスが極限まで抑えられていたわ。あれを応用すれば、私の過剰な出力も、あとコンマ数パーセントは安全に減衰させられるかもしれない。いや、触媒の特殊合金の耐熱性が……)
イベント開催を控え、極秘裏に早期来日を果たしていたエレナは、変装用のサングラスと深く被ったキャスケットで素性を隠し、八王子の探索者特区を一人で散策していた。
洗練された白いスプリングコートに身を包む彼女は、ただ歩いているだけでも雑誌の表紙から抜け出してきたかのようなオーラを放っており、すれ違う人々が思わず振り返る。だが、当の本人の頭の中は、先ほどから複雑な魔法のロジックとステータスの限界値の計算で完全に埋め尽くされていた。
彼女は、自身の異常な魔力出力に長年悩まされていた。
大付与術師としての彼女のバフは、出力が高すぎるのだ。通常の探索者に全力をかければ、魔力回路が許容量を超えて焼き切れ、最悪の場合は肉体が崩壊してしまう。過去にパーティメンバーを壊しかけたトラウマから、彼女は常に自身の力を10パーセント以下にセーブし、緻密な計算で味方を生かさず殺さずのラインに保つ『氷の女王』を演じるしかなかった。
(私の全力を、限界まで注ぎ込める『器』が欲しい……。フランクフルト空港で見た動画の『ワンパンおじさん』なら、あるいは……)
考え事に没頭するあまり、エレナは特区のメインストリートから外れ、入り組んだ路地裏へと迷い込んでしまっていた。
「……しまった。ここ、どこかしら」
周囲にはシャッターの下りた倉庫が並び、人通りは全くない。スマートフォンのナビゲーションアプリを開くが、現在地を見失って画面の中で矢印がぐるぐると回っている。マネージャーには内緒で抜け出してきた手前、迂闊に連絡を入れることもできない。
完璧な騎士らしからぬ独り言を呟きながら立ち尽くしていると、背後から声がした。
「おや、お姉さん。迷子ですか?」
ビクッと肩を揺らして振り返る。
そこに立っていたのは、両手に巨大な段ボール箱を抱え、さらに背中にも信じられないほど大きなバックパックを背負った男だった。黒のテーラードジャケットを着こなす、深く彫りのある端正な顔立ち。長年の過酷な環境で磨かれたような、ワイルドで危険な色気を放つ大人の男だ。ジャケットの胸元から、小さな黒い犬の顔がひょっこりと覗いている。
(な、なにこの人……。あの荷物の量、おかしいわ。総重量で200キロは超えているはずよ?)
エレナの優秀な魔力眼が、男の異常性を瞬時に見抜く。
それだけの致死的な重量を背負いながら、男の足腰は1ミリのブレもなく、息一つ乱れていない。まるで発泡スチロールでも持っているかのような涼しい顔だ。魔力で身体強化をしているわけでもないのに、どうやってあの負荷に耐えているのか。
「迷子、ではありません。少し、日本の風情を楽しんでいただけです」
エレナは咄嗟にサングラスの位置を直し、冷ややかな声で強がった。Sランクとしての矜持が、見知らぬ男に助けを求めることを良しとしなかったのだ。
「そうですか。でも、この先は行き止まりですよ。特区のメインストリートに戻るなら、駅の方へ案内しますけど」
男――ドクは、エレナの威圧的な態度にも全く動じず、人懐っこい温厚な笑みを浮かべた。
「……道は分かっています」
「ならいいんですが。それ、スマートフォンですよね? 日本の電波だと、路地裏ではGPSが狂いやすいんです。良かったら、駅まで一緒に歩きませんか。俺も買い出しの帰りで、ちょうど駅の方へ向かうところなんで」
ドクは決して恩を着せるような言い方はせず、ごく自然に、エレナのプライドを傷つけないように提案した。
エレナは少し迷ったが、これ以上路地裏を彷徨うわけにもいかず、小さく頷いた。
「……仕方ありませんね。あなたがどうしてもと言うなら、同行を許可します」
「ありがとうございます。俺は田中。田中ドクです。お姉さんは、観光ですか?」
「……エレナよ。観光ではなく、人を探しに来たの」
二人は並んで歩き始めた。
エレナは歩きながら、隣の男――ドクの足運びに釘付けになっていた。
(素晴らしい体幹……。骨格と筋肉の連動、重心の移動が極限まで最適化されている。魔力を使わずに、純粋な身体操作だけであれほどの重量を制御しているなんて……)
「ドク。あなた、その荷物……重くないの?」
「ん? これですか。まあ、俺は荷物持ちが本業ですからね。これくらい持てないと、日当をもらえませんから」
ドクは屈託なく笑った。
「今日はパーティのみんなで食べる一週間分の食材と、特注の機材の買い出しを頼まれちゃって。少し買いすぎたかな」
(荷物持ち? こんな見事な肉体とポテンシャルを持った人間が、ただのポーター?)
理解に苦しむエレナだったが、ドクが自身の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれていることに気づき、胸の奥が微かに温かくなるのを感じた。
ヨーロッパでは、彼女は常に「守る側」であり、「完璧な存在」として振る舞うことを求められていた。彼女の歩幅に合わせてくれる者など、今まで誰もいなかった。
特区の端にある、小さな和風の甘味処の前に差し掛かった。
「少し、休憩しませんか。お姉さん、歩き疲れたでしょう」
ドクが荷物を下ろし、店の前の赤い長椅子を勧めてくる。
「疲れてなど……」
ギュルルルルッ。
エレナの言い訳を遮るように、彼女のスマートな腹部から、決して鳴ってはいけない盛大な音が鳴り響いた。
「っ……!」
エレナの顔が、耳の先まで一瞬で真っ赤に染まる。氷の女王の完璧な仮面に、ピシリとヒビが入った瞬間だった。
「……ちょうど良かったです。俺も小腹が空いてたんで。ここのみたらし団子、絶品なんですよ」
ドクはエレナの腹の音など全く聞こえなかったかのように振る舞い、店先の小窓から団子を二本と、温かいほうじ茶を買ってきた。
「どうぞ。服を汚さないように気をつけてくださいね」
ドクの無骨だが優しい手が、湯気を立てる団子とほうじ茶を差し出してくる。ジャケットの懐から顔を出したコロが、「クゥン」と鳴いて尻尾を振った。
エレナは顔を伏せたまま、震える手で団子を受け取った。
「……ありがとう」
一口、齧る。
焦げた醤油の香ばしさと、とろけるような甘辛いタレ。驚くほど柔らかな餅の食感が、口いっぱいに広がった。
「美味しい……」
「でしょう。俺みたいな底辺は、こういう安くて美味しいものを見つけるのだけは得意なんですよ」
ドク自身も団子を頬張りながら、満足げに笑う。
その無防備で飾らない笑顔に、エレナは不覚にも心臓がトクンと跳ねるのを感じた。
温かいほうじ茶が、緊張を解きほぐしていく。
気づけば、エレナは自分でも驚くほど素直に、言葉をこぼしていた。
「……私、人を探していると言ったわよね」
「はい。恋人、とかですか?」
「違うわ。私が探しているのは……私の『全力』を受け止めてくれる人」
エレナはほうじ茶の紙コップを両手で包み込み、伏し目がちに言った。
「私の力は……人を壊すの。だから私は、いつも自分の力を鎖で縛り付けている。誰も受け止めてくれない力なんて、ただの呪いよ」
完璧な騎士として、決して他人に弱みを見せてこなかった彼女が、なぜ今日会ったばかりの荷物持ちの男にこんな本音をこぼしているのか。自分でもわからなかった。
ただ、隣に座るこの男が放つ、底知れない海のような静かな包容力が、彼女の頑なな心を溶かしていた。
ドクは団子の串をゴミ箱に捨てると、真面目な顔でエレナを見た。
「すごい力なんだな。俺なんかFランクで魔力もからっきしだから、そんな強力な魔法があるなんて、正直羨ましいよ」
「羨ましい? あなた、私が味方を壊しかけたって言ったのが聞こえなかったの?」
「聞こえたよ。でもさ、それってただ、周りの器が小さかっただけじゃないか?」
ドクは自分の大きな掌を見つめ、どこか懐かしむように笑った。
「俺、昔から無駄に頑丈なのだけが取り柄でさ。よくダンジョンの中で、人から八つ当たりで殴られたり、魔法の余波に巻き込まれたりしたけど、全然平気だったんだ。骨が軋むことはあっても、壊れることはなかった」
ドクはエレナに向き直り、屈託なく言った。
「だから、お姉さんのその全力の魔法とやらも、俺なら案外、ケロッと受け止められるかもしれないな」
「え……?」
エレナのブルーグリーンの瞳が、大きく見開かれた。
本人は、自分を過小評価した上でのただの軽口のつもりなのだろう。
だが、その言葉は、エレナがこれまでの人生でずっと、誰かに言ってほしかった言葉そのものだった。
ドクの真っ直ぐな瞳に見つめられ、エレナは頭の中が真っ白になった。
胸の奥で、何かが激しく警鐘を鳴らしている。彼が放つ、圧倒的な引力。
(この人の、この底知れない頑丈な器なら、本当に……)
エレナの顔が、先ほどの空腹の音の時とは比べ物にならないほど赤く染まっていく。
「あ、あの、私……!」
エレナが何かを言いかけた、その瞬間だった。
「ドクさーん!!」
路地の角から、スマートフォンの画面を睨みつけながら、ショートスピアを握った瞳が早足で飛び出してきた。
「もう、こんな所にいたんですか! 買い出しのおつかいに、どれだけ時間かかってるんですか! マネージャーは心配しましたよ!」
「あ……瞳ちゃん。ごめん、少し道に迷った人を案内していて」
ドクが慌てて立ち上がったその後ろから、さらに三つの規格外の気配が路地裏になだれ込んでくる。
「ちょっと小鳥ちゃん、抜け駆けは感心しないわね」
美しい赤髪を揺らしながら、ルシアが余裕の笑みを浮かべて現れた。
「おおっ、美味そうな匂いがする! アタシもその団子食いてえ!」
タンクトップ姿のクロエが、野獣のような嗅覚で甘味処に突進してくる。
「やあ、おじさん。買い出しの途中で綺麗な女の人とデートとは、隅に置けないね」
アリサラが音もなく現れ、ドクの背後に回ってニヤニヤと笑った。
世界最高峰のSランクたちと、彼女らを束ねるマネージャー。
彼女たちが無意識に放つ濃密なプレッシャーに、周囲の空気がビリビリと震え、路地裏の気温が数度上がったように感じられた。
その中心で、エレナは呆然と立ち尽くしていた。
(ルシア? クロエに、アリサラまで? どうして、ヨーロッパや南米のSランクトップエクスプローラーたちが、こんな極東の地に集まっているの……?)
エレナの呟きに気づいたルシアが、不敵な笑みを浮かべて振り返った。
「あら。誰かと思えば、ドイツの氷の女王、エレナじゃない。あなたこそ、なんで私のドクとこんなところで油を売ってるの?」
「……あなたの、ドク?」
エレナの視線が、ルシアからドクへとゆっくりと移る。
ルシアの放つ圧倒的な魔力の波動に対し、エレナも負けじとSランク聖騎士としての冷たく硬質なオーラを展開した。
「ちょっと! 私の獲物に、勝手に手を出さないでもらえるかしら」
ルシアが剣の柄に手をかけ、瞳を細める。
「えっと、俺はただ道案内を……」
ドクは四方向からの殺気にも似たプレッシャーに挟まれ、オロオロと視線を彷徨わせていた。
(この男は一体何者なの? ただの荷物持ちだと言った。魔力も感じない。しかし、Sランクたちが一人のFランクを巡って、本気で牽制し合っている……)
動画で見た深層ボスを消し飛ばした男とは、まだ結びついていない。
だが、エレナの優秀な頭脳は、目の前の光景から強烈な違和感と、それを上回る『知的好奇心』を刺激されていた。
この男が自称した『底知れない頑丈さ』。
そして、世界最高峰の女たちが彼に群がる理由。
エレナのブルーグリーンの瞳の奥に、氷の女王らしからぬ熱を帯びた探求の火が静かに、そして確実に灯っていた。




