第19話 最高のサンドバッグ
第21階層『巨岩の荒野』を吹き荒れる土煙は、Bランク魔獣タウロスが爆散した余波をたっぷりと孕んでいた。
クロエ・ヴァンデレールが放った渾身の右ストレートの運動エネルギーは、対象を粉砕するだけでは到底収まりきらなかった。すり鉢状の巨大なクレーターを穿ちながら周囲の岩盤を無惨に巻き上げ、ドクたちのいる数百メートル先まで散弾の雨のように飛来してきた。
「ッ! 伏せてください!!」
瞳が悲鳴に近い声を上げ、手にしたタブレットを盾にするように身を屈める。
アリサラは舌打ちをして素早く岩陰へ跳躍し、ルシアは楽しげな笑みを浮かべたまま、飛来する数トンクラスの岩塊を真っ向から迎え撃つべく、腰の剣の柄に手をかけた。
だが、ルシアが剣を抜くより早く。
「……すごい埃だな。目に入りそうだ」
ドクが、自重を超える巨大なバックパックを背負ったまま、ごく自然な動作で一歩前に出た。
飛来した無数の巨大な岩の破片と、暴風のような衝撃波。
それがドクの身体に触れる直前――プンッ、という間の抜けた音と共に、岩も、風の圧力も、すべてが虚空に「吸い込まれて」消滅した。
物理法則の完全なる無視。ドクの『万物収納』が、致死の運動エネルギーをただの「不要なゴミ」としてストックの底へ放り込んだのだ。
ドクの背後にしゃがみ込んでいた瞳の髪一本すら揺れず、ルシアの周囲に立ち上っていた濃密な魔力の揺らぎすら、ピタリと静まった。
「……あ?」
数百メートル先の爆心地。もうもうと立ち込める土埃の中で立ち上がったクロエが、野生の獣のような鋭い視線をこちらへ向けた。
彼女の目は、完全に獲物を探す捕食者のそれだった。自身の全力の打撃から生じた余波が、不自然な形で「消失」した空間。そこに立つ、一人のくたびれた男。
ドンッ!
クロエの足元の岩盤が爆発した。
彼女は跳躍したのではない。純粋な脚力だけで、数百メートルの距離を一瞬で圧縮するように突進してきたのだ。
「お前!」
砂塵を突き破り、クロエがドクの眼前に迫る。
その彫りの深いエキゾチックな顔立ちには、狂暴なまでの歓喜が張り付いていた。
彼女はブレーキなどかけない。減速すらしない。
すれ違いざまの挨拶とばかりに、極太の丸太をへし折るほどの威力を秘めた右のラリアットを、ドクの太い首筋めがけて無造作に振り抜いた。
「ドクさん!!」
瞳の絶叫が荒野に響く。
だが、ドクは回避する素振りすら見せなかった。いや、彼にとっては「外国人の元気なお嬢さんが、急に走ってきて転びそうになっている」ようにしか見えていなかった。
ゴスッ。
鈍い音が響いた。
クロエの分厚い革のバンデージが巻かれた腕が、ドクの首に直撃する。
並の探索者なら首の骨が粉砕され、頭部が吹き飛んでいる一撃。
しかし、ドクの首は1ミリも動かなかった。
足元の砂すら崩れていない。
クロエの腕から放たれた致死の衝撃は、ドクの皮膚に触れた瞬間に完全に底なし沼へ飲み込まれ、彼女の身体だけが慣性でドクの分厚い胸板にガシッと受け止められた。
「おっと。危ないよ、お嬢さん。足元、石だらけだから」
ドクは、ラリアットを放ってきたクロエの背中に腕を回し、まるで転びかけた子供を支えるように優しく抱きとめた。
「…………は?」
クロエの口から、間抜けな声が漏れた。
自身の右腕の感触を確かめる。確かに叩き込んだ。手加減など一切していない。
だが、目の前の男は、ダメージを受けるどころか、涼しい顔をして自分を支えている。
しかも、密着したドクの肉体から、クロエの野性の勘が「尋常ではないモノ」を感じ取っていた。
この男の皮膚の下。無数の傷跡の奥底に、どれほどの致死量が圧縮されているのか。触れているだけで全身の毛穴が粟立ち、細胞が歓喜に震え上がるような、底知れない暴力の気配。
クロエは、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離で見るドクの顔は、無精髭を綺麗に剃り整えられ、深く彫りのある大人の男の色気を放っていた。
「アンタ……」
クロエのふくよかな唇が、三日月のように吊り上がった。
「アンタ、最高じゃん!!」
「えっ?」
次の瞬間、クロエはドクの首に両腕を回し、自身のグラマラスな身体をこれでもかと押し付けて、豪快に飛びついた。
そのままドクの身体に脚を絡ませ、プロレス技の『胴締めスリーパー』のような体勢で、彼をガッチリとホールドする。
「うおっ!? ちょ、お嬢さん!?」
「あはははっ! すげぇ、すげぇよアンタ! アタシの全力の余波を消した上に、ノーガードでアタシの腕を受け止めるなんて! ヨーロッパ中探しても、こんなに頑丈な男いなかったんだぜ!」
クロエはドクの首筋に頬をすり寄せ、アドレナリン全開の笑い声を上げた。
力加減を知らない彼女のホールドは、万力のようにドクの首と胴体を締め上げている。しかし、ドクの『収納』がその物理的圧力をすべて無効化しているため、ドク自身は「ちょっと息苦しいけど、すごくいい匂いのする女性に抱きつかれている」という、ひたすらに困惑するだけの状況に陥っていた。
「あー、えっと、俺はただの荷物持ちの田中で……」
「アタシはクロエ! クロエ・ヴァンデレールだ! なあタナカ、アンタ今日からアタシの最高のサンドバッグな! いや、運命の相手って呼んでもいいぜ! 思い切り殴り合おう!」
クロエがドクの広い背中をバンバンと叩きながら歓喜の声を上げていると、その周囲の空気が急速に熱を持ち始めた。
「……ちょっと」
極限まで圧縮された魔力が、陽炎のように揺らめく。
ルシアが、美しい赤髪を揺らしながら、ゆっくりと歩み寄ってきた。その手は剣の柄に添えられ、Sランク特有の濃密な殺気がクロエに向けられている。
「私のヒーローに、勝手にベタベタ触らないでくれる? 野蛮なインファイターには、最低限の礼儀を教えてあげる必要があるみたいね」
ルシアの冷たい声に対し、クロエはドクの背中にしがみついたまま、好戦的な笑みを浮かべて振り返った。
「なんだ、ブラジルの太陽神じゃん。日本にいるなんて聞いてないぜ? っていうか、タナカがアンタのモンだって証拠でもあんのかよ。早い者勝ちだろ、こういうのは」
「野蛮なだけでなく、頭の造りも単純なのね。いいわ、私が力ずくで理解させてあげる」
「上等だ。アンタの魔法ごと、その綺麗な顔面ぶっ飛ばしてやるよ!」
近接特化の最強アタッカーと、最高峰の魔法剣士。
二人のSランクの間に、一触即発の火花が散る。周囲の空気がビリビリと震え、足元の小石が魔力の余波で浮き上がり始めた。
「あー……ストップ、ストップ」
その時、二人の間に挟まれたドクが、極めてのんきな声を出した。
「クロエさんも、ルシアさんも。ダンジョンの中で喧嘩はダメだよ。危ないし、怪我したらどうするんだ。それに、今日の石拾いのノルマももう終わったから、そろそろ地上に帰ろう。コロもお腹空いてるみたいだし」
ドクの足元では、フェンリル・パピーのコロが「クゥン」と同意するように鳴いていた。
ドクの間の抜けた声と、一切の緊張感を持たないその態度に、ルシアとクロエの殺気は風船がしぼむように霧散してしまった。
「……はぁ。タナカがそう言うなら、今日のところは預けといてやるよ」
クロエはドクの背中から飛び降りると、ポンポンと自分のホットパンツの埃を払った。
「でも、アタシはタナカについていくからな。こんな頑丈な男、絶対に逃がさないぜ」
「私も一緒よ。ドクの隣は私の指定席だもの」
ルシアがすかさずドクの右腕に自身の腕を絡ませ、豊かな胸を押し付ける。
クロエも負けじとドクの左腕に腕を絡ませた。
「ちょ、ちょっと二人とも! ドクさんから離れてください! マネージャーの許可なく接触しないで!」
瞳が涙目で抗議するが、二人のSランクは全く意に介さず、ドクの両腕を占拠したまま歩き出した。
二人のSランクが火花を散らす様子を、宙に浮く特注ドローンのレンズが静かに捉え続けていた。
★★★★★★★★★★★
数時間後。地上への帰還を果たした一行。
ギルドの窓口で本日の日当を受け取り、ドクが「お疲れ様でした」と小さく伸びをした時だった。
「ねえ、ドク」
ルシアが、ドクの腕をそっと引いた。
「今日はたくさん働いたでしょ。ご褒美に、私と少し街を歩かない? デートしましょ」
「えっ、デート!? だ、ダメです! ドクさんはこれから私と明日のスケジュール確認の打ち合わせが……!」
瞳が慌てて割って入ろうとするが。
「あら、小鳥ちゃん。打ち合わせなら後でもできるでしょ。それより、私とちょっと面白い場所に行かない?」
いつの間にか背後に忍び寄っていたアリサラが、瞳の両肩をガシッと掴んだ。
「えっ、ちょ、アリサラさん!? 離して……!」
アリサラは瞳の抗議を無視し、「あっちにすごく美味しいクレープ屋があるんだよー」と、彼女を文字通り引きずって人混みの中へと消えていった。
クロエも「アタシは日本の肉が食いたい! 焼き肉屋探してくる!」と、勝手にどこかへ走り去っている。
残されたのは、ドクとルシアの二人だけになった。
「さあ、行きましょ」
ルシアは悪戯っぽく微笑み、ドクの腕を引いて八王子の駅前通りへと歩き出した。
夕暮れ時の八王子駅周辺は、多くの探索者と一般人が入り混じり、活気に満ちていた。
ルシアの服装は、ダンジョンでの軽装鎧から、瞳が貸し出したらしい落ち着いたネイビーのサマードレスに着替えていた。しかし、そのグラマラスなプロポーションと、彼女自身が放つ圧倒的な華やかさは隠しきれず、すれ違う人々の視線を釘付けにしている。
対するドクも、美沙の工房で作られた特注のツナギを脱ぎ、黒のテーラードジャケットに身を包んでいた。無精髭を剃った彫りの深い顔立ちは、まるで海外の映画俳優が休日の街をお忍びで歩いているような色気を放っている。
「……ルシアさん、目立ってるよ。みんな見てる」
ドクは周囲の視線に耐えきれず、少し身を縮こまらせた。
「俺みたいな薄汚いおっさんと歩いてたら、ルシアさんの評判が落ちちゃうよ。ファンに怒られるんじゃないかな」
「ファンなんて関係ないわ」
ルシアはドクの腕にさらに深く腕を絡ませ、楽しげに笑った。
「私が隣を歩きたい男は、世界であなただけよ、ドク。……それに、あなた全然薄汚くなんかないわ。すごく、格好いい」
至近距離で見つめられ、甘い香水の香りが鼻をくすぐる。
長年底辺として扱われ、女性に甘い言葉をかけられた経験など皆無のドクは、顔を真っ赤にして視線を泳がせた。
「そ、そんなことないよ。俺はただの荷物持ちで……」
「ふふっ。その謙虚なところも好きよ」
ルシアはドクを引っ張り、駅ビルのカフェテラスへと向かった。
二人はコーヒーを注文し、向かい合って座る。
「……ねえ、ドク」
ルシアはカップを両手で包み込み、少しだけ真剣な表情でドクを見つめた。
「あなたは、どうしてそんなに優しいの?」
「優しい? 俺が?」
「ええ。私やクロエがあれだけ無茶をしても、あなたは決して怒らない。それに、昨日だって……あの『紅蓮の剣』とかいう最低のパーティに囮にされたのに、彼らを恨む様子もなかった。あなたの力なら、彼らを跡形もなく消し去ることだってできたはずなのに」
ルシアの言葉に、ドクは困ったように眉を下げた。
「恨むとか、そういうんじゃないんだ。俺はFランクで、彼らはAランク。命の重さが違うのは、この世界じゃ当たり前のことだから。それに……俺はただ、今日を生きて、明日ご飯が食べられればそれで十分なんだ。誰かを傷つけてまで、上に立ちたいとは思わないよ」
ドクの言葉には、一切の虚飾がなかった。
絶対的な力を持ちながら、その力に溺れることなく、己の身の丈に合ったささやかな平穏だけを望む男。
長年、数多の野心家や権力亡者たちを見てきたルシアにとって、ドクのその在り方は、奇跡のように尊いものに思えた。
(……ああ、やっぱり。この人は、私の本物のヒーローだわ)
ルシアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
戦闘における底知れない器の大きさだけでなく、この深く、静かで、途方もなく優しい精神の器。
それに触れれば触れるほど、彼女はドクという人間に深く惹きつけられていくのを自覚していた。
「……ドク」
ルシアは身を乗り出し、テーブルの上にあったドクの無骨な手に、自身の滑らかな手を重ねた。
「えっ、ルシアさん?」
「私ね、日本に来て本当によかった。あなたを見つけられたから。……これからも、ずっとあなたのそばにいさせてね」
情熱的で、それでいてどこか庇護を求めるような、大人の女性の甘い声。
ドクは完全にフリーズし、顔から火が出るかと思うほど赤面した。
「あ、あの、俺なんかでよければ……」
「ふふっ、約束よ」
ルシアが艶やかに微笑んだ、その時だった。
「みーつけた!!」
カフェのテラス席の柵をヒラリと飛び越えて、タンクトップ姿のクロエが乱入してきた。
手には、どこかの屋台で買ったらしい巨大な肉の串焼きを何本も握っている。
「ちょっとルシア! アタシを置いてタナカと二人で何いい雰囲気になってんだよ! ずるいぜ!」
クロエはドクの隣の椅子を無理やり引き寄せ、ドンと座り込んだ。
「ほらタナカ、日本の肉だ! すげぇ美味いから食ってみろ!」
口元に肉串を押し付けられ、ドクは「わっ、ちょっと待って」と慌ててのけぞる。
「ちょっとクロエ! 私とドクのデートの邪魔をしないで!」
ルシアが立ち上がり、柳眉を逆立てる。
「デート? アタシも混ぜろよ! タナカのサンドバッグ第一号はアタシなんだからな!」
「なんだいなんだい、騒がしいね」
そこに、油の匂いを漂わせた美沙が、片手に缶ビールを持った姿でふらりと現れた。
「ドク、あんたのツナギの調整が終わったんだ。さっさと工房に戻ってフィッティングするよ」
「あ! 皆さん見つけました! ドクさん、早く明日の打ち合わせを……!」
さらにその後方から、アリサラから解放されたらしい瞳が、息を切らして駆けてくる。
たった数分の甘い時間は終わりを告げ、再びカオスな騒動が始まった。
「みんな元気だな。……でも、こういうのも悪くないか」
ドクは世界最強の女性たちに囲まれて困惑しながらも、どこか楽しげに笑い、出された肉串を一口かじった。




