第18話 ヨーロッパからの刺客
「ズズッ、ズズズッ」
八王子駅北口から少し歩いた裏路地にある、昔ながらの店構えをした蕎麦屋『満留賀』。
昼時を少し過ぎた店内には、出汁と醤油が焦げたような甘辛い香りが漂っている。
ドクは、目の前に置かれた『せいろの大盛り』に黙々と向き合っていた。
箸でひとつまみすくい上げた蕎麦の先に、ほんの少しだけワサビを乗せる。そして、猪口に入った濃いめのつゆに蕎麦の下三分の一だけを浸し、空気を巻き込むように一気に啜り上げた。
「ん……」
冷水でしっかりと締められた蕎麦のコシが歯を押し返し、噛むほどに蕎麦の実の野性味ある香りが鼻腔へ抜けていく。鰹の風味がガツンと効いた辛口のつゆが、その香りをキリッと引き締めていた。
「美味いな。立ち食い蕎麦の柔らかい麺も腹の足しには最高だけど、こういうちゃんとした蕎麦屋のせいろは、別腹で無限に入りそうだ」
ドクは満足げに息をつき、無骨な手で温かいほうじ茶の湯呑みを包み込んだ。
長年、日雇いの安月給で生活してきた彼にとって、外食といえばチェーン店の牛丼か立ち食い蕎麦が関の山だった。こうして小上がりで座布団に座り、せいろを大盛りで頼むなど、数年に一度の贅沢と言っていい。
「おじさん、本当に美味しそうに食べるね。見てるこっちまでお腹空いてくる」
向かいの席に座るアリサラが、自身の『鴨せいろ』の鴨肉を箸でつまみながら、アーモンドアイを細めて笑った。
「この鴨の脂が溶け出した温かいつゆも、すごく濃厚で美味しいよ。ちょっと食べてみる?」
アリサラが身を乗り出し、鴨肉を挟んだ箸をドクの口元へと差し出してくる。
「え、いいのか? じゃあ一口……」
「ダメです!!」
ドクの隣に座っていた瞳が、持っていた割り箸でアリサラの箸を空中でガシッと受け止めた。
「ドクさんは今、自分の蕎麦の香りを純粋に楽しんでいるんです! 横から鴨の強い脂を混ぜないでください! それに、間接キスなんてマネージャーが許しません!」
「あら、小鳥ちゃんは相変わらずガードが堅いね。私はただ、美味しいものを共有したかっただけなのに」
アリサラは悪びれず箸を引っ込めると、自身の口に鴨肉を放り込んだ。
その横で、ルシアは『天せいろ』の巨大な海老天を豪快に齧っていた。
「日本の『テンプラ』は素晴らしいわね。衣に油の重さがなくて、海老の甘みが凝縮されてる。ブラジルの肉料理とは違ったベクトルで力が湧いてくるわ」
「ルシアさん、天ぷらのおかわり頼みましょうか? 経費で落ちますから」
「ふふ、小鳥ちゃんは太っ腹ね。じゃあ、穴子の天ぷらもお願いしようかしら」
世界最高峰のSランク探索者たちと、大手ギルドの令嬢。そして、Fランクの荷物持ち。
周囲の客がギョッとして二度見するような奇妙な四人組の昼食は、賑やかに進んでいった。
「蕎麦湯、もらえますか」
最後に残ったつゆに白濁した蕎麦湯を注ぎ、最後の一滴まで飲み干したドクは、満ち足りた顔で腹をさすった。
「ごちそうさまでした。いやぁ、瞳ちゃんの経費でお昼をご馳走になっちゃって、なんだか申し訳ないな。午後からの荷物持ちの仕事、給料分以上にしっかり働かせてもらうよ」
「気にしないでください。ドクさんが美味しいものを食べて、万全の状態でダンジョンに潜ってくれることが私の一番のプロモーションになりますから」
瞳はキリッとした表情で財布を取り出した。
「午後の予定ですが、アリサラさんの案内で、第1ダンジョンの第21階層『巨岩の荒野』エリアに向かいます。未発見のルートがあるかもしれないとのことですが……ドクさん、お腹いっぱいで眠くなったりしてませんか?」
「大丈夫だ。荷物持ちは歩きながらでも寝られるからな」
「歩きながらは寝ないでください。危ないですから」
いつもの的外れなドクの返しにツッコミを入れつつ、一行は店を後にした。
★★★★★★★★★★★
午後2時。第1ダンジョン、第21階層『巨岩の荒野』。
中層の入り口である『風化の谷』を抜け、さらに深く潜ったこのエリアは、見渡す限りの赤茶けた大地に、ビルほどもある巨大な岩石が墓標のように乱立する荒涼とした空間だった。
天井にあたる岩盤は遥か高く、どこからか差し込む鈍い自然光のようなものが、乾いた大地に深い影を落としている。空気はひりつくように熱く、呼吸をするだけで喉の粘膜から急速に水分が奪われていくのがわかった。
「この辺りは、大型のパワー系モンスターが縄張りにしているエリアだよ。油断すると、あの岩の陰から車サイズの岩塊が飛んでくるから気をつけてね」
先頭を歩くアリサラが、周囲の岩山に視線を走らせながら言った。彼女の足取りは羽のように軽く、乾いた砂を踏む音すらしない。
その後ろを、ドクは巨大なバックパックを背負って黙々と歩いていた。
美沙に作ってもらった特注のミスリル編み込みツナギは、信じられないほど通気性と伸縮性に優れており、ドクの身体から無意識に漏れ出す尋常ではない負荷にも全く風化する気配がなかった。足元のコロも、暑さに舌を出しながらもドクのブーツの陰を歩いてしっかりついてきている。
ズズンッ……。
不意に、微かな地響きが足元を揺らした。
「……?」
ドクが立ち止まり、首を傾げる。
「アリサラさん、今の」
瞳がショートスピアを握り直し、タブレットのレーダーを確認する。
「うん。前方、約五百メートルの岩山の向こう。……かなり激しくやってるね」
ドゥンッ!!
今度は明確な衝突音と共に、遠くの巨大な岩の頂上付近が爆発したように砕け散り、盛大な土埃が舞い上がった。
「モンスター同士の縄張り争いかしら。……いや、違うわね」
ルシアが目を細め、好戦的な笑みを浮かべた。彼女の周囲の空気が、微かに熱を帯び始める。
「人間の気配がするわ。それも、とびきり野蛮で、最高にイカれたヤツの匂い」
「野蛮って……ここ、中層ですよね。あんな岩山を砕くような戦闘をしてる探索者なんて……」
瞳の言葉を遮るように、前方から地鳴りのような咆哮が響き渡った。
「ガオォォォォォォォッ!!」
土埃を切り裂いて姿を現したのは、体高が5メートルはあろうかという二足歩行の巨大な猛牛――Bランクの大型魔獣『グランド・タウロス』だった。
全身を鋼鉄のように硬い筋肉の鎧で覆い、太い鼻息と共に岩盤を蹴り砕いて突進してくる。通常、複数の魔法使いと重戦士が連携してようやく倒せるような強敵だ。
しかし、そのタウロスは獲物を追っているのではなかった。
背後から何かに「追われて」いたのだ。
「オラオラァ! どうしたデカブツ! もう息切れかよ!」
タウロスの巨体に張り付くようにして、一つの影が跳躍した。
褐色の肌に、輝くようなブロンドの髪をポニーテールに結んだ女だった。
タンクトップとホットパンツという、ダンジョンを舐めきったような軽装。しかし、その露出した手足には、野生動物のようにしなやかで強靭な筋肉が躍動していた。武器は持っていない。両腕に分厚い革のバンデージを巻いているだけだ。
彫りの深いエキゾチックな顔立ちに、狂暴なまでの笑みを貼り付けた彼女は、タウロスの背中に飛び乗るや否や、その太い首筋に向かって素の拳を振り下ろした。
ドゴォォォォォォンッ!!
爆薬が破裂したような凄まじい打撃音が、荒野に轟いた。
「ベガァッ!?」
鋼鉄の筋肉を誇るはずのグランド・タウロスが、たった一撃のパンチで頭部を大きく陥没させられ、巨体をくの字に曲げて地面に叩きつけられた。
数トンの質量が地面を削りながら滑り、土煙を上げて停止する。タウロスはピクピクと痙攣した後、光の粒子となって消滅していく。
「……は? え?」
双眼鏡スコープでその光景を覗き込んでいた瞳が、信じられないものを見たように目を丸くした。
「魔法の光もない。スキルのエフェクトも見えませんでした。……純粋な物理打撃だけで、Bランクのタウロスの装甲を粉砕……? あんなデタラメな出力、人間の骨格と筋肉で耐えられるはずが……」
「ハハハッ! 脆い、脆いね! 硬いだけで中身がスカスカじゃねえか! もっとアタシを楽しませろよ!」
タウロスを殴り殺した女は、着地の勢いのまま跳ね起きると、周囲を取り囲んでいた残りのタウロスの群れに向かって、自ら猛然と突っ込んでいった。
ヨーロッパ最強のインファイター。Sランク獣闘士、クロエ・ヴァンデレール。
彼女の戦闘は、洗練された武術というよりも、純粋な暴力の暴風だった。
タウロスが振り下ろす丸太のような腕を、彼女は避けることなく正面から拳で殴り迎え、その腕の骨をへし折る。巨大な角による突進を両手で受け止め、そのまま背負い投げで岩山に叩きつける。
彼女が拳を振るうたびに空気が圧縮されて爆ぜ、岩盤が砕け、大型の魔獣たちが悲鳴を上げて肉片へと変わっていく。
アドレナリンに支配された彼女のふくよかな唇は、戦闘の歓喜に歪んでいた。
「あーあ。出くわしちゃった」
アリサラが呆れたように肩をすくめる。
「ベルギーの『破壊狂』クロエ。まさか日本のダンジョンまで遠征してきてたなんてね。あいつ、力加減ってものを知らないから、うかつに近づくと巻き添え食うんだよね」
「あら、私は好きよ、ああいうの。小手先の技術に頼らない、純粋な力のぶつかり合い。ちょっと私、混ざってこようかしら」
ルシアが剣の柄に手をかけ、楽しそうに舌を這わせた。
「ルシアさん、ストップ! これ以上Sランク同士で暴れたら、この階層の地盤が崩壊します!」
瞳が慌ててルシアの腰にしがみつく。
その間にも、クロエの殺戮劇は最終局面に達していた。
「これで……最後だァッ!!」
クロエが大きく跳躍し、群れのボスである一際巨大なタウロスの脳天に向かって、右拳を限界まで引き絞った。
全身の筋肉がバネのように収縮し、莫大な運動エネルギーがその右腕の一点に集中する。
ズドォォォォォォォォォォッ!!!!
クロエの右ストレートがタウロスの頭部を打ち抜いた瞬間、落雷のような轟音と共に、タウロスの巨体がスイカのように弾け飛んだ。
凄まじい風圧が荒野を駆け抜け、数百メートル離れたドクたちのいる場所まで細かい砂利と熱風を運んでくる。
「ゲホッ……すごい砂埃だな」
ドクは自身の顔の前でパタパタと手を振りながら、遠くの爆心地で巻き上がった土煙を目を細めて見つめた。
圧倒的な質量と暴力の残滓を前に、瞳たちは息を呑んで立ち尽くしている。人間の持つ力学の限界を完全に無視した、理外のインファイト。
しかし、巨大なバックパックを背負ったドクだけは、全く別の感想を抱いていた。
「ハンマーもピッケルも使わずに、素手であんな大きな岩山まで一緒に砕いちゃうなんて。上級の探索者さんは、若いのにすごい働き者だなあ」
ドクはウンウンと感心したように頷いている。
「ドクさん、あれは採掘作業じゃなくて魔物討伐です……」
瞳が疲れたように、小さくツッコミを入れた。
暴力の嵐が過ぎ去った後の赤茶けた荒野には、ひび割れた大地と、ゆっくりと流れていく土煙の静寂だけが残されていた。




