第17話 専属スカウトの小悪魔
加賀棒茶の香ばしい湯気が、岩洞のひんやりとした空気に溶けていく。
ドクが手際よく振る舞った料理――肉みそお握りや特製ダレのブロッコリー――の熱気と匂いはすっかり落ち着き、第20階層のセーフティエリアは、さながらピクニックを終えた後のような弛緩した空気に包まれていた。
深層の手前、常に死の危険が付き纏うはずの『風化の谷』において、この気の抜けようは異常事態と言っていい。
「あー、美味しかった。おじさん、見た目によらずマメなんだね。こんな環境でこれだけの物を作れるなんて、正直驚いた」
アリサラは空になった紙コップをコトリと岩の上に置き、黒豹のようにしなやかな動きで立ち上がった。タイトな特殊装備に包まれた彼女の身体は、微かな衣擦れの音すら立てない。
音もなくドクの背後に回り込むと、何の前触れもなく、その広い背中へ向かってぴょんと飛び乗った。
「うおっ」
短い声が漏れる。ドクは一瞬だけバランスを崩しかけたが、すぐに両足を肩幅に開き、足裏全体で岩盤を掴むようにして踏ん張った。
アリサラの体重自体は軽いだろうが、装備を含めればそれなりの重量があるはずだ。さらにドクの背中には、すでに自重を超える巨大なバックパックが乗っている。並の探索者ならそのまま後ろへひっくり返って腰の骨を折っているところだが、ドクの足腰は微塵も揺るがず、大木のようにその場に根を張っていた。
「どうした、アリサラちゃん。足でも痛めたか? いいよ、そのままおぶって歩こうか」
ドクは背後を振り返ることもなく、のんきな声で言った。
高ランクの探索者パーティにおいて、負傷したり疲労で動けなくなったメンバーを背負って運ぶのも、底辺の荷物持ちに課せられる重要な業務の一環だ。長年の染み付いた習性から、彼はただ「運ぶ荷物が一つ増えた」程度の認識しか持っていない。
アリサラは、ドクの太い首に両腕を回したまま、その耳元でくすくすと喉を鳴らして笑った。
「あはっ、ほんと規格外。私の体重が追加されてるのに、重心もブレないし息一つ乱れないんだ。ねえ、おじさん。私、決めたよ」
「何を?」
「私、今日からおじさんの『専属スカウト』になるね。世界中の誰も知らないような、とびきり面白くて危険な未踏破ダンジョン、私が全部案内してあげる。だから、これからずっと一緒にいていいでしょ?」
魅惑的な声色が、洞窟の壁に響く。
その言葉に、誰よりも早く反応したのは瞳だった。
「ちょっと! 勝手に何言ってるんですか!」
瞳はバンッと立ち上がり、身の丈ほどあるショートスピアの柄を強く握りしめた。
「ドクさんのスケジュールと仕事の管理は、専属マネージャーである私の業務です! どこの誰とも分からない人に、勝手に連れ回されたら困ります!」
「あら、小鳥ちゃん。私、一応Sランクなんだけどな。それに、おじさんの隠された力、一番上手く引き出してあげられるのは私だと思うよ?」
アリサラは身軽にドクの背中から飛び降りると、今度は彼の正面に回り込み、その太い太ももの上に横向きに腰を下ろした。ドクの分厚い胸板に背中を預け、下から上目遣いで彼を見つめる。吸い込まれるようなアーモンドアイが、獲物を狙うような妖しい光を帯びていた。
「ねえ、一緒に世界一の宝探し、しない?」
「いや、宝探しって言われても……俺、ただの日雇いの荷物持ちだし。あんまり遠出すると、アパートの大家さんに直接家賃を手渡しできなくて怒られるんだよな」
ドクは、Sランクの絶世の美女に膝の上を占拠され、密着されているというのに、どこまでも小市民的な理由で首を傾げた。彼の視線は、アリサラの豊かな胸元でも整った顔立ちでもなく、自分の汚れたブーツのつま先へと向けられている。
「ちょっと。私の獲物に許可なくベタベタ触らないでくれる?」
ルシアが低い声で牽制した。彼女の周囲の空気が急速に熱を持ち、膨大な魔力が陽炎のように揺らめき始める。Sランク魔法剣士が放つ本気のプレッシャーは、岩肌の苔をチリチリと焦がすほどだ。
だが、同じSランクであるアリサラは涼しい顔で笑う。
「太陽の姐さんは引っ込んでてよ。私はただ、この世界で一番面白いブラックボックスを、一番近くで観察したいだけ。ねえ、おじさん?」
「あー、えっと……みんな仲が良いのはいいことだけど、そろそろ出発しないと、今日のノルマが終わらないぞ」
二人のSランクが静かに火花を散らす中、ドクだけが完全に蚊帳の外でマイペースを貫いていた。
足元では、フェンリル・パピーのコロが「ワゥッ!」とアリサラに威嚇していたが、彼女が指先で顎の下の急所を的確に撫でると、数秒で「クゥン……」と陥落し、無防備に腹を見せて寝転がってしまった。
その一部始終を、ドローンの赤いランプが静かに全世界へと配信し続けていた。
【おい、またSランクの女が増えたぞ】
【タイの『幻影の盗賊』アリサラじゃねえか!! なんで日本にいるんだよ!】
【ブラジルの太陽神に続いて、アジア随一の暗殺者まで……】
【おっさん、美人に膝の上乗られて「家賃が」とか言ってる場合かww】
【瞳マネージャーの胃に穴が空きそう】
【もうこのパーティ、戦力過剰すぎてダンジョンが可哀想になってきた】
★★★★★★★★★★★
その日の探索ノルマを終え、一行が地上のギルド支部に帰還したのはすっかり夕刻になってからだった。
ドローンの配信を切り、本日の分の報酬(瞳が経費として支払った日当一万円)を茶封筒で受け取ったドクは、「お疲れ様でした」と大きく伸びをした。
「それじゃ、俺はこれで」
ドクが帰路につこうとした時、アリサラがスッと隣に並び、彼の腕に自身の腕を絡ませた。
「ねえおじさん、家どこ? 私、今日泊まるとこないから、転がり込んでもいい?」
「え!? いや、うち四畳半だし、せんべい布団一つしかないぞ」
「いいよ、一緒に寝るから。私の体温で温めてあげる」
「ダメです!!」
瞳が猛然と二人の間に割って入った。彼女の顔は焦りと怒りで朱に染まっている。後方からは、ルシアも「私が一緒に寝るのよ。ブラジルの夜は熱いわよ」と理不尽な理屈で迫ってきていた。
瞳は大きく深呼吸をし、マネージャーとしての威厳を保つように声を張った。
「ドクさん! 明日はギルドの登録情報の更新手続きと、今後のマネジメントに関する重要な打ち合わせがあります! 朝の10時に、八王子駅の北口に集合してください。私と、二人だけで、です!」
「打ち合わせ? 俺、ただの荷物持ちなんだけど……」
「マネージャーの絶対の指示です! いいですね! 私は今日、この人たちをギルドの提携ホテルにぶち込んで、部屋から出ないように徹夜で監視しておきますから!」
小柄な身体から発せられる瞳の並々ならぬ気迫に押され、ドクは「あ、はい。わかりました」と素直に頷くしかなかった。
★★★★★★★★★★★
翌朝。五月の爽やかな風が吹き抜ける八王子駅前。
休日の駅前広場は多くの人で賑わっていた。日本最大の探索者特区が近いため、物々しい重武装の探索者たちと、休日のショッピングを楽しむ一般人が入り混じる独特の光景が広がっている。
「お待たせしました、ドクさん」
待ち合わせの時計塔の下に駆け寄ってきた瞳を見て、ドクは少し驚いたように目を丸くした。
いつもダンジョンで見せる、機能性重視の革鎧やスピアを持った姿ではない。淡いブルーのワンピースに、薄手の白いカーディガン。丁寧に整えられた髪からはシャンプーの甘い香りが漂い、ほんのりとリップも塗られている。どこからどう見ても、休日のデートにやって来た年相応の可愛らしい女性だった。
「おはよう、瞳ちゃん。その服、似合ってるな。涼しそうでいい」
「あ、ありがとうございます……」
ドクの飾らない、素直な褒め言葉に、瞳は照れくさそうに視線を逸らした。
一方のドクの服装は、以前瞳が駅ビルのセレクトショップで強引に見立てた、仕立ての良い黒のテーラードジャケットと細身のパンツだった。美沙の工房で作ってもらった特注の高性能ツナギは、「休日の街中で着るには重すぎるし、目立つから」とアパートに置いてきたらしい。
洗練された服に身を包み、前髪をラフに流したドクがそこに立っているだけで、すれ違う人々の視線が次々と彼に吸い寄せられていく。長年の過酷な労働で培われた彫りの深い顔立ちと、分厚い胸板が放つ大人の色気。しかし当の本人は、自分の外見がどれほど周囲の女性たちをざわつかせているか全く気づいていない。
「じゃあ、行きましょうか。ギルドの支部はあっちですよね」
ドクが歩き出すと、瞳は慌ててその隣に並んだ。
「あっ、はい。でもその前に、少し街を歩きませんか? 打ち合わせを兼ねて、落ち着いたカフェにでも入りたいですし」
二人は駅前の大通りを並んで歩き始めた。
瞳が少し大きめのショルダーバッグを肩にかけ直した瞬間、ドクが自然な動作でそのストラップに手を伸ばした。
「俺が持つよ」
「え? いや、これくらい全然重くないですから、自分で持ちます」
「ダメだよ。俺は荷物持ちなんだから。手ぶらで隣を歩いてたら、仕事をしてないみたいで落ち着かないんだ」
ドクはそう言って、有無を言わさずに瞳のバッグを自分の肩にかけた。さらに、歩道側に瞳をさりげなく誘導し、車道側や人通りの多い側を自分が歩くように、絶妙なタイミングで立ち位置を入れ替える。
そのすべてが、彼にとっては「荷物持ちとしての業務」の延長線上にある無意識の行動だった。雇い主の荷物を持ち、周囲の危険から守り、安全な道を歩かせる。ただそれだけのこと。
しかし、隣を歩く瞳からすれば、それは洗練された大人の男による、完璧なエスコートに他ならなかった。
(……この人、本当に無自覚にこういうことするんだから)
瞳は胸の奥がトクンと鳴るのを感じ、少しだけ歩幅を狭めてドクの大きな背中を見上げた。
大通りから少し入った路地裏にある、落ち着いた雰囲気のカフェ。
テラス席に落ち着き、二人はコーヒーを注文した。
「ドクさん、これからのことなんですけど」
瞳は居住まいを正し、真剣な表情で切り出した。
「一昨日の大規模な配信のせいで、今、世界中のギルドや巨大企業があなたの情報を血眼になって探っています。ルシアさんやアリサラさんのように、直接接触してくる高ランク探索者も、これからもっと増えるはずです」
「そうなのか。でも、俺にはどうしてそんなに騒がれてるのか、やっぱりよくわからないんだ。ただ、運良くトラップが作動しただけなのに」
ドクはホットコーヒーをブラックのまま一口飲み、困ったように太い眉を下げた。
「俺はただ、日雇いの仕事をして、大家さんに家賃を払って、普通にご飯が食べられればそれでいいんだけどな。有名になりたいわけでも、強いモンスターと戦って名を上げたいわけでもない」
その言葉には、嘘偽りのない本心が宿っていた。
世界を滅ぼせるほどの規格外の力を持っていながら、彼が望むのは、四畳半のアパートでの平穏でささやかな生活だけなのだ。
瞳はカップを両手で包み込み、ドクの目をまっすぐに見つめ返した。
「……ドクさんが望まなくても、世界はあなたを放っておきません。あなたのその優しさと、底知れない力を利用しようとする悪意が、必ず寄ってきます」
「……」
「だから、私が守ります」
瞳の言葉に、ドクは少し驚いたように目を瞬かせた。
「ドクさんの平穏も、そのお人好しなところも。全部、マネージャーである私が、矢面に立って守ってみせます。だから……これからも、私を一番近くに置いてください」
それは、ただのビジネスの契約を超えた、彼女自身の切実な願いだった。
ドクはしばらく黙って瞳の真剣な顔を見つめていたが、やがて、その端正な顔を綻ばせ、柔らかく微笑んだ。
「瞳ちゃんは、本当にしっかりしてるな。俺なんかにはもったいないくらいのマネージャーだ。……うん、よろしく頼むよ」
ドクの大きな手が伸びてきて、瞳の頭をポンと優しく撫でた。
「あっ……」
子供扱いされたことに少し反発を覚えつつも、その分厚い手の温もりに、瞳の顔は一瞬で真っ赤に染まった。
いい雰囲気が流れ、二人の間に甘い沈黙が落ちた、その時だった。
「あはっ、いい事言うね小鳥ちゃん」
すぐ隣の席で、顔を隠すように広げられていた英字新聞が、バサリと下げられた。
そこには、大きなサングラスをかけ、つばの広い帽子を被ったアリサラが、ストローでアイスティーを啜りながらニヤニヤと笑っていた。
「なっ……! なんでここにいるんですか!? 徹夜で見張ってたはずなのに!」
瞳が弾かれたように立ち上がる。
「専属スカウトだもん。ターゲットの休日の動向調査は基本中の基本でしょ? あなたがうとうとした隙に、窓から抜け出させてもらったよ」
アリサラがサングラスをずらし、小悪魔のようにウィンクをする。
「ちなみに、あそこの街路樹の陰から、太陽の姐さんもずっとこっち見てるよ」
アリサラが指差した先を見ると、あそこの街路樹の陰から、変装すらしていないルシアが、腕を組んでこちらを鋭く睨みつけていた。目が合うと、堂々と手を振り返してくる。
「もぉぉぉっ!! だから今日は二人きりだって言ったのに!!」
瞳の悲痛な叫び声が、休日のカフェのテラスに響き渡る。
「みんな、本当に仲が良いんだな。休みの日まで一緒にいるなんて」
ドクは完全に的外れな感想を零し、通りかかった店員に向かって軽く手を挙げた。
「すみません、アイスティーのおかわりと、あとあそこの木陰の赤い髪の人の分も、何か冷たい飲み物をお願いできますか?」
底辺の荷物持ちと、世界最強の女たち。
彼らの騒がしくも平穏な休日は、まだまだ終わりそうになかった。




