第16話 罠ごと収納する男
第1ダンジョン、第20階層『風化の谷』。
地下深くであるにもかかわらず、どこからともなく吹き荒れる熱風が極度に乾燥した岩肌を削り、絶えず細かな砂埃を巻き上げている荒涼としたエリアだ。
アリサラの細い指先が、空中で微かな魔力のトリガーを弾いた。
標的は、完全な無防備で谷底の隘路を歩く、大きなバックパックを背負った男――田中ドク。
音はない。ただ、空間に緻密に仕掛けられた致死の機構が、一斉にその牙を剥いた。
『不可視の断糸』が、左右の岩肌からドクの首、胴、四肢を細切れにする軌道で迫る。
足元の岩盤からは、細胞を瞬時に泥へと変える高濃度の『腐食の猛毒陣』が噴出する。
そして、ドクの身体を中心とした半径2メートルの空間に、自身の体重の100倍の負荷を強制する『重力地雷』が展開された。
Sランクの魔法障壁すら紙のように切り裂き、いかなる強者も逃さず圧殺する、大罠師アリサラの最高傑作。
だが。
ドクが、その空間を一歩、踏み出した瞬間だった。
彼の身体に触れる数ミリ手前で、極限まで引き絞られていた鋼糸の「張力」と「切断力」という物理エネルギーが、プツン、と不可解なほどあっさりと消失した。糸はただの脆い紐となり、ドクのツナギに触れることなく足元へ落ちる。
同時に、噴出した猛毒ガスも、ドクの呼吸器に触れた瞬間に「毒性」という概念そのものが抜き取られ、ただの無臭の空気に変換された。
凄まじいGをかけるはずの重力場に至っては、ドクの身体にのしかかろうとした「外的圧力」そのものが、巨大なブラックホールに吸い込まれるように、彼の内側――『万物収納』の奥底へと綺麗に放り込まれていた。
「……ん? なんか今、顔にクモの巣引っかかったか?」
ドクは立ち止まり、首を傾げて自分の顔の前を手で払った。
「それに、少し息苦しいな。ダンジョンの空気はやっぱり悪い。コロ、ちゃんと息できてるか?」
「ワゥ?」
足元を歩くフェンリル・パピーのコロが、何事もなかったかのように尻尾を振る。
ドクは足裏に僅かな重さの違和感を覚えたが、それも「ちょっと足場が悪いな」という程度の認識で片付け、再びのんびりと歩き出した。
岩棚の上でその光景を見下ろしていたアリサラの、大きなアーモンドアイが限界まで見開かれた。
(は……?)
彼女の優秀な頭脳が、一時的な処理落ちを起こす。
魔法障壁で防がれたわけではない。圧倒的な魔力で罠そのものを破壊されたわけでもない。
彼女の芸術的な罠が、まるで最初から存在しなかったかのように、彼の周囲で「無」に帰したのだ。
(どういうこと? 物理法則が、この男の周りだけ完全に歪んでる)
未知の現象を前にした時、常人であれば恐怖を抱く。だが、世界中のあらゆる秘密を暴いてきたトレジャーハンターであるアリサラは違った。
(理解できない。……だからこそ、最高に面白い)
恐怖を遥かに凌駕する、強烈な好奇心とスリル。
アリサラの赤い唇が、弧を描く。彼女は岩棚を蹴り、黒豹のようなしなやかさで音もなく谷底へと飛び降りた。
『隠密』のスキルを極限まで引き上げ、呼吸音、心拍、魔力、さらには自身の「存在の気配」そのものを周囲の岩と同化させる。
ドクの背後、わずか数メートルの位置に音もなく着地。
前方からはルシアの強烈なプレッシャーが漂っているが、アリサラの完璧な隠密行動には気づいていない。
アリサラの手に、特殊合金製のダガーが滑り出る。
狙うは、ドクの剥き出しの首筋。心臓ではなく、脳幹と脊髄を一撃で断ち切り、一切の反撃を許さずに意識を刈り取る、彼女の必殺の暗殺術。
(もらった)
神速の刃が、ドクのうなじへと吸い込まれていく。
その鋭利な切先が、ドクの皮膚に触れた。
――その瞬間。
「……っ!?」
アリサラの手首から肩にかけて、分厚いコンクリートの壁を全力で殴りつけたような、強烈な痺れが走った。
刃は確かにドクの肌に触れている。だが、そこから1ミリも沈まない。
沈まないのではない。ダガーに乗せた彼女の全体重、速度、運動エネルギー、さらには「殺意」という形のない概念に至るまで。そのすべてが、ドクの皮膚に触れた瞬間に、底なしの沼に飲み込まれたように完全に消失したのだ。
慣性の法則すら無視した、絶対的な停止。
アリサラの手から完全に力が抜け、ダガーがカランと乾いた音を立てて岩盤に落ちた。
「ん?」
その微かな金属音に気付き、ドクがのんびりと振り返る。
「おや。お嬢ちゃん、こんな所で落とし物? 危ないよ、刃物はちゃんとしまっておかないと」
ドクは全く警戒する様子もなく、岩盤に落ちたダガーを拾い上げ、柄の方をアリサラに向けて差し出した。
アリサラは、自身の差し出した手が微かに震えていることに気づいた。
生涯初の、完全な敗北。それも、相手に「戦っている」という認識すら与えられないまま、自分のすべてを無効化された。
「ちょっと。私の獲物に、背後からちょっかい出さないでくれる?」
ようやく背後の異変に気づいたルシアが、剣の柄に手をかけて振り返り、冷酷な視線を放った。Sランク特有の濃密な殺気が、谷底の熱風を瞬時に凍らせる。
「オーケー、オーケー。敵意はないよ、太陽の姐さん」
アリサラは両手を上げて降参のポーズをとりつつ、ドクを挟んでルシアと対峙した。
「……あはっ。何これ、反則じゃん」
アリサラは震えを抑え込むように口元を手で覆い、妖しい光を宿した瞳でドクを見つめた。
規格外の力。底知れない器。世界一面白い宝箱。
――その視線の熱さに、ドクは全く気づいていなかった。
★★★★★★★★★★★
騒動の後、一行は第20階層の安全地帯である、広めの岩洞に腰を下ろした。
なぜか自然な流れで、アリサラも一定の距離を保ちつつ彼らの野営に混ざっている。
瞳が手際よく、ギルド支給の最新式魔導キャンプセットを展開した。
「ちょうどお昼時ですね。少し休憩にしましょう」
「よし、じゃあ飯の準備をするか。昨日、美沙さんの工房で夜食にって持たせてもらった『焼き鳥のお持ち帰り』があるんだ。あと、野菜も少しな」
ドクはバックパックから保冷バッグを取り出した。
中に入っていたのは、市販のプラスチックパックに入ったタレ味の焼き鳥の盛り合わせだ。冷蔵庫に入れていたため、肉は白く脂が固まり、タレもゼラチン状に冷え固まっている。
そのまま魔導レンジに放り込むのが普通だが、ドクの動きは違った。
パックから焼き鳥を取り出し、丁寧に耐熱皿へ移し替える。そして、瞳の支給品の中にあった小さなボトルの『料理酒』を霧吹きに移し、シュッシュッと肉全体に軽く吹きかけた。
ふんわりとラップをかけ、魔導レンジの出力を中程度に設定して加熱を開始する。
「おじさん、なんでお酒なんてかけたの?」
興味津々に覗き込んでくるアリサラに、ドクはレンジの残り時間を確認しながら答えた。
「冷めた焼き鳥をそのまま温めると、肉の水分が飛んで硬くなっちゃうんだ。こうやって少し酒を振ってラップで蒸らすように温めると、肉がふっくらと蘇るし、酒の風味がタレの焦げた香ばしさを引き立ててくれるんだよ」
チーン、という軽快な音と共にレンジの扉が開く。
ラップを外した瞬間、酒の蒸気効果でツヤツヤと輝きを取り戻した肉と、炭火と甘辛い醤油ダレが焦げた暴力的なほど食欲をそそる匂いが、岩洞の空気を一気に支配した。
「はわっ……」
瞳が思わず喉を鳴らす。
「次は、これだな」
ドクは小型の魔導コンロで湯を沸かし、少量の塩を入れた。まな板の上には、鮮やかな緑色をしたブロッコリー。
ドクの包丁さばきに迷いはない。房を均等な大きさに切り分けると、まずは火の通りにくい太い茎の部分だけを先に沸騰した湯へ落とした。
十数秒後、時間差で蕾の部分を静かに沈める。
湯の中で、ブロッコリーの緑色がさらに鮮やかに弾ける。
「茹ですぎると食感が悪くなるからな。時間は短めが命だ」
ドクは絶妙なタイミングでブロッコリーをザルに上げた。水には晒さず、そのまま団扇でパタパタと扇いで急冷する。
「水に晒すと、蕾の中に水が溜まって水っぽくなっちゃうんだ。余熱で火を通しつつ、こうして風で冷ますと、歯ごたえがしっかり残る」
小鉢に盛り付けたブロッコリーに、ドクは特製のタレを回しかけた。
醤油と酢を黄金比で合わせ、ほんの少しの砂糖で酢のカドを取った、シンプルな『酢醤油』だ。
そして最後に。
「これ、最近の俺のお気に入りなんだ」
ドクが取り出したのは、アヅマフードの『フリーズドライ 蟹みそ汁』だった。
四つのお椀に四角いブロックを置き、沸かしたての熱湯を注ぐ。
シュワッ、と音を立ててブロックが崩れると、凝縮されていた本物の蟹の身と刻みネギがふわりと広がり、濃厚な蟹出汁と合わせ味噌の豊潤な香りが爆発的に立ち昇った。
「お待たせ。大したもんじゃないけど、食べてくれ」
即席のテーブルに、温め直された焼き鳥、色鮮やかなブロッコリーの酢醤油、そして蟹みそ汁が並べられた。
足元では、味付けなしの茹で鶏をもらったコロが、夢中で肉に噛み付いている。
「いただきまーす!」
瞳が真っ先に焼き鳥のネギマを口に運んだ。
「……んんっ! お肉がすっごく柔らかい! なんですかこれ、昨日お店で食べた時より美味しいかも!」
酒の蒸気でふっくらと仕上がった鶏肉は、噛むほどにジューシーな肉汁が溢れ、甘辛いタレと絶妙に絡み合う。
ルシアはブロッコリーの酢醤油を口に運び、感心したように目を細めた。
「この野菜、歯ごたえが完璧ね。それに、この酸味の効いたドレッシングが、タレのくどさを綺麗に洗ってくれるわ」
アリサラも蟹みそ汁をすすり、ふぅと息をつく。
「おじさん、このおみそ汁、インスタントなのに高級料亭の味がするよ……。ダンジョンの中でこんな美味しいご飯が食べられるなんて、思わなかった」
Sランクのトップ探索者や大手ギルドの令嬢が、底辺探索者が工夫してこしらえたB級グルメの野営飯に夢中になっている。
「喜んでもらえてよかったよ。底辺は、安くて美味いものを工夫して食べるしか能がないからさ」
ドクは自身の焼き鳥をかじりながら、温厚な笑みを浮かべた。
食後。
ドクは保温ボトルから、淹れておいた『加賀棒茶』を小さな紙コップに注いで配った。
一番摘みの良質な茎だけを焙煎した、透き通るような琥珀色のほうじ茶。香ばしく、どこか品のある甘い香りが、焼き鳥と蟹出汁で満たされた胃を優しく落ち着かせていく。
「はぁ〜……」
ルシア、瞳、アリサラの三人が、揃ってだらしない声を漏らした。
ドクは少しだけ困惑したように苦笑しながらも、手元の加賀棒茶を静かにすすった。女性たちの賑やかな声が、薄暗いダンジョンの奥深くでいつまでも響いていた。




