第15話 影からの強襲者
第1ダンジョン、第20階層『風化の谷』。
地下深くであるにもかかわらず、どこからともなく吹き荒れる熱風が、極度に乾燥した岩肌を削り、絶えず細かな砂埃を巻き上げている荒涼としたエリアだ。空気はひりつくように熱く、呼吸をするだけで喉の粘膜から急速に水分が奪われていくのがわかる。赤茶けた岩石が無数に乱立する谷底は視界が悪く、その岩陰には周囲の岩肌と完全に同化した保護色のモンスターたちが、息を潜めて獲物が通りかかるのを待ち構えている。
しかし、その谷底の通路を見下ろす数十メートル上方の切り立った岩棚に、さらなる捕食者の影が潜んでいることに気づく者は、モンスターの中にもいなかった。
砂色の岩盤に張り付くように身を潜め、呼吸音、心拍、体温、さらには魔力の波長に至るまでを周囲の環境と完全に同調させているのは、アジア随一の隠密・探索スペシャリスト。
Sランク『幻影の盗賊』アリサラ。
黒豹のようにしなやかで一切の無駄を削ぎ落としたスレンダーなプロポーションを、高い機動力と隠密性を誇るタイトな漆黒の特殊装備に包んでいる。エキゾチックな美貌と、吸い込まれるような深いアーモンドアイを持つ彼女は、岩肌に身を這わせたまま、赤い唇に微かな弧を描き、眼下の細い通路を面白そうに見下ろしていた。
「さてさて、噂の『ワンパンおじさん』。一体どれほどのバケモノなのか、お手並み拝見といこうじゃないの」
音すら伴わない微弱な囁きは、熱風にかき消されて誰の耳にも届かない。
彼女がこの過酷な第20階層まで足を運んだのは、裏社会の有力なブローカーから莫大な報酬と共に、「ワンパンおじさんの正体と、その能力の仕組みを探れ」という依頼を受けたからだった。世界中のネットワークを駆使しても、あの深夜の配信映像に映っていた男が「何故あのような途方もないエネルギーを放出できたのか」を論理的に解明できた者はいなかった。
だが、アリサラを動かした本当の理由は、積み上げられた札束ではない。世界中の未踏破ダンジョンに単独で潜入し、厳重な罠を潜り抜けて希少なアーティファクトを「頂戴」してきた彼女にとって、最大の原動力は脳髄を痺れさせるような「スリル」と、「未知の秘密」に対する抑えきれない好奇心だ。
(日本のギルドが隠し持っていた規格外の最終兵器。あるいは、どこかの国の軍の極秘実験の産物か。どんなゴリゴリの歴戦の猛者が来るかと思えば……)
アリサラの視線の先、砂埃の向こうから、奇妙な一団がゆっくりと歩いてくるのが見えた。
先頭を歩くのは、自分自身の身長よりも大きなバックパックを背負った男だ。昨日、Aランクの魔道具技師である美沙の工房で仕立ててもらったばかりの特注のツナギを着ている。
アリサラのプロとしての鋭い観察眼は、その装備の異常性を即座に見抜いていた。ベースとなっているのは中層以降でドロップする飛竜のなめし革であり、関節部などの要所には高純度のミスリル繊維が編み込まれている。強靭な防御力を誇る反面、その重量はツナギ一着だけで数十キロに達するはずだ。さらに彼が背負っている巨大なバックパックの重さを加味すれば、並の探索者であれば一歩も動けず、その場に膝をついてしまうほどの途方もない負荷がかかっている。
だが、その男――田中ドクは、まるで薄手のスウェットでも着ているかのように、平然と、軽々と歩みを進めていた。一歩踏み出すごとの足運びには一切のブレがなく、分厚いブーツが砂を踏む音すら極端に小さい。無駄な体重移動が完全に削ぎ落とされている証拠だ。
その後ろには、D-Tubeの配信ドローンが赤いランプを点滅させながら一定の距離を保って浮遊し、手元のタブレットを睨みつけるDランク鑑定士の少女、瞳が続いている。
さらにその後方には、ブラジルが誇るSランク魔法剣士、ルシア・カルヴァーリョが余裕の笑みを浮かべて歩いていた。ルシアは特に武器を構えているわけでもないが、彼女から無意識に漏れ出すSランク特有の濃密な魔力が周囲の空気を震わせている。その圧倒的なプレッシャーのせいで、岩陰で待ち伏せをしようとしていたデザート・カメレオンやサンド・スネークといったモンスターたちが、次々と怯えたように岩の隙間へと逃げ出していくのがアリサラの位置からもはっきりと見えた。
「クゥン、クフッ!」
黙々と歩くドクの足元で、小さな黒い毛玉が忙しなく動き回っていた。
先日テイムされたばかりのフェンリル・パピー、コロだ。幼体とはいえAランク指定の魔獣であるコロは、生まれ持った強靭な脚力でピョンピョンと跳ね回りながら、ドクの分厚いブーツのつま先にじゃれついていた。
「ワゥッ」
ブーツの靴紐を咥えようとしてタイミングを誤ったコロは、勢い余ってコロンと背中から仰向けに転がってしまった。
「クゥン、クゥン」
コロはすぐには起き上がろうとせず、硬い岩盤の上に仰向けになったまま、短い前足と後ろ足を空中に向けて必死に「あにあに」と動かし始めた。淡いピンク色の柔らかな肉球を天に向けてワタワタと空を掻くその無防備な仕草は、「ご主人様、かまって」という子犬特有の甘えたアピールに他ならない。フェンリルとしての誇りなど微塵も感じさせない、ただの愛らしい毛玉だった。
「お前、本当にダンジョンの中で緊張感がないな」
ドクは巨大なバックパックを背負ったまま、重さを全く感じさせない滑らかな動作で苦笑してしゃがみ込んだ。そして、あにあにと宙を掻くコロの柔らかなお腹と肉球を、長年の重労働でタコだらけになったごつい指先で優しくつつく。
「ワフッ!」
コロは嬉しそうにドクの指を甘噛みし、短い尻尾をパタパタと岩盤に打ち付けて振った。ドクの目尻が下がり、その端正でワイルドな顔立ちに温和な笑みが浮かぶ。
「ドクさん、あまり遊んでると置いていきますよ。周囲の地形データは私のタブレットに入ってますから、はぐれたら迷子になりますよ」
後方から瞳が呆れたような声をかける。
「ルシアさんも、一応周囲の警戒をお願いします。この階層は不意打ちを仕掛けてくるモンスターが多いですから」
「問題ないわ、小鳥ちゃん。私の射程内に生きたまま入れるモンスターなんて、この階層には存在しないもの」
ルシアは美しい赤髪をかき上げながら、全く警戒する様子もなく周囲を一瞥した。
あまりにも平和で、のどかな散歩風景だった。ここが中層の入り口である第20階層であることを忘れさせるほど、彼らの間には弛緩した空気が流れている。
岩棚の上からその様子を観察していたアリサラは、呆れたように小さくため息をついた。
(隙だらけじゃん。どこからどう見ても、ただの人のいいおじさんにしか見えない。歩行のブレのなさも、長年の重労働で身についたただの癖……魔力も闘気も、欠片も練られていない)
アリサラの眼から見ても、ドクは完全に無防備だった。背後から近づいて首を掻き切ることなど、造作もないように思える。
(……でも、だからこそ面白い。この底知れない不気味さの正体を、暴きたくてたまらない)
アリサラは、自身の前方の通路――ドクたちがこれから確実に通過する幅の狭い隘路に、Sランクの罠師である彼女が本気で構築した『三段構えの極悪トラップ』を仕掛けていた。
通常、探索者の罠師はモンスターの動きを制限したり、討伐したりするために罠を張る。だが、アリサラのターゲットは常に「人間」だ。対人において絶対の殺傷力を誇る、回避不能のデッドゾーン。
第一の罠、『不可視の断糸』。特殊な魔獣の腱を極限まで引き延ばして編み上げた透明な鋼糸。触れればSランクの魔法障壁すら音もなくスライスし、人体などバターのように両断する必殺の糸が、通路の左右から網の目のように交差して張られている。
第二の罠、『腐食の猛毒陣』。第一の罠を奇跡的に回避したとしても、その着地点となる足元の岩盤の微細な孔から、致死性の高い高濃度の麻痺毒ガスが噴出する。無色透明で匂いもないそのガスは、吸い込めば数秒で全身の神経を麻痺させ、内臓をドロドロに溶かす。
第三の罠、『重力地雷』。毒ガスを突破した先には、対象を中心とした半径2メートルの空間に、瞬時に自身の体重の100倍の重力場を発生させるトラップが敷き詰められている。並の人間なら、踏み入れた瞬間にその場でトマトのように潰れる圧死トラップだ。
これら三つのトラップを、完全に連動させて一つのエリアに重ねている。回避行動そのものが次の罠のトリガーとなる、悪魔のような配置。
コロの柔らかいお腹を撫で終えたドクが「よし、行くか」と立ち上がり、再び歩き出す。
足音もなく進むドクの分厚いブーツが、ついにアリサラが設定した見えない境界線を踏み越えた。
「――ビンゴ」
岩棚の上で、アリサラの赤い唇が歓喜に歪む。
彼女の細い指先が、起爆のトリガーとなる微弱な魔力を解放した。
その瞬間、静寂に包まれていた谷底の通路で、幾重にも張り巡らされた死の罠がいっせいに牙を剥いた。




