第三話〈朔夜〉
彼女と初めて屋上で会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
天文学部所属の一年生で、名前は確か…天城澪。
幼馴染で部長をしている神谷律が、星好きの熱心な新入生が入部したのだと嬉しそうに話していたのを思い出す。
俺が適当に口にした星座の話に、目をキラキラと輝かせながら食いついてきたのを見て、本当に星が好きなんだと分かった。
フードを被っていたから、とも思ったがどうやら彼女は俺のことを知らないようだ。
それが少しだけ、嬉しかった。
学校で俺のことを知らない人はほぼいない。優等生だとか、人気者だとか、かっこいいとか、そういう話ばかり一人歩きする。俺はただの俺でしかない。皆が理想を押し付けてくるようで、苦しかった。
けれど、彼女だけは違った。
俺が誰かなんて気にもしない。
たまにくだらない日常の話を挟みつつ、ただ星の話をするだけ。
それから、屋上に行くのが楽しくなっていた。
昔から弱かった心臓は、去年の秋頃から急激に悪化していった。
体調のいい日だけ、ほんの僅かな時間だけ。
屋上で彼女と話す時間は、特別だった。
今年に入って、手術の話があがっていた。
日本ではなく、アメリカでの大きな手術になる。
成功率はあまり高くない。
その時点で、俺は受ける気などなかった。
初めて会った時に彼女との会話で印象に残っているものがある。
『死んだ人は、星になる』
「母の星はどれだろうって」
あの時、彼女の母が…少し羨ましくなった。
俺がこのまま…。
星になれば、少しくらい彼女の心に残れるのかな。
そう思った。
けれど、彼女と会うたびに…
その考えが変わっていったんだ。
「先輩、この星座知ってます?」
「知ってる」
「じゃあ、こっちは?」
「…分かんないな〜」
「嘘。絶対に知ってますよね」
「バレたか」
そんなくだらないやり取りが、ただただ楽しかった。
彼女が笑って、俺も笑う。
そんな時間が大切で、何故か愛おしかった。
「朔先輩って、星に似てますよね」
「俺が?」
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「はい。遠くにいるのに、見つけるとすごくホッとするから」
「今なら、どこにいても朔先輩を見つけられる自信があります」
「なんか、澪のくせに生意気」
照れ隠しでペチンッとおでこに指パッチンを食らわせる。
ああ…。
もう少しだけ、彼女の側にいたいなぁ。
隣りで生きていきたいな。
でも徐々に体力も落ちていって、体調が悪い日が増えた。自ずと学校にも行けなくなった。
主治医にもそろそろ、と決断を迫られていた。
この頃には俺の覚悟も決まっていた。
ただ一目、彼女に会いたくて。
比較的体調のいい日の放課後、屋上へ向かった。
二週間ぶりに会う彼女には、風邪をひいて体調を崩していたと、嘘をついた。
自然と星の話に花が咲く。
好きな星座の話になり、お互いに冬の星座が好きだと分かった。
「12月、ここで一緒に流星群を見よう」
と約束をした。
時期を指定したのはここに、彼女の元に戻ってくるという強い覚悟を持つために。
病気のことも、手術のことも、何一つ伝えなかった。
最初は彼女の心に少しは残ればいいな、くらいにしか思っていなかった。
でも、今は違う。
彼女と同じ時間を生きていきたい。
そう思ったんだ。
次の日、アメリカに発つため空港へと向かった。
空港に着くと、そこには幼馴染の律がいた。
「……お前、学校どうした?」
「休んだ」
「あの生真面目ちゃんがか!?」
「生真面目言うな」
「いや、だってわざわざ?」
「当たり前だろ」
呆れたように笑う律。
けれど、その目は一切笑っていなかった。
病気のことも、手術のことも知っているのはこいつだけ。
俺が本当はずっと怖かったことも。
俺の気持ちが生きようと強く思うようになったことも。
言わずとも、全部知っているんだと思う。
そろそろ搭乗時間が近付いてきて、移動しようとした時、律が口を開いた。
「……何か、伝えることはあるか」
それが誰宛なのか、聞かずとも分かってしまった。
屋上で、星の話をする後輩。
星が好きで、くだらない話にも耳を傾けてくれる優しい彼女。
ただの先輩後輩。
屋上で星の話をするだけの。
『流星群を一緒に見よう』
そう、約束した。
それだけの、関係。
だから。
「…ないよ」
俺は短く答えた。
「本当か?」
「ああ」
そう言ってから、少しだけ視線を落とす。
言葉にしてしまえば、きっと戻れないから。
だから、今はまだ。
ただの先輩後輩のままで。
「ただ…」
「ただ?」
「約束したから」
律は何も言わなかった。
「流星群、一緒に見るって約束したんだ」
帰ってきたら。
屋上で、また会いたい。
君と一緒に、星を見たい。
終ぞ、口にはできなかった言葉が頭によぎる。
搭乗案内の放送が流れた。
「行ってくる」
「……待ってるぞ」
一歩、一歩、歩き出す。
振り返りはしなかった。
歩きながら、窓から見える空を見上げる。
昼間の空には星は見えない。
不思議と彼女と初めて会った屋上の空を思い出した。
静かで、少し冷たい風が頬を撫でていた。
何気ない会話が、いつの間にか楽しみになっていた。
あの空間が、いつの間にか心落ち着ける安らぐ場所になっていた。
約束、したから。
帰ってくるよ。
君に、伝えたいことがあるんだ。




