第二話
それからフードの先輩とは不思議な交流が続いていた。
先輩が屋上に現れるのは不定期で二日続く日もあれば、一週間来ない日もある。
会っても星の話やくだらない日常の話をするだけ。
「今日は雲もなくて月明かりが綺麗ですよね」
「あれ、金星だね。一番明るい」
「宵の明星ってやつですね」
「さすが、詳しいね」
ふと先輩の顔に陰りが見えた、ような気がした。
「今日は少しお疲れですか?」
「…どうして?」
「疲れてるような顔をされてた気がして」
「よく見てるね」
先輩は参ったな、と苦笑する。
「実は担任の先生に捕まっちゃってさ〜。進路の話で長々と説教受けちゃって参ってたんだよね」
ウンザリという表情をした先輩を見て、そういえば三年生はそろそろ進路が確定してくる頃かと納得した。
「先輩は進路、決まってるんですか?」
「ん〜、内緒」
そう言って笑った先輩の顔はどこか寂しそうだった。
ある日、珍しく朝から学校に来ていた先輩を見かけた。何回か屋上で会っていたが、放課後以外で見るのは初めてだった。
「え、あの人がいる!」
「珍しいよね」
「やっぱりカッコいいわ」
「久しぶりに見たけど、やっぱりイケメンだわ」
と、周囲が騒ついている。
「…なんであの人、登校しただけで騒がれてんの?」
私の頭の中は??マークだらけだ。
「えー!澪、あの先輩のこと知らないの!?」
「成績トップでスポーツ万能、男女問わず学校一の人気者。三年の黒瀬朔夜先輩」
クラスメイト達は頬を赤く染め力説する様は、まるでアイドルについて話をする乙女そのものだった。
「部活の先輩に聞いたんだけど、去年の秋頃から不登校気味らしいよ〜」
「それでも成績トップでいられるんだから凄いよね」
クラスメイトの話を軽く聞き流しながら考える。
本当に同一人物なのか。
廊下を歩けば女子生徒は振り返り、名前を呼べば男女問わず人だかりができる。
たまに登校しただけで空気が変わる。
昼間の先輩は、そんな人だった。
放課後の屋上。
いつものようにパーカーのフードを深めに被った先輩は、フェンスに凭れるようにして座っていた。
「今日、凄かったですね」
「ん?」
「廊下での人だかり、凄かったです」
「ああ…」
先輩は思い出したように苦笑した。
「見てたんだ?」
「教室から見てました。私は初めて見たんですが、いつもああなんですか?」
「そうだな。俺は嫌なんだけどね、あれ」
「人気者なのに?」
「人気者になりたいだなんて、思ったことも言ったこともない」
そう言って、先輩は空を見上げた。
夕暮れの空にはまだ星はない。
「……ここにいるとさ、誰も俺を知らないから」
「私は知ってますよ」
「ん?」
「星好きの、フードを被った怪しい先輩」
一瞬キョトンとした先輩は、すぐに笑った。
「怪しいって、酷いな」
「名前も知らない怪しい人だと、最初は思ってました。でも今は知っています。黒瀬朔夜先輩」
「そういえば、自己紹介したことなかったな。一年の天城澪ちゃん」
ニヤリと先輩は笑う。
「やっぱりご存知でしたか」
「神谷律って天文学部の部長いるだろ?幼馴染なんだ。すんなり教えてくれた」
「幼馴染…なんか意外な組み合わせですね」
生真面目な性格の部長と、先輩が幼馴染っていうのがちょっと意外だった。
「黒瀬先輩は…」
「下の名前でいいよ」
「んー…じゃあ、朔先輩」
なんとなく名前を呼ぶのが気恥ずかしくて、名前を区切った呼び方になってしまった。
「ふはっ。そこで切るんだ」
一瞬目を丸くした先輩は面白そうに笑う。
「あ、嫌でしたか?」
「いや、誰も呼ばないからそのままでいいよ。なんか特別みたいでいいな」
噛み締めるように笑った先輩を見て、ふと思う。
この人は星を見るために、ここに来ているんじゃない。人気者の自分じゃなくて、ただの、自分自身に戻れる場所にくるために、ここに来ていたのかもしれない。
翌日も珍しく昼間に先輩を見かけた。
旧校舎にある職員室前の廊下を、先輩と部長が並んで歩く後ろ姿だった。
一年生の教室の窓からはよく見える。どこにいても見つけられる気がするな。
いつものように屋上で会った先輩を見て、思わずポロッと言葉がこぼれる。
「朔先輩って、星に似てますよね」
「俺が?」
先輩は驚いたようにこちらを振り向く。
「はい。遠くにいるのに、見つけるとすごくホッとするから」
そう、昼間の姿を見て何故かそう思ったんだ。
「今なら、どこにいても朔先輩を見つけられる自信があります」
ふふっと笑って先輩を見る。
「なんか、澪のくせに生意気」
ペチンッとおでこに指パッチンを食らった。
「痛いっ!横暴だ!」
結構本気でやりやがった、この人。
「……なぁ。もし俺が、ここに来なかったら…」
「何です?」
「…いや」
騒いでいた私の耳には何と言ったのか分からなくて、聞き返せば先輩は言葉を飲み込んだ。
先輩の顔を覗き込むよう見れば、前にも見た、どこか疲れているような。
そんな表情を隠すように、今日はいつもよりフードを目深く被っている。
何かを我慢するように、胸元を押さえていた。
「朔先輩、今日体調悪いですか?」
……一瞬だけ、止まった。
「…なんで?」
「なんとなく」
「そっか」
先輩はそれ以上、何も言わなかった。
私も何も聞かない。
ただ、隣りに座った。
やがて空が夜を彩り始め、最初の星が煌めき出す。
「あ、一番星」
「よく見つけたな」
「先輩、見えてます?」
「見えてるよ」
先輩は目を細め空を眺める。
「朔先輩」
「ん?」
「また明日も、来てくださいね」
「……気が向いたらね」
先輩は少しだけ驚いた顔をして、それから優しく微笑んだ。
次に先輩に会えたのは二週間後だった。
その日の部活後、いつものように屋上へと向かった。
「…やあ、久しぶり」
フェンスに凭れて座る先輩はどこか元気がない。
「二週間ぶりです」
「ちょっと風邪ひいちゃってさ〜」
そう言って笑う先輩は、まだ本調子ではなさそうだった。
そういえばここ最近、体調悪そうだったのは風邪のせいだったのかもしれない。
「もうすぐ七月ですね。夏の大三角が綺麗に見れるといいなぁ〜」
「この時期は春の大三角と夏の大三角が両方見られるチャンスがあるから割と好きだな」
静かに流れるこの時間がいつの間にか好きになっていた。
「ねえ、朔先輩」
「何だ?」
「先輩って好きな星座あります?」
「そうだなぁー…一番好きなのは冬の星座かな」
そう言って先輩は笑った。
「冬の空気は澄んでいて、星が綺麗に見えるから」
「私も冬の星、好きです」
「12月に、ふたご座流星群ってあるだろ?」
「はい」
三大流星群の一つで、他の流星群よりも見れる確率が高いものだった。
「澄み切った空に浮かぶ冬の大三角、そこに流れる流星群。最高だよな」
「わっかります!あれを見ると寒さも忘れて見惚れちゃうんですよね」
「じゃあさ」
先輩が空を見上げながら言う。
「12月、ここで一緒に流星群を見ようよ」
「…いいですよ。でも、急ですね?今までそんなこと言わなかったのに」
別に今までだって口約束をして会っていたわけでもないのに、なんだか不思議な気分だった。
「まぁいいだろ?やっぱりピーク時に見たいよな」
「国立天文台のサイト見れば大凡の時期は分かりますね」
「決まりな!ここで一緒に流星群を見よう」
「分かりましたよ」
「約束な」
そう言って笑った先輩の笑顔は、とても優しいものだった。
その時は、それが当たり前に叶うと思っていたんだ。
けれど、先輩は翌日から学校に来なくなった。
何日も来ないのも珍しい事ではない。
七月が終わり、夏休みになっても先輩に会うことはなかった。それでも変わらず私は屋上へ向かう。
星空を見上げ、ふと思う。
一人でいることが当たり前だったのに。
星を見ると落ち着けるはずだったのに。
先輩がいなくなってから、どこか心ここに在らずな自分がいた。
先輩と空を見上げたのはたった二ヶ月ぽっちだったけれど…。
先輩と一緒に見る星が好きだった。
あの不思議で静かな時間が心地よかった。
先輩がいなくなってから、それに気付くなんて。
馬鹿だなぁ…。
夏休みも終わり、新学期が始まったある日。
「……天城、ちょっといいか」
部長の神谷律〈かみや りつ〉先輩に呼び止められた。
「何でしょうか」
「最近のお前、なんか見てらんないよ」
眉を下げ、どこか寂しそうに部長は言った。
「…え?」
「前はたまにだったのに、もうずっと…毎日屋上に行ってるだろ」
バレてた。
屋上に行けば、先輩に会えるような気がして。
フードを被った先輩が、いつものように屋上のフェンスに凭れて空を見上げている気がして。
だから、何度も屋上に行った。
でも現実は、誰もいなかった。
「朔先輩が、」
いるかもって続けようとした私の言葉に被せるように部長が口を開いた。
「あいつ、病気なんだ」
「…は、え?」
「心臓の病気でずっと治療してた」
「う、嘘…ですよね?」
「嘘じゃない」
部長は視線を逸らした。
「去年の秋頃から急に悪化して。あいつが学校にあまり来られなくなったのも、そのせいだ」
思い返すのは屋上での日々。
時々、苦しそうに胸元をおさえていたこと。
すごく疲れた顔をしていたことも。体調がすごく悪そうに見えたことも。
風邪だったと言っていたのも、全部病気が悪化していたのを隠していたのでは?
サアッと血の気が引くのを感じた。
「……なんで、教えてくれなかったんですか」
「本人から口止めされてた」
「……」
「教師以外で知ってるのは、俺だけだ」
部長は少し間を空けて、口を開いた。
「あいつ、アメリカで手術を受けるらしい」
「…手術、ですか」
「ああ。いつ受けるのか聞いていないが、成功率はあまり高くないらしい」
成功率の低い手術。
成功するかどうか。
いつ戻ってこれるのか。
それすら何も決まっていないらしい。
胸の奥が、酷く冷たくなっていく。
「や…約束を、したんです」
自分でも驚くほど小さな声だった。
「一緒に、冬の流星群を見ようって…」
部長は何も言わなかった。
ただ、困ったように私を見る。
「いつ、帰ってくるか…帰ってこれるか、分からないんだぞ?無理に、待たなくてもいいんじゃないか?」
その言葉が、胸に突き刺さった。
待たない方がいい。
忘れた方がいい。
分かってる。
でも、それでも…。
あの約束だけは、忘れられる気がしない。
『12月、ここで一緒に流星群を見ようよ』
『約束な』
あの約束が、あの優しい笑顔が、忘れられない。
「…それでも、約束しましたから」
私は小さく呟いた。
部長は何も言わない。
「私は待ちます」
「……」
「いつかまた、朔先輩と一緒に星を見られる日が来たらいいなって…思うだけ、自由ですよね?」
部長は暫く黙ったままだったが、ほんの少しだけ笑って言った。
「…お前のそんなところが、あいつも気に入ったのかもな」
「え?なんですか?」
「なんでもないよ」
夏の終わりの空は、まだまだ明るかった。
冬の星は、まだ先の話。
それでも私は、空を見上げるたびに思う。
朔先輩も、この空を見ていますように、と。




