第3話 初めての一人乗務(前編)
午前四時四十五分。
目覚まし時計が鳴る前に、細野孝太郎は目を開けた。
「……寝られなかったな。」
布団から起き上がり、時計を見る。
あと十五分は眠れたはずだった。
しかし、初めての一人乗務を迎える今日だけは、どうしても眠りが浅かった。
顔を洗い、制服に袖を通す。
鏡の前で制帽をかぶると、自然と背筋が伸びた。
「今日から、本当の運転士か。」
そうつぶやくと、小さく深呼吸をして家を出た。
まだ夜が明けきらない街を歩き、池巣自動車営業所へ向かう。
営業所の明かりが見えた瞬間、不思議と緊張が少しだけ和らいだ。
「おはようございます!」
いつもより大きな声であいさつをすると、
「おっ、今日は気合い入ってるな。」
寺島主任が笑いながら近づいてきた。
「初単独乗務だからな?」
「はい。」
「眠れたか?」
「……正直、あまり。」
「みんなそうだ。」
寺島は笑いながら缶コーヒーを一本差し出した。
「ほら。飲んどけ。」
「ありがとうございます。」
その様子を見ていた山下がニヤニヤ笑う。
「寺島さん、細野だけずるいですよ!」
「お前は昨日ぐっすり寝た顔してるから却下。」
「えぇー!」
営業所に笑い声が広がる。
その横で大森は腕時計を見ながら言った。
「点呼まで三分です。」
「相変わらず正確だな。」
「時間管理も仕事です。」
「固いなぁ。」
川村も苦笑いする。
「でも、そのおかげで遅刻しなくて済みます。」
「確かに。」
四人は顔を見合わせ、小さく笑った。
やがて点呼室の扉が開く。
「新人四人、入れ。」
所長の声だった。
四人は一斉に姿勢を正す。
アルコールチェック。
健康状態の確認。
担当路線と注意事項。
一つひとつ確認が終わるたびに、緊張感が増していく。
最後に所長は四人を見渡した。
「今日から、お前たちは一人でハンドルを握る。」
静かな口調だった。
「忘れるな。時間は取り戻せても、事故は取り戻せない。」
細野たちは真剣な表情でうなずく。
「はい!」
点呼が終わり、それぞれ担当車両へ向かった。
「行ってきます!」
営業所に元気な声が響く。
細野は担当車両の前で立ち止まった。
「今日一日、よろしく。」
誰に聞かせるでもなく、小さくつぶやく。
点検表を手に取り、車両の周りをゆっくり歩く。
灯火類。
ミラー。
車体。
そしてタイヤ。
「……ん?」
左後輪の側面に、小さな線が見えた。
しゃがみ込んで近づく。
「これ……。」
指でなぞる。
ゴムの表面に細い亀裂が入っていた。
「気のせい……か?」
もう一度見直す。
研修で教わった点検項目が頭をよぎる。
『迷ったら、自分だけで判断するな。必ず報告しろ。』
しかし今日は初めての一人乗務。
自分の勘違いだったら恥ずかしい。
「どうしよう……。」
少し迷った、その時だった。
「細野。」
寺島主任が後ろから声をかけた。
「何かあったか?」
「主任、このタイヤなんですが……。」
寺島はしゃがみ込み、懐中電灯で照らす。
数秒後。
表情が変わった。
「……よく見つけた。」
「えっ。」
「この車両は使わない。」
無線機を手に取る。
「整備、こちら寺島。○○号車、タイヤ異常。代替車両を準備してくれ。」
営業所が少しだけ慌ただしく動き始める。
細野は申し訳なさそうに言った。
「すみません……出庫が遅れてしまいます。」
寺島は首を横に振った。
「謝るな。」
そして細野の肩を軽く叩いた。
「お前が今日一番最初にやった仕事は、バスを走らせることじゃない。」
細野は寺島を見る。
「お客様を危険から守ったことだ。」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。
すると山下が駆け寄ってくる。
「細野、大丈夫か?」
「うん。タイヤに亀裂があったみたい。」
「初日からそんなことある!?」
川村も驚いた表情を浮かべる。
「でも、見つかってよかったですね。」
大森もうなずく。
「見逃していたら、その方が問題でした。」
細野は同期三人の顔を見て、小さく笑った。
「ありがとう。」
数分後。
代替車両が細野の前へゆっくりと入ってくる。
寺島が親指を立てた。
「今度は問題なし。」
「はい!」
細野は運転席へ乗り込み、深呼吸を一つ。
時計を見る。
予定より少し遅れている。
それでも焦る気持ちは、不思議となかった。
所長の言葉が頭に浮かぶ。
『時間は取り戻せても、事故は取り戻せない。』
細野はエンジンを始動させた。
ゆっくりと営業所の門へ向かう。
初めての一人乗務が、いよいよ始まる。
(第3話・後編へつづく)




