第2話 教習車は今日も大騒ぎ(前編)
入社初日の午後。
営業所の車庫には、一台の教習車が停まっていた。
前面の方向幕には大きく、
「教習車」
の文字。
車体は普段街を走っている都営バスと変わらない。
むしろ、本物そのものだ。
「……でかい。」
孝太郎は思わず呟いた。
大型二種免許の教習では何度も運転した。
それでも営業所で見る車両は、まるで別物に感じる。
「今日から、この車がお前たちの相棒だ。」
藤崎彩が四人の前に立つ。
「まずは運転する前に覚えてもらうことがある。」
藤崎は車体を軽く叩いた。
「バスは運転する前の確認が八割。」
「え?」
山下が目を丸くする。
「運転じゃないんですか?」
「違います。」
藤崎は即答した。
「安全確認を怠る人は、運転席に座る資格はありません。」
四人の表情が引き締まる。
「じゃあ始めます。」
まずは車体を一周。
タイヤ。
ホイール。
灯火類。
ワイパー。
ミラー。
非常口。
車椅子用スロープ。
確認項目は想像以上に多かった。
「全部覚えるんですか?」
川村が青ざめる。
「全部です。」
「えぇ……。」
「覚えられなかったら?」
山下が聞く。
「覚えるまでやります。」
「ですよねー。」
営業所に笑いが広がる。
その頃。
二階の休憩室。
ベテラン運転士たちは窓から教習の様子を眺めていた。
「今年の新人、面白そうだな。」
「山下って子、絶対ムードメーカーだ。」
「いや、あの大きい子もいい味出してる。」
「細野は真面目そうだな。」
「大森は頭良さそう。」
そこへ寺島が缶コーヒーを持って現れる。
「新人観察会か?」
「恒例だからな。」
「去年もやってたじゃん。」
「新人は営業所の宝だからな。」
みんな笑う。
しかし、その笑顔の裏には期待もあった。
「今年は四人とも最後まで残ってくれるといいな。」
その言葉だけは誰も否定しなかった。
営業所では毎年、新人が辞めることも珍しくない。
だからこそ、みんな四人を気にしていた。
その頃、車庫では——。
「じゃあ最初は細野さん。」
「はい!」
「運転席へ。」
孝太郎は緊張しながら乗り込む。
高い運転席。
大きなフロントガラス。
無数のスイッチ。
「飛行機のコックピットみたいだ……。」
「飛びません。」
藤崎が真顔で返す。
一瞬の沈黙。
そして。
「ぷっ!」
山下が吹き出した。
「先輩、それ面白いです!」
「笑うところじゃありません。」
「でも今、絶対狙いましたよね?」
「狙ってません。」
「いや狙いましたって!」
藤崎は表情を変えない。
だが耳だけ少し赤い。
それを見た寺島が遠くから笑っていた。
「藤崎、また天然出てるな。」
「本人だけ気付いてないんだよな。」
ベテランたちは今日も楽しそうだった。
孝太郎は深呼吸する。
キーを回す。
「ブォン……」
ディーゼルエンジンが静かに目を覚ました。
その振動がシート越しに伝わる。
「これが……都営バス。」
胸の奥が熱くなる。
子どもの頃、何気なく乗っていたあのバス。
まさか自分が運転席に座る日が来るなんて思ってもいなかった。
「では発進。」
藤崎が言う。
「はい!」
孝太郎はブレーキを離し、ゆっくりアクセルを踏む。
……その瞬間。
「うわっ!」
ガクン!
車体が大きく揺れた。
「きゃーーー!」
後ろで山下たちの悲鳴が響く。
「細野ぉぉぉ!」
「酔う酔う酔う!」
「まだ一メートルしか進んでない!」
営業所中に笑い声が響き渡る。
新人運転士・細野孝太郎。
その記念すべき最初の発進は、決して格好いいものではなかった。
しかし、この日から四人の長い運転士人生が、本当の意味で始まったのである。
(第2話・前編につづく)




