21.兄レイモンド
「……よく戻ってきたな、エレン。辛かっただろう」
和やかに兄弟で過ごした夕食後、静けさに包まれていた執務室の中レイモンドが口を開いた。窓の外はすっかり夜の帳に包まれている。
「父上から話は聞いている。殿下に婚約を破棄されたと」
レイモンドの低く穏やかな声に、エレオノーラは小さく頷いた。
「舞踏会の夜、ハーマン殿下が、デブで愚鈍な癇癪持ちのお前に、未来の王妃の座はふさわしくないって」
「……なんだと?」
レイモンドの声が強くなった。
「それで、ラフォレット侯爵令嬢が現れて、身を引けって言ったのよ。私のことを残念令嬢だって言って。彼女の見下すような目つきに本当に腹が立って」
レイモンドはしばし絶句した。そして静かにため息をつき、眉間にしわを寄せた。
「……あんな男と結婚しなくて済んで、本当に良かった。お前のような優しくて明るい頑張り屋を手放すとは、あの王子は見る目がないにもほどがある」
お兄さまの言葉が胸に沁みた。やっぱりお兄さまは私の味方でいてくれる。エレオノーラはかすかに笑ったが、すぐに真剣な表情に戻った。
「ありがとう、お兄さま。でも……私が今日話したかったのは、そのことだけじゃないの」
「ふむ、どんなことでも聞いてやるから、言ってみろ」
レイモンドが姿勢を正すと、エレオノーラは少し迷ってから口を開いた。
「婚約破棄のあと、ヒューゴとフランソワと一緒にダイエットを始めたの。体づくりのトレーニングもね」
レイモンドは驚いたように目を見開き、それから懐かしそうに微笑んだ。
「ヒューゴとフランソワか。懐かしいな。まだ仲良くしているのか」
「うん、本当に助けられてる。2人がいなかったら、きっと今の私はなかった」
レイモンドはうなずきながら、エレオノーラの話にさらに耳を傾けた。
「最初はただ痩せようって思っただけだったんだけど、だんだん気づいたの。……この国の靴や育児グッズには、大きな問題があるって。それをお父さまに話したんだけど、まったく取り合ってもらえなかったの。お前の口出しすることじゃないって冷たく言われて」
レイモンドはしばらく黙ってエレオノーラの顔を見つめた。軽く組んでいた腕をほどき、机の上に手を置く。その仕草には、妹の話をしっかりと聞こうとする誠実さが滲んでいた。
やがて真剣な声で、ゆっくりと問いかける。
「具体的に、どんな問題なんだ?」
エレオノーラが説明する。
「まず、靴について」
エレオノーラは自分の考えを整理しながら話した。
「この国の靴の作り方では、足にぴったり合うものを作るのが難しいの。足に合わない靴を履くことで、足や膝、腰の痛みや体の不調につながっているのだと思ったの」
「なるほど」
レイモンドがうなずきながら聞く。
「足に合った靴を作るには、まず正しい足のサイズを測ることが必要で、長さだけでなく、足の幅や甲の高さ、踵の幅、指の長さも含めて測るべきだと思う。この方法を靴職人に伝えれば、より快適で、かつ健康的な靴を作れるようになるはずよ」
レイモンドは興味深そうにうなずいて聞いていた。
「靴が合う合わないなんて、気にしたこともなかった。だけど、確かに言われてみれば健康に関係がありそうだ。靴のことは、マルテッロ公爵に相談してみよう。彼は工業に詳しいから、製造のことで協力してくれるはずだ。私から手紙を書いておこう」
エレオノーラは驚いてレイモンドを見た。すぐに具体的な協力を申し出てくれるなんて思っていなかったのだ。
「どうした?靴の問題を解決したいんだろう?」
レイモンドが優しく言うと、エレオノーラは青い瞳に涙が浮かんだ。
「もしかしたら、お兄さまもお父さまと同じように、そんなことはどうでもいいって言うかもしれないなって思っていたの。でも、お兄さまはやっぱりお兄さまね。昔から変わらない、優しいお兄さまだわ」
エレオノーラの胸の奥が温かくなった。
(やっぱりお兄さまは私のことを信じてくれる。こんなに心強いことはない)
「当たり前だろう、可愛い妹のためだ」
レイモンドが頭をかきながら言って、続きを促した。
「育児グッズについては、私が小さい頃の子育てのことや、友人の子育ての話を聞いて気づいたの。育児グッズが赤ちゃんの健康に悪い影響を与えているかもしれないって。ちゃんと調べる必要があると思うんだけど、販売を見合わせてほしいって言ったらお父さまはすごく怒って……」
レイモンドは驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔になった。しばらく考え込んだ後、重くうなずいた。
「父上の考えもあるし、国中の流通を一気に止めるのは難しい。でも、この領地内での販売は当面やめて、調査することはできる。……それだけでは足りないな。しばらく使用禁止の通達も出そう」
領主代行としての迅速な判断にエレオノーラは安堵の息をついたが、同時に心配になった。
「でも、お父さまの言ったことと違ったことをして、大丈夫?叱られたりしない?」
「大丈夫だ」
レイモンドがきっぱりと言った。
「領地のことは全部、俺に権限がある。よほど領地に損害が出ること以外は何も言われない。もし何か言われても、俺がお前の味方になるから心配するな」
笑顔で言うレイモンドを見て、エレオノーラは心の中で思った。
(私のお兄さま、最高にかっこいい!!)
次回は、領地の視察です。




