01
「結婚しよう」
先生は言った。
「寝言は寝て言え」
私は答えた。
この小一時間で交わされた会話を要約すると四行で済むのに。
なんという時間の浪費。
喋り疲れて乾いた喉を癒すべくすっかり冷めた紅茶を流し込んで、私はため息を付いた。
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「失礼します、西守先生」
こんこんと物理準備室のドアをノックする。
「はい、どうぞ」
中からの声にドアをスライドすると、部屋の主であるところの物理教師、西守桐人が笑顔で迎えてくれた。
身長もそこそこ高く(180弱とか言っていた気がする)黒い髪、黒い瞳ですっきりした容姿の彼は多分イケメンとかかっこいいに属するものなのだろうと思う。そう友人が言っていたし。
個人的には笑顔とか彼独特の雰囲気のほうが先に思い出されて、そういう印象は薄い。
「いらっしゃい、古賀さん」
先生の笑顔と声に、体の緊張が緩む。先生からはマイナスイオンとかが出ているに違いないとまじめに思っている。誰にも言わないし、顔にも出さないけど。
後ろ手にドアを閉めて、部屋の隅にある応接セットに腰掛けた。
「今日は何にします?理貴」
「紅茶をおねが…というか学校では理貴って呼ばないでください先生」
「ふたりきりの時くらいいいじゃないですか、ドアも閉まってることですし」
「ダメですそういうところから崩れていくんです」
一息でそういうと古賀さんは真面目ですね、と困ったように先生は笑った。
名前呼びは生徒と先生の禁断の関係とかでもなんでもなく、ただの幼馴染の気安さだ。
「今日はどうでした?」
先生は窓辺にあるお茶コーナーでティーバッグを入れたカップにポットからお湯を注ぎつつ聞いてくる。
「普通です」
「それはよかった」
背中を見ながらほう、と小さく息をついた。
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このお茶会が始まったのは私が入学して三ヶ月目のことだった。
放課後廊下を歩いていたら、後ろから急に理貴、と声をかけられた。
聞き慣れた声に振り向くとやはりそこには幼馴染が立っていて、お茶でもどうだと誘われてこの部屋に連れてこられた。
「理貴が入学したって聞いたから楽しみにしてたのに。なかなか会えないもんだな」
はい、と紅茶の入ったカップを渡される。
「私は物理の授業を取ってませんから」
「ああ、なるほど…でもすれ違うくらいあるかと思ってた」
「高校の敷地は広いですから」
まあ意識的に避けていた面もあるのだけれど。
「敬語やめないか?なんか理貴に敬語使われるとむずむずする…ってこれ前にも言った気がする」
「学校内では先生と生徒ですから。先生も他の生徒と同じように接してください」
「理貴は真面目だな…」
「先生」
「古賀さんは真面目ですね」
「はい」
けじめは大事です。あと距離感も。
「それで、なにか御用ですか?」
「いや、ただ俺が理――古賀さんとお茶したかっただけ」
「そうですか」
「最近古賀さんと話してないなって」
「小学生の時のようにというわけにはいきませんよ、先生もお忙しいでしょうし」
「…理貴が冷たい…俺のこと嫌いになったんだ…!」
めそりと泣き真似をしながら拗ねる振りをする。
「先生を嫌いになることなんてあるわけないじゃないですか」
「……あ、そう…それはありがとう」
「嘘ですけど」
「ひでえ!」
「それも嘘です」
「もてあそばれてる!」
数年前から同じようなやり取りをしている。お馴染みネタというか天丼というか、に乗ってくれるいい人だ。
しかし幼馴染兼恩人のことを嫌いになれようはずがないし真実は真実だけど、”嫌いにならない”程度の発言で真っ赤になるとか相変わらず初いなあ。
幼馴染の私に言われてこれとか大丈夫か。女に免疫がないにも程がある。
思わず笑みを漏らすと先生はどこかほっとしたように笑った。
「理貴、高校楽しい?」
なんでもない風に聞かれたけれど、これが本題か。いかん、気遣われている。
「普通です」
そう。普通だ。進学してすぐのいつもどおり。
兄や姉の噂を聞いて、その妹に期待して、がっかりした顔をして去っていく。
近づいてきた人は兄や姉目当て。基本的にするのは兄姉の話、お近づきになりたいのかすぐに家に来たいと言いだす。
将を射んと欲すればまず馬を射よってやつだろうか。そういう人は一人として家に呼んだことはないけど、もうちょっとうまくやってもらいたい。
これで兄姉のことが嫌いならば徹底的に彼らと同じ学校を避けたのだろうけど、始末の悪いことに私は彼らが大好きで、憧れていた。
彼らの通った高校に自分も通いたいと思ってしまった。
だから予想はしていたしいつものことで慣れてもいたし、私も同じ立場ならそうするだろうしそれに対して文句はない。けど。ちょっとだけ。
(しんどい、と思ってた)
顔にの態度にも出てなかったと思うけど、見抜かれるとはさすが幼馴染。
でもこの人に心配は掛けたくなかったから、できるだけ明るく話す。
「大丈夫です、中学からの友達もいますし」
「うん」
「勉強は、頑張らないと付いていけそうにないですけど」
「うん」
「あと兄姉の話がそれこそ伝説クラスになって語り継がれてて空恐ろしさすら感じますけど」
「うん…」
それは俺も思った、と遠い目をして言う先生。そういえば先生は兄のクラスメイトだった。
「あれはどこまで本当なんだか妹として鼻が高いんだかなんなんだか」
「三割増しくらいには盛られてる」
「三割しか盛られてないんですか」
兄姉流石すぎる。しびれて憧れるしかない。
「とりあえず、」
手の中で少しだけ冷めた紅茶を一口飲んだ。
「…楽しくなったらいいな、と思います」
「うん」
昔されたように、頭をくしゃりと撫でられる。
やっと高校で息ができた気がした。
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その後帰り際に寂しいから暇な時は寄ってください、待ってますから、と”先生”の口調で言われた。
それから、幼馴染の好意に甘えて一週間に一度程度、放課後に立ち寄らせてもらっている。
あまり通いつめて先生のファンやら(いてもおかしくはないと納得した)他の先生やらに勘ぐられてもうまくないのでこの程度なら先生に質問に行っていると言い訳できるなと計算した上での回数だ。頭は良くないがそこら辺は小賢しい私。
それから、しんどい「普通」がなんでもない「普通」に変わっても、この場所が心地よくてずるずると来続けてしまった。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、小学の時のアレのそのままだ。
本当は高校入学と共に甘えるのをやめようと思っていたのに。
二年生にもなったし、そろそろ独り立ちしようと思って最近はちょっとずつ回数を減らしている。
「理貴」
名前を呼ばれてあわてて意識を引き戻すと、いつの間にかテーブルの上にはカップがあり、向かいのソファに先生が腰を下ろしていた。
「すみません、ありがとうございます」
「いや」
紅茶を一口飲んで、テーブルに戻す。
「そういえば今日はなんの御用です?」
先生からお茶に来いと呼ばれるのは珍しい。いや、お茶にとは言われなかった。話があるから来てくれ、だったか。
「うん、これ」
小さな箱がカップの横に添えて置かれる。
薄ピンクのリボンがかけられた白い小さな箱だ。
「お茶菓子ですか?これまた高級そうな」
珍しいこともあるものだ。いつもはスーパーの大袋菓子が菓子盆に乗って無造作に置いてある。
「プレゼント」
「ぷれ…ああ!」
すっかり忘れていた。そういえば今日は私の誕生日だった。
家族が朝みんなやたらそわそわしていたのもそのせいか。サプライズパーティーでもやってくれるつもりだろうか、頑張ってびっくりする心づもりをしておかねば。
しかしちょっとお高めなお菓子の誕生日プレゼントとは、この人もやっとわかってくれたか。
13歳までは普通の小物とかヘアピンとかだったのに、14歳からブレスレット、15歳はアンクレット。
16歳はネックレスとやたら高そうなアクセサリーばかり贈ってもらって(大した値段ではないと先生はいうが)、心が苦しかったのだ。
バイトもしていない身では大したものも返せないし、と毎回毎回言っていたのがやっと通じた。
そうそう、こういうのでいいんだよ。ちょっとした、千円くらいのお菓子。消えものは素晴らしい。
早速紅茶に合わせて食べようとリボンを解いて蓋を開けて、固まった。
中には、キラキラと輝く、ダイヤっぽいものがついた指輪が。
蓋を閉めてすっと目の前の先生のもとに滑らせる。
よし。私はなにも見なかった。
「それでですね」
「プレゼント」
目の前に置き直された。
「…いやさすがに恋人でも家族でもなし、そんな高そうなもの受け取るわけには」
「俺の気持ちだから受けとって欲しいんだけど」
イニシャルも入れちゃって返品もできないしと重ねて言う先生を見つめる。
気持ち。気持ちなあ。
返却もきかないというなら仕方ない、来年からはなしに――いやこの人はありがたいことに何が何でも祝ってくれていたな、うまい棒にしてもらおう。うまい棒がよしんば値上げする日が来たら五円チョコだ。
ため息をつきつつ受け取った。
「じゃあ今回まではいただきますけど」
来年からは本当に辞退しますからと続けようとして、
「結婚しよう」
こんどこそ私は固まった。
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たっぷり30秒ほど思考が止まって(多分息も止まっていた)、無理矢理のように声を吐き出す。
「な、ぜ、ですか?」
「俺がお前を好きだからです」
「それはまあずっとかまってくださってますから嫌いではないんでしょうけど」
「性的な意味で」
「学校で先生が生徒に言うフレーズではないと思います」
「遠まわしに言っても気づかないだろ?」
理貴は鈍感だから、と笑う。鈍感とは失礼な。こんなに空気を読みつつ育ってきたというのに。
ああもしかして、と私はテーブルに乗り出し先生の額と首筋に手を当てた。こんなアホなことを言い出すなんて確実に熱があるに違いない。
「ほら先生熱いです、熱があります、病院に行くべきです」
「それは理貴が近いからだよ…」
びっくりしたのち真っ赤な顔で目線を逸らしつつ言う先生に、先生は女性に対して免疫がなかったのだったと思い出した。私もテンパっていたらしい、申し訳ないことをした。
手を放して座り直す。
「すみません、でもあまりにも先生がおかしなことをおっしゃるので」
「おかしいかな」
「おかしくないと思うほうがおかしいですね」
寝ぼけてるのかなこの人。
「まあ実際籍を入れるのは学校を卒業してからだからまず婚約ということで、ひとつ軽く」
「先生目を覚ましてください、軽く婚約って何ですか」
「じゃあ重く考えてくれると」
「そういうことじゃねえ」
こめかみに手を当てる。どう言えばいいんだこれ。
「先生は女性が苦手だからわからないのかもしれませんが、こういうのはいきなりするものではないと思います」
私も経験があるわけではないけど、さすがに何もない状態から一足飛びに結婚というのがおかしいというのはわかる。
「まずおつきあいをするとか」
「結婚を前提としたおつきあいならいいのか」
「それは婚約とどう違うんですか」
厳密に言えば違うのかもしれないが、私としてはほぼ同じ意味合いだ。
「もっとこう…プロポーズっていうのは、お互いをよく知るとかしてから言うものだと」
「よく知るってこれ以上?」
「…え、いや一般的な話で」
「ああ他に俺が知らない理貴のところって言えば」
「性的にってオチなら殴る」
「教えてくれるのかと思ったのに」
「教えないよ!今の流れでどういう思考回路だよ!」
「つまり俺の知らないところを理貴にってことか…全然いいぞ!いつでもOK!」
「こっちはよくねえー!」
超イイ笑顔で手を広げて言われても困る。女が苦手なのにエロ魔人。どんなアンビバレンツだ。
ていうかおかしい。ここは癒し空間だったはずなのに。マイナスイオンすら感じていたその笑顔には今は貞操の危機しか感じない。流れ的に先生の貞操の危機だけど。
頭が痛くなってきた。一度仕切りなおそう。
大きく息を吸って吐き出す。
「そもそも!」
バン!と机を両手で叩く。
「先生と私では釣合いません」
「お似合いだと思うけど」
「そういうのは本人たちがいう台詞じゃないですよね」
「歳の差なら二十歳超えれば7つ差の夫婦なんてザラにいるし」
「いやまあそれもありますけどそもそも顔がね」
「顔が?」
「先生はイケメンさんで私はそうではありません」
「…理貴にほめられると照れる」
引っかかるところはそこじゃねえよ!へらっとするな、赤くなるな!
「頭も良くないですし運動も出来ませんし取り柄も特技もありませんし」
何を私は自らの欠点を述べるという苦行をさせられているのだ。嫌がらせか。
「うん、理貴のことはよく知ってるよ、俺」
まあそうでしょうよ。10年…今日で丸11年のお付き合いだ。
私もこの人のことはよく知っている。
「だから結婚しよう」
「寝言は寝て言え」
知っているはずなのに、こんなに話の通じない人だっただろうかと気が遠くなりかけた。