第八話 恋愛相談、始めました
クラリスの婚約者は、トーマス・ブライトンという男爵家の令息だった。
二人は領地が隣同士の幼馴染で、子どもの頃から仲が良く、去年めでたく婚約が調った――というのは、わたくしも噂で聞いて知っていた。
穏やかなクラリスと、快活なトーマス様。お似合いの二人だと、誰もが思っていたはずだ。
「最近、なんだか避けられている気がするの」
刺繍室の隅で、クラリスは小さな声でそう打ち明けた。
「お昼を一緒にとろうとお誘いしても、用事があるって断られるし……手紙のお返事も、前よりずっと短くなって。それに、この前、二年の別のご令嬢と中庭で楽しそうに話しているのを見てしまったの」
「……そうでしたの」
「わたくしの考えすぎかしら。オデット様は、どう思われます?」
どう思うかと聞かれても、わたくしはトーマス様とろくに話したこともない。
本来なら「きっと考えすぎですわ」と慰めるのが精一杯のところだ。
けれど今のわたくしには、確かめる方法がある。
「少し、考えさせてくださる?明日、また改めてお話ししましょう」
そう言ってクラリスと別れた翌日の昼休み、わたくしはトーマス様を探しに行った。
見つけるのは難しくなかった。
クラリスの左手から伸びる糸を辿ればいいのだから。
その糸は、恋する気持ちをそのまま映したように、深く濃い赤色をしていた。
糸の先、中庭の噴水のそばに、トーマス様はいた。
一人ではなかった。
栗色の巻き毛の小柄なご令嬢と、ベンチに並んで座って話している。
確か、同じ二年のミレーヌ・カーティス様。
トーマス様が何か冗談を言ったのか、ミレーヌ様が口元を押さえて笑い、トーマス様もつられて笑っている。
植え込みの陰から、トーマス様の手を見ると、左手の薬指から一本の糸が伸びていた。
その相手は、もちろん隣に座るミレーヌ様の右手だ。
かなり、濃い赤。
殿下からリリアーナへ伸びる糸と、ほとんど変わらないくらいに。
そして、トーマス様からクラリスへ向かう糸は、どこにもなかった。
右手には、クラリスからの糸が一本、しっかりと結ばれている。あれほど深い赤色で。
それを受け取っている本人の心は、もうまったく別の方向を向いているというのに。
しばらく、その場から動けなかった。
一方通行。
それは、ひどく見覚えのある形だった。
翌日の放課後、わたくしは再びクラリスと刺繍室で向かい合う。
どう話すべきか、一晩じゅう考えた。
本当のことを言うわけにはいかない。
「赤い糸が見えるのですが、あなたの婚約者はもう別の方を好いていらっしゃいます」なんて、どうやって説明すればいいのだろう。
糸のことを明かせないのはもちろんだけれど、仮に明かせたとしても、それをクラリスに告げる勇気がわたくしにはなかった。
だって、わたくしは知っている。自分の想いが一方通行だと知る瞬間が、どんなものなのか。
だからといって、「考えすぎですわ」と嘘をつくこともできない。クラリスの糸はあんなにも赤いのに、何も知らないふりをして笑うのは、それはそれで残酷な気がした。
「クラリス」
言葉を選びながら、口を開いた。
「一度、トーマス様ときちんとお話しになったほうがいいと思いますわ」
「……きちんと?」
「ええ。不安に思っていること、寂しいと思っていること、全部。一人で悩んで答えを想像するより、ご本人の口から聞いたほうが、きっといいと思うの」
たとえ、それがどんな答えであっても。
最後の一言だけは、飲み込む。
クラリスはしばらく黙ってわたくしを見つめていたけれど、やがて小さく頷く。
「そう、よね。ありがとう、オデット様。わたくし、話してみます」
健気に微笑む彼女を見送りながら、胸の奥がしくしくと痛むのを感じていた。
ところが、話はそれで終わらなかった。
クラリスが友人に「オデット様に相談に乗っていただいたの」と話したらしく、それがどういうわけか人から人へと伝わって、わたくしのところにはぽつぽつと恋愛相談が舞い込むようになったのである。
「オデット様、三年の騎士科のあの方って、わたくしのことどう思っていらっしゃるのかしら……」
――糸を見れば、しっかりと向かい合って結ばれていた。
「一度、思い切ってお茶にお誘いしてみては?」
そう勧めたら、三日後には二人で並んで歩いていた。
「最近、婚約者が冷たいんですの」
――糸は相変わらず濃い赤で、婚約者の方からもちゃんと伸びていた。
「何かお忙しいことがあるのかもしれませんわ」
単に照れているだけだと見当をつけただけなのだけれど、実際に領地の件で頭を悩ませていたらしく、後日揃ってお礼を言われた。
「エドガー様って、どなたか好きな方がいらっしゃるのかしら」
――それについては、ちょっと、答えに窮した。
「とても誠実な方ですから、軽々しくはお決めにならないと思いますわ」
そう言葉を濁しておいた。嘘ではない。三人を同時に誠実に想っているだけで。
糸のことは決して口にせず、あくまで「見える範囲」で、それとなく助言をする。
それだけのことなのに、わたくしの言葉は面白いほどよく当たった。
当然である。答えが見えているのだから。
気づけば学園の一部で、わたくしはこんなふうに呼ばれるようになっていた。
「アーデンフェルト様は、恋愛に関してだけ勘が鋭いんですって」
――恋愛に関して、だけ。
「だけ、というのは余計ではなくて?」
昼休みの食堂でその噂を聞かされて、わたくしは思わず眉を寄せた。
教えてくれたリリアーナは、「褒め言葉だと思うわ」と困ったように笑っている。
「いいじゃないか。人の役に立っているんだろう」
殿下が面白そうに言って、それから少し首を傾げた。
「しかし意外だな。お前、自分のことになると、あれだけ鈍いのに」
「鈍い?わたくしが?」
「ああ。鈍い。かなり鈍い」
心外である。
わたくしは今や学園中の恋模様を把握している身だ。
鈍いどころか、誰よりも鋭い自信がある。
……自分の恋が一方通行だったことだけは、糸が見えるまで気づけなかったけれど。
わたくしが言い返すより先に、バスティアンが低い声で殿下を呼んだ。
「殿下」
「ん?ああ、悪い」
殿下がバスティアンを見て、何かを思い出したようにと肩をすくめた。
バスティアンは何も言わずにパンをちぎっている。
何だろう、今のやりとりは。
首を傾げたけれど、二人とも何事もなかったように別の話を始めてしまったので、それ以上は気にしなかった。
自分の恋はうまくいかないのに、他人の恋にはやたらと詳しい。
我ながら妙な立場になってしまったものだと思う。それでも、相談に来た子たちが笑顔で帰っていくのを見るのは、悪い気分ではなかった。
――ただ一人を除いては。
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