第九話 赤い糸は、切れる
数日後、刺繍の授業を終えると、教室へ戻る途中の渡り廊下で足を止めた。
柱の陰に、クラリスが立っていた。
彼女の視線の先、中庭の向こうを、トーマス様とミレーヌ様が並んで歩いている。楽しそうに、肩が触れそうなほどの距離で。
クラリスは、泣いていた。
声も出さず、ただ静かに、頬を濡らしながら二人の後ろ姿を見つめ。
後から聞いた話では、彼女は勇気を出してトーマス様と話をしたけれど、「気のせいだよ」と笑って流されてしまったのだそうだ。
クラリスの左手から伸びる糸は、今も深い赤色のまま、トーマス様の右手へ届いている。
そしてトーマス様の左手からは、あの濃い糸が、ミレーヌ様へ。
わたくしはただ何もできずに、その光景を見つめるだけ。
ふと、エプロンのポケットが重いことに気づく。
手を入れると、ひやりとした金属の感触があった。
さっきの授業で使った、小さな裁縫鋏。
祖母から譲り受けた、小さなルビーが一粒だけ埋め込まれた銀の古い鋏。
片付けるのを忘れて、そのまま持ってきてしまったらしい。
鋏を握ったまま、トーマス様の左手から伸びる赤い糸を見た。
糸は、指ですら触れられない。
掴もうとしても、何の手応えもなくすり抜けてしまう。だから、こんなことを考えるのは無意味だ。
わかっている。わかっているのだけれど。
「……まさかね」
本気で何かが起きると思っていたわけではなかった。
指で触れようとしても、糸はすり抜けてしまう。
掴めないものを、鋏で切れるはずがない。それくらいのことは、わたくしにだってわかっている。
だからこれは、ほんの気まぐれだった。
興味半分、というやつだ。泣いているクラリスを前に何もできない自分が歯がゆくて、何かしている気になりたかっただけなのかもしれない。
柱の陰に身を寄せ、渡り廊下の手すり越しに腕を伸ばす。
トーマス様の左手から、ミレーヌ様の右手へ。
二人の間に張られた赤い糸が、ちょうど中庭の植え込みのあたりで、わたくしの手の届く高さを通っている。
銀の鋏を開く。
刃の間に、赤い糸を挟む。
どうせ、すり抜けるだけ。
ぱちん。
小さな、けれど確かな手応えがあった。
刺繍の最後に、余った糸を切り落とすときと同じ感触が指先に、ほんのわずかな抵抗と、それがふっと途切れる軽さが伝わってくる。
鋏を開いたまま、固まる。
赤い糸が、二つに切れていた。
ミレーヌ様の側に残った糸は、切り口からほどけるように色を失い、朝靄のように薄くなって、そのまま空気に溶けて消えた。
そしてトーマス様の左手に繋がった側は、行き場を失った糸の端が、ふわり、ふわりと、所在なげに宙を漂っている。
「――それでさ、そのとき先生が」
中庭の向こうで、トーマス様が楽しげに話している声が聞こえてくる。
その声が、ふいに途切れた。
トーマス様は隣のミレーヌ様を見て、何度か瞬きをした。
まるで、今まで話していた相手が誰だったのか、急にわからなくなったような顔だった。さっきまで肩が触れそうなほど近くにあった体が、ほんの半歩、自然に離れる。
「トーマス様?」
「あ……いや、ごめん。何の話だったかな」
ミレーヌ様が小首を傾げる。
トーマス様は曖昧に笑って、首の後ろを掻いた。
その笑顔には、さっきまであった熱のようなものが、きれいさっぱりなくなっていた。
昨日まで、いやほんの数瞬前まで、あれほど楽しそうに彼女を見つめていたはずなのに。
「そろそろ授業だから」
戸惑ったように歩き出す二人の間には、もう何の糸もなかった。
自分の手の中の鋏を見下ろす。
指が、小刻みに震えている。
「……わたくしが、切った?」
声に出した途端、血の気が引いていくのがわかった。
切れた……私が切ってしまった。
触れることすらできないと思っていた糸を、この鋏で。
そして糸が切れた瞬間、トーマス様の心から、ミレーヌ様への想いが消えた。
偶然だろうか。たまたま、同じ瞬間に彼の気持ちが冷めただけ、という可能性は。
……ない、と思う。
あの顔は、自然に熱が冷めた人の顔ではなかった。ぷつりと、何かが途切れた人の顔だった。
どくどくと、心臓がうるさく鳴っている。
震える手で鋏を閉じ、ポケットにしまう。
とにかく落ち着かなければ。
とにかく、誰にも見られていないことを確かめて、それから――
視界の端で、赤いものが揺れた。
トーマス様の左手から伸びた、切れた糸の端。
トーマス様は中庭を横切って校舎へ向かっているのに、その糸の端だけが、ふわふわと風に流されるように、わたくしのほうへ漂ってきている。
ほとんど無意識に、気が付けばその糸に向かって手を伸ばしていた。
指先が、糸に触れた。
触れた、のだ。
あれほど何度掴もうとしてもすり抜けていた糸が、今は確かに、指の間にある。
絹糸よりもさらに細くて、柔らかくて、ほんのりと温かい。
「どうして……」
切った糸なら、触れられる。そういうことなのだろうか。
わからない。何もわからない。頭の中はぐちゃぐちゃで、何ひとつ考えがまとまらない。
ただ、指先に糸の端を持っていると、どうにも落ち着かなくなる。
刺繍をする人間なら、誰でもわかると思う。
ほつれた糸の端を、そのままにしておくのが我慢ならないのだ。
結び留めるか、裏に通して始末をつけるか、とにかくどこかに収めなければ気が済まない。
幼い頃から何千、何万と針を刺してきたわたくしの指は、ほとんど習性のように、この糸の「行き場」を探していた。
視界の端に、柱の陰で泣いているクラリスの姿が映る
彼女の左手からは、今もトーマス様へ、深い赤の糸が伸びている。
そして彼女の右手には――何もない。
糸の端を持ったまま、一歩踏み出した。
一歩、また一歩。糸はわたくしの指の間で、するすると伸びていく。
トーマス様がどんどん遠ざかっているのに、糸はぴんと張ることもなく、どこまでも素直に伸びてくる。
クラリスは、わたくしが近づいたことにも気づいていない。
ハンカチを目元に押し当てて、俯いている。
その右手が、すぐそこにあった。
わたくしは、糸の端をそっと、彼女の薬指に近づけた。
触れるか触れないか、というところで。
糸が、ひとりでに動く。
まるで生き物のように、しゅるりとクラリスの薬指に巻きつく。
一巻き、二巻き。それから、わたくしが何千回も結んできた玉留めのように、きゅっと小さく結び目を作った。
結ばれて、しまった。
トーマス様の左手から、クラリスの右手へ。
新しく結ばれた糸は、最初こそ頼りない薄紅色をしていたけれど、わたくしが見ている間にじわじわと色を増して、やがて落ち着いた赤に染まった。
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