第七話 六本の赤い糸
「何がだ」
思わず声を出しながら立ち上がったわたくしの隣で、バスティアンが怪訝そうに眉をひそめた。
確かに六本ある。見間違いではない。
蜂蜜色の髪の男子生徒の右手には、確かに六本もの赤い糸が絡みついている。
東屋の柱に手をついたまま、遠ざかっていく彼の背中を睨みつけた。
「なんて不埒な……」
「おい、オデット」
「六人ですのよ、六人!一体どういう神経をしていらっしゃるのかしら」
「だから何の話だ」
隣でバスティアンが心底わけがわからないという顔をしている。
我に返り、こほんと咳払いをした。糸のことを話すわけにはいかない。
「……あの方、どなたですの?」
「ユリウス・ハーヴェイ。三年だ。ハーヴェイ侯爵家の嫡男」
さすが殿下の側近候補、
学園の主だった生徒の顔と名前はだいたい頭に入っているらしい。バスティアンは少し考えてから、付け加えた。
「女子生徒に、やたらと人気がある」
「人気?六股の間違いではなくて?」
「……お前、ハーヴェイ先輩に何か恨みでもあるのか」
恨みはない。
ただ、恋する乙女として許しがたいだけである。
わたくしは憤然としながら、もう一度、ユリウス先輩の背中へ目を凝らした。
遠くなってしまったけれど、赤い糸はまだはっきり見える。六本の糸が、それぞれ別の方向から伸びてきて、彼の右手に――
右手に。
「…………」
ゆっくりと瞬きをする。
右手。
右手に入ってくる糸は、「自分を好きな相手」から届くもの。
つい数日前、わたくし自身が帳面に矢印を書いて導き出した法則ではないか。
慌てて彼の左手を見ると、何もなかった。一本たりとも。
つまり、六人の女性がユリウス先輩を好いている。けれど先輩自身は、誰のことも好きではない。
「……ただのモテ男ですわ……」
「だから何の話なんだ」
力なくベンチに座り直し、冷めかけた紅茶をすすった。
心の中で、見知らぬ先輩に深くお詫びを申し上げる。六股などと言って大変失礼いたしました。
ただ無闇にお顔がよろしいだけでしたのね。
そして、この日を境に、わたくしの世界は一変していく。
翌朝、学園の正門をくぐった瞬間、思わず足を止めた。
糸が、そこらじゅうにあったのだ。
登校してくる生徒たちの手から、赤い糸があちこちへ伸びている。
まっすぐ一本だけ伸びている糸。
何本もの糸を束ねて受け止めている手。
行き場を探すようにふわふわ揺れる、今にも消えそうな淡い糸。
糸と糸が朝の光の中で交差して、中庭全体がまるで刺繍の下絵のように。
加護が、また一段と馴染んだらしい。
「目が回りそうだわ……」
けれど数日も経つと、わたくしはすっかりこの光景に慣れてしまったというか――ありていに言えば、少し楽しくなってしまった。
何しろ、学園中の恋模様が丸見えなのである。
たとえば、廊下で毎朝すれ違う男子生徒と女子生徒。
二人は顔を合わせてもろくに挨拶すらしないのに、互いの左手からは淡い糸がしっかりと伸びて、相手の右手へ結ばれている。両片思いだ。殿下とリリアーナの縮小版を見ているようで、思わず頬が緩む。
図書室の司書見習いの青年は、毎日同じ時間に本を返しに来る女生徒へ、一本の糸を伸ばしている。
彼女のほうからは何も返っていない。片思い。がんばって、と心の中で拳を握る。
食堂でいつも大声で笑っている男子生徒の左手からは、なんと四本もの糸が出ていた。
ただしどれも驚くほど淡くて、細い。翌週には一本消えて、別の一本が新しく生えていた。どうやら惚れっぽいだけらしい。
そして例のユリウス先輩の右手の糸は、さらに一本増えて七本に。
中でもわたくしを一番驚かせたのは、隣のクラスのエドガー・ラングレー様。
子爵家の三男で、誰に対しても物腰が柔らかく、成績も優秀。
困っている人がいれば真っ先に手を貸すような、学園でも指折りの好青年として知られている。
そのエドガー様の左手から、糸が三本出ていた。
ユリウス先輩のときの失敗があるので、わたくしは慎重に確認した。
間違いなく左手だ。三本とも、それぞれ別の女生徒の右手へ伸びている。しかも三本とも、同じくらいしっかりとした赤色だった。
これこそ本物の三股では、と身構えたのだけれど。
観察していると、エドガー様はその三人の誰に対しても、誠実だった。
誰かを特別扱いするわけでもなく、誰かを弄ぶわけでもなく、ただ三人それぞれに、心を込めて優しく接している。そして三人の誰とも、それ以上の関係になろうとはしていない。
どうやら彼は本当に、心の底から三人全員を好きで、そして真剣に悩んでいるらしかった。
「……誠実な、三股」
帳面の端にそう書きつけるけれど、自分でも何を書いているのかわからなくなった。
両片思い。片思い。惚れっぽい人。大勢から好かれている人。誠実に三人を想う人。
恋の形は、本当に人それぞれだった。
儀式の日に「地味」だと嘆いた加護が、いまや学園でいちばん面白い読み物になっているのだ。
殿下とリリアーナの糸を見るたびに痛む胸も、他の人たちの恋模様を眺めている間だけは、少しだけ忘れていられた。
そんなある日の昼休み、食堂でのこと。
わたくしとリリアーナ、殿下、そしてバスティアンの四人で、いつもの席に座っていた。
わたくしはサラダをつつきながら、何気なく食堂の中の糸を眺めるのがすっかり癖になってしまったのだ。
ふと、一本の糸が目に留まった。
淡い、薄紅色の糸。細くて、まだ頼りない。けれど、まっすぐに迷いなく伸びている。
その糸の先は、わたくしの向かいに座るバスティアンの右手だった。
「あら」
小さく声が漏れた。
糸を辿って振り返ると、少し離れた席に、一人のご令嬢。
艶やかな赤毛を豪奢に巻き上げ、きりりとした目元をしている。
確か、コーネル伯爵家のイザベラ様だ。取り巻きのご令嬢方と談笑しながら、時折ちらちらと、こちらのテーブルへ視線を送っている。
正確には、バスティアンのほうへ。
もう一度バスティアンを見た。
当の本人は何も気づかず、黙々と肉料理を口に運んでいる。
右手にはイザベラ様からの淡い糸が一本。左手には、相変わらず何もない。
つまりこの男は、誰のことも好きではない。
それなのに、想われてはいる。
「ふうん……」
フォークを咥えたまま、バスティアンの顔をしげしげと眺める。
黒い髪、灰色の目、すっと通った鼻筋。
言われてみれば、確かに造作は悪くない。仏頂面のせいで台無しになっているだけで。
「……何だ、人の顔をじろじろと」
「いいえ別に」
わたくしはサラダに視線を戻した。
まあ、彼は顔も悪くないものね。
そう思っただけで、それ以上のことは特に何も感じなかった。
イザベラ様も大変ね、あの男は手強いわよ、とほんの少し同情したくらいである。左手に一本も糸のない相手を好きになるなんて、なかなか前途多難だ。
食事を終え、バスティアンの右手の糸のことは、すぐに頭の隅へ追いやってしまった。
その日の放課後のことだった。
刺繍室で道具を片付けていると、同じクラスのクラリス・メイフィールドが、おずおずと近づいてきた。
子爵家のご令嬢で、控えめだけれど笑顔の可愛らしい子だ。去年から、幼馴染の男爵家の令息と婚約していると聞いている。
「オデット様……少し、よろしいかしら」
「ええ、どうなさったの?」
クラリスは周囲に誰もいないのを確かめてから、両手をぎゅっと胸の前で握りしめるその瞳が、かすかに潤んでいる。
「ねえ……婚約者が、浮気している気がするの」
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