第六話 両片思いは真っ赤になる
失恋を自覚した翌日から、わたくしは殿下とリリアーナを観察することにした。
諦めるためではない。むしろ逆である。
殿下の糸がリリアーナへ向いているのは、あくまで「今は」の話だ。ならば、その糸がどれほど確かなものなのか、揺らぐ隙はないのか、自分の目で確かめておくべきだと思った。
敵を知り己を知れば、と兵法書にも書いてある。親友を敵と呼ぶのは気が引けるけれど、恋においては仕方がない。
……そう自分に言い聞かせて始めた観察だったのだけれど。
三日も経たないうちに、早くも心が折れかけていた。
酷いのである。何がと言えば殿下が。
たとえば、ある日の休み時間のこと。
リリアーナが、隣のクラスの男子生徒に呼び止められた。図書室で借りた本の続きを彼女が先に借りていたらしく、読み終わったら回してほしい、というだけの、ごくありふれた会話。
「ええ、もちろん」
リリアーナはいつものように柔らかく微笑んで、頷いていた。
その間、教室の窓際で、殿下の手が止まっていた。
羽ペンを持ったまま、課題の帳面に視線を落としたまま、ぴたりと。表情はいつもと変わらない。眉ひとつ動いていない。
けれど幼い頃から殿下を見てきたわたくしには、わかってしまった。あれは、機嫌が悪いときの殿下の顔だ。
男子生徒が去ったあと、リリアーナが席に戻ってくる。
「何の話だったんだ」
「本の話ですわ。続きを読みたいとおっしゃって」
「……そうか」
それだけで、殿下の手はまた動きはじめた。
殿下は顔も上げずに、何気ないふうを装っているけれど、声がほんの少しだけ低い。
自分の席で、額を押さえた。
気づいていなかったのだ。今まで、こんなにわかりやすいものに、まったく。
もちろん逆もあった。
昼休み、殿下が廊下で数人のご令嬢に囲まれていたときのこと。
王太子殿下がご令嬢方に話しかけられるのは、学園では毎日の風景と言っていい。
殿下も慣れたもので、如才なく笑顔で応じていた。
その少し離れたところを、リリアーナが通りかかると、殿下のほうをちらりと見て、それから何事もなかったように歩き去った。ほんの一瞬、ほんのわずかに寂しそうな顔をして。
「どうかしたの」
「なんでもないわ」
その笑顔がいつもより少しだけ薄くて、それ以上何も言えなかった。
お互いがお互いを想っていて、お互いにそれを隠している。
これではまるで、見ているこちらが焦れったくなるほどの、両片思いではないか。
そして、決定的な出来事が起きたのは、その週の終わりの薬草学の授業。
班ごとに薬草を摘んで分類するという課題で、わたくしと殿下とリリアーナ、それにバスティアンの四人は、いつものように同じ班になった。
温室の中で、それぞれが手分けして薬草を集めていく。
月光草の葉を数えていると、少し離れた棚の前で、殿下とリリアーナが同じ鉢に手を伸ばした。
指先が、触れた。
ほんの一瞬のことだった。
「悪い」
「い、いえ」
二人ともすぐに手を引っ込めて、リリアーナが俯いた。それだけの、どこにでもある小さな事故。
けれど、わたくしは見てしまった。
二人の間を結ぶ二本の糸が、その瞬間ぱっと色を変えたのを。
それまでの糸は、落ち着いた赤だった。わたくしの糸とほとんど変わらない、少しくすんだ薔薇のような色。
それが指先の触れ合った刹那、まるで白い絹を真紅の染料にひたしたように、鮮やかな赤へと染まったのだ。
殿下からリリアーナへ伸びる糸も。
リリアーナから殿下へ伸びる糸も。
どちらも、目が眩むほどに赤かった。
それはもう、キラキラと銀糸を混ぜ込んだように。
月光草を持ったまま、呆然とそれを見つめた。
糸には、濃さがある。
ただ「ある」か「ない」かだけではないのだ。
想いの強さによって、色が変わる。今この瞬間、二人の想いはあれほどまでに強く燃え上がったということだ。
それから、殿下の顔を見た。
頬が、赤かった。
目を逸らしながら、困ったように首の後ろを掻いている。
口元が緩みそうになるのを、必死に堪えているのがわかる。いつも堂々として、誰に対しても余裕のある笑顔を向ける殿下が、まるで十歳の男の子のような顔をしていた。
十年以上も隣にいたのに、わたくしは一度も殿下のあんな顔を見たことがなかった。
「……あんな顔、わたくしにはしたことないじゃない……」
呟いてから、はっと口を押さえる。
幸い、誰にも聞こえていなかったらしい。殿下とリリアーナはぎこちなく作業に戻り、二人を結ぶ糸はゆっくりと元の落ち着いた赤へ戻っていった。
わたくしは自分の左手に目を落とした。
殿下へ伸びるわたくしの糸は、何度見ても少しも色を変えることはなかった。
放課後、学園の東屋でぼんやりと座っていた。
帰りの馬車を待たせているのはわかっていたけれど、どうにも立ち上がる気になれない。
池の水面に夕陽が映って、金色にきらきらと揺れている。綺麗だなと思う。思うだけで、心はちっとも動かない。
足音がして、隣に誰かが腰を下ろした。
見なくてもわかる。こういうとき、決まって隣に来るのは一人しかいない。
「ほら」
目の前に、小さな紙包みと、蓋付きの陶器の器が差し出された。
紙包みの中身は、王都の菓子店のレモンのマドレーヌ。
器の中身は、わたくしの好きな蜂蜜入りの紅茶。いつものやつだ。
バスティアンは昔から、わたくしが落ち込んでいるときには必ずこれを持ってくる。
どこで落ち込んでいるのを嗅ぎつけるのか知らないけれど、試験の点が悪かったときも、礼儀作法の先生に叱られたときも、飼っていた小鳥が死んでしまったときも、気づけば隣でこの紙包みを差し出していた。
「……ありがとう」
わたくしは当たり前のようにそれを受け取り、マドレーヌをひと口かじった。
甘酸っぱい味が口の中に広がって、ほんの少しだけ、胸の穴が埋まった気がする。
バスティアンは何も聞かなかった。
どうしたのかとも、何があったのかとも。ただ隣に座って、同じように池を眺めている。
沈黙が気まずくないのは、たぶん付き合いが長いせいだ。
紅茶を飲みながら、横目で彼を見た。
バスティアンの両手にも、赤い糸は見えない。この男に好きな相手がいるなんて想像もつかないし、この仏頂面を好きになる奇特なご令嬢がいるとも思えない。ある意味、わたくしと同類である。
そう思ったら少しだけ可笑しくなって、小さく笑った。
「何だ」
「いいえ。あなたも大概、恋愛には縁がなさそうだと思って」
「……余計なお世話だ」
バスティアンがむすっとした顔になるのを見て、もう一度笑った。
そのときだった。
東屋の前の小道を、一人の男子生徒が通り過ぎていく。
背が高く、蜂蜜色の髪を後ろで一つに結んでいる。
目鼻立ちがはっと人目を引くほど整っていて、制服の着こなしもどこか洒脱だった。上級生だろうか。見覚えのない顔だ。
何気なく目で追って、固まった。
彼の右手に、赤い糸が結ばれている。
それも、一本ではない。
二本、三本、四本――薬指にぐるぐると絡みつくように、四方八方から伸びてきた糸が、束になって結ばれていた。
殿下とリリアーナ以外の人の糸が見えるのは、これが初めてのこと。
いつの間にか、加護がまた少し馴染んでいたらしい。けれど今のわたくしには、そんなことを気にしている余裕はなかった。
目を凝らして、数え続ける。
五本。……六本。
「六本!?」
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