第五話 わたくしだけ、一方通行
殿下の左手から、リリアーナの右手へ。
その糸を見つめたまま、わたくしはしばらく教室の入り口に立ち尽くしていた。
「オデット、邪魔だ」
背後からバスティアンの声がして、のろのろと道を空ける。
バスティアンは何か言いたげにこちらを一瞥したけれど、結局何も言わずに自分の席へ向かっていく。
わたくしも自分の席に着いた。
鞄を置き、教科書を出し、背筋を伸ばす。体は勝手にいつも通りの動きをしてくれるのに、頭の中だけが真っ白だった。
殿下の糸が、リリアーナへ伸びている。
わたくしではなく。
「……落ち着きなさい、オデット」
小さく自分に言い聞かせる。まだ何もわかっていない。そもそもこの糸が本当に「運命の赤い糸」なのかどうかさえ、わたくしは確かめたわけではないのだ。
一人に何本も結ばれる運命の糸なんて、聞いたことがない。
ならば、きちんと調べるべきだ。
アーデンフェルト公爵家の娘たるもの、取り乱すのは事実を確かめてからでも遅くはない。
帳面の新しい頁を開き、一限目の授業が始まるのと同時に、ペンを走らせはじめた。
まず、三人の名前を書く。
わたくし。殿下。リリアーナ。
それから、今見えている糸を一本ずつ矢印にしていく。
わたくしの左手から、殿下の右手へ。
リリアーナの左手から、殿下の右手へ。
殿下の左手から、リリアーナの右手へ。
三本の矢印を書き終えて、わたくしはペン先を止めた。
じっと図を眺める。
左手から出て、右手へ入る。
どの糸も、例外なくそうなっている。逆向きのものは一本もない。
出ていく手と、入ってくる手が、きちんと決まっているのだ。
では、左手から出ている糸は何を意味しているのか。
わたくしの左手の糸は、殿下へ向かっている。わたくしは殿下が好きだ。
リリアーナの左手の糸も、殿下へ向かっている。リリアーナは――この数日の観察が正しければ――殿下が好きだ。
殿下の左手の糸は、リリアーナへ向かっている。
「……何だ、その図は」
横から覗き込んできたバスティアンに、反射的に帳面を腕で隠した。
「刺繍の図案です」
「矢印しかなかったが」
「前衛的な図案ですの。放っておいてくださる?」
バスティアンは疑わしげに眉を寄せたものの、教師がこちらを見たので、それ以上は追及してこなかった。わたくしは胸を撫で下ろし、腕の下の図をもう一度そっと覗き込む。
左手から出る糸は、「自分が好きな相手」へ向かう。
右手に入る糸は、「自分を好きな相手」から届く。
そう考えれば、すべて辻褄が合ってしまう。
一人の右手に何本も糸が結ばれていたのも当然だ。好かれる相手が一人とは限らないのだから。
わたくしの糸だけが先に見えたのも、きっとわたくし自身の想いだったからだろう。加護が馴染むにつれて、少しずつ見える範囲が広がっているのかもしれない。
これは、運命の二人を結ぶ一本の糸などではない。
恋心そのものだ。
誰かを好きだという気持ちが、そのまま赤い糸になって、相手へ伸びている。
わたくしはもう一度、三本の矢印を見た。
わたくしから、殿下へ。
リリアーナから、殿下へ。殿下から、リリアーナへ。
リリアーナと殿下の間には、行きと帰りの二本の糸がある。お互いがお互いを想っている、ということだ。
そして、わたくしと殿下の間には。
一本しかない。
「……わたくしだけ、一方通行では?」
口の中で呟いた言葉は、誰にも聞こえなかったと思う。
教師が黒板に何か書いている。窓の外で鳥が鳴いている。前の席の男子生徒があくびを噛み殺している。
いつも通りの、ごく平凡な午前の教室。
その中で、わたくしだけが、たった今、失恋していた。
昼休み、わたくしは誰にも声をかけずに教室を抜け出した。
リリアーナが「一緒にお昼を」と言いかけたのが聞こえたけれど、「少し用事がありますの」と笑ってかわした。
今の顔で、彼女の隣に座れる自信がなかった。
向かったのは、学園の裏手にある古い温室。
季節外れの今はほとんど誰も来ない場所で、幼い頃から、泣きたいときや一人になりたいときはいつもここに来ていた。
錆びたベンチに腰を下ろし、左手を膝の上に置く。
赤い糸は、今も変わらず、校舎のほうへ伸びている。殿下のいる場所へ。
わたくしの一方的な想いが、こんなにもはっきりと、こんなにも綺麗な赤色で、目に見えてしまっている。
思えば、殿下を好きになったのはいつだったろう。
七つか、八つの頃だったと思う。王宮の庭で迷子になって泣いていたわたくしを、殿下が見つけて手を引いてくれた。
「泣くな、公爵家の娘だろう」
なんて偉そうなことを言いながら、殿下のほうも道がわからなくて、結局二人で迷子になって、大人たちに大目玉を食らったのだ。
あの日からずっと、わたくしは殿下の背中を追いかけてきた。
刺繍を頑張ったのも、いつか殿下に贈り物をしたかったから。礼儀作法の先生に叱られても耐えたのも、殿下の隣に立って恥ずかしくない令嬢になりたかったから。
それなのに、殿下の糸は最初から――少なくとも、わたくしに見える限りは――リリアーナへ向かっていた。
不思議と、涙は出なかった。
悲しくないわけではない。
胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたようで、息をするたびにそこへ冷たい風が吹き込んでくる。
けれど泣いてしまうには、あまりにもあっけなさすぎた。誰かに振られたわけでも、何かを告げられたわけでもない。ただ、赤い糸を見ただけ。
失恋というのは、もっと劇的なものだと思っていた。
「……地味ですわね、わたくしの加護は」
儀式の日と同じことを呟いて、わたくしは小さく笑った。
自分の右手に目を落とす。
薬指には、やっぱり何もない。
殿下の右手には二本も結ばれているのに、わたくしの右手には一本もない。
わたくしを好いてくれている人は、今のところ誰もいないらしい。
……それについては、今は考えないことにした。一度に受け止めるには、少々荷が重すぎる。
温室のガラス越しに、午後の日差しが斜めに差し込んでくる。そろそろ昼休みも終わる頃。
重い腰を持ち上げるように立ち上がり、制服の裾を払う。
それから、もう一度だけ左手を持ち上げた。
赤い糸は、相変わらず殿下のほうへ伸びている。消えてもいないし、色が褪せてもいない。
わたくしの想いは、まだちゃんとここにある。
殿下の糸は、きっと変わることなくリリアーナへ向かっている。
今は。
「……今は、でしょう?」
誰に言うでもなく、わたくしは呟いた。
糸はある日突然、わたくしの指に現れた。
殿下の左手の糸だって、つい先日まではどこにもなかったのだ。それなら、これから先に新しい糸が生まれることだって、きっとある。
「想いが永遠に変わらないなんて、誰が決めたの?」
わたくしは右手を伸ばし、左手の糸に触れようとした。
指先は相変わらず何の手応えもなく、するりと赤い糸をすり抜けてしまう。掴むことも、手繰り寄せることもできない。
それでも、わたくしはその糸から目を離さなかった。
「いつか殿下からも、わたくしへ伸びるかもしれないもの」
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