第四話 殿下から伸びる糸
しばらく何も言えなかった。
「オデット?」
「……いいえ。あなたを探していたの。先日お借りしたハンカチを、まだお返ししていなかったでしょう」
「そんなの、いつでもよかったのに」
とっさに出た言い訳は、我ながらよくできていたと思う。
わたくしはリリアーナの隣に腰を下ろして、始業の鐘が鳴るまで他愛のない話をした。
運命の赤い糸が、二本。
殿下の右手に、わたくしとリリアーナ。
この時、何を話したのかはほとんど覚えていない。
その日の午後、授業の内容をまったく頭に入れられないまま、ひたすら同じ問いを繰り返していた。
運命の相手が、二人いるということなのだろうか。
それとも、どちらか一方だけが本物で、もう一方は間違いなのか。
だとしたら、どちらが本物なのか。わたくしの糸のほうが先に見えたのだから、わたくしのほうが先――いえ、先に見えたのはわたくしが糸を見られるようになったのが先だっただけで、リリアーナの糸がいつからあったのかは、わからない。
考えれば考えるほど、糸が絡まっていくようだった。
ただ一つ、はっきりしていることがある。
あれは、リリアーナの糸だということ。
それからの数日、わたくしは親友を観察した。
親友を観察する、というのは、あまり褒められた行いではないと自分でも思う。
けれど一度気になってしまったものは仕方がない。
そして観察してみると、それは驚くほど簡単に見えてきた。
昼食の席で、殿下がリリアーナに「それは美味そうだな」と声をかける。
たったそれだけで、リリアーナはフォークを取り落としそうになる。慌てて「え、ええ、料理長のおすすめで」と答えながら、視線は殿下の顔ではなく、その少し横の空中をさまよっている。
廊下ですれ違えば、リリアーナはほんの半歩だけ道を空ける。
殿下が振り返って話しかければ、耳の先がほんのりと赤くなる。わたくしが殿下と話していると、少し離れたところで、困ったように微笑みながら待っている。
全部、前から知っていた光景。
十歳の頃のお茶会で、殿下が隣に座った途端、リリアーナが紅茶のカップをひっくり返したことがある。
あのときわたくしは、「王太子殿下の隣だもの、緊張するのは当然よね」と彼女を慰めた。
十三歳の頃、殿下の誕生日の贈り物を選ぶのに、リリアーナは一週間も悩んでいた。
わたくしは「真面目なのね」と笑った。
そのどれもが、糸を知った今では、まったく違う意味を持って見える。
リリアーナは、殿下が好きなのだ。
きっと、ずっと前から。
「ねえ、オデット」
ある日の放課後、二人で刺繍室に残っていたとき、リリアーナがぽつりと言った。
「あなたと殿下って、本当にお似合いよね」
針を持つ手が、止まった。
顔を上げると、リリアーナは自分の刺繍枠に目を落としたまま、穏やかに微笑んでいた。
いつもと同じ、優しい笑顔。けれどその口元が、ほんの少しだけ強張っているように見える。
「……どうして急に、そんなことを?」
「急じゃないわ。昔からそう思っていたの。殿下はオデットといるとき、とても楽しそうだもの」
そう言って、リリアーナは一針、丁寧に布へ糸を通す。
左手の薬指から伸びる赤い糸が、その動きに合わせて小さく揺れる。
言葉が何も出てこない。
言えるはずがない。
「あなたも殿下が好きなのでしょう」なんて。
この糸のことを話せない以上、わたくしが彼女の気持ちを知っているのはおかしいのだ。
それに、もし口にしてしまったら、リリアーナはきっと困った顔で笑って、「そんなことないわ」と言うだろう。わたくしのために。
胸の奥が、針で刺されたようにちくりと痛む。
親友に対する申し訳なさと、それでも殿下を譲りたくないという気持ちが、ぐちゃぐちゃに絡み合う。
どちらが正しいのか、わたくしにはわからない。
その夜、寝台の上で左手をかざし、じっと考えた。
殿下の右手には、糸が二本。
わたくしのものと、リリアーナのもの。
では、殿下ご自身は?
思い返してみれば、殿下の左手からは、まだ一本の糸も見えていない。
殿下からどこかへ伸びていく糸は、わたくしにもリリアーナにも、どこにもない。
つまり。
「……まだ、勝負は決まっていない、ということですわよね」
声に出して言ってみると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
リリアーナのことは大好き。
でも、それとこれとは別の話。わたくしだって、殿下のことをずっと想ってきたのだ。
運命の糸がどちらを選ぶのか、まだ決まっていないのなら――せめて、選ばれる努力くらいはしてもいいはずではなかろうか。
わたくしは左手をぎゅっと握りしめ、布団の中へ潜り込んだ。
それから数日が過ぎた、朝のこと。
教室に入ると、いつものように殿下の右手を確認した。
糸は二本。変わらない。
ほっとして視線を上げ、そして。
殿下の、左手が目に入った。
その薬指から、一本の赤い糸が伸びていた。
心臓が、大きく跳ねる。
とうとう、殿下の糸が現れた。殿下から伸びる、運命の糸。
祈るような気持ちで、その糸の先を目で追うと、糸は殿下の机を離れ教室の中をゆるやかに横切っていく。
わたくしの席の前を――通り過ぎて。
その先。窓際の、ひとつ後ろの席。
教科書を広げていたリリアーナの、右手の薬指へと、静かに結ばれていた。
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