第三話 運命の相手が二人?
幼い頃、乳母に読んでもらった東方の古いお話。
結ばれる運命にある男女は、目に見えない赤い糸で小指と小指が繋がっているのだという。お話では小指だったけれど、そんな細かいことはどうでもいい。
薬指のほうがよほど相応しいではないか。何しろ結婚指輪をはめる指なのだから。
「これが噂に聞く、運命の赤い糸なのでは!?」
「何がだ」
「ひゃあっ!?」
真後ろから声をかけられて、淑女にあるまじき悲鳴を上げてしまう。
振り向くと、バスティアンが鞄を片手に、怪訝な顔でわたくしを見下ろしていた。
「な、なんでもありませんわ。独り言です」
「扉の陰に張り付いて、殿下を覗きながら独り言か」
「覗いてなどいません。観察していたのです」
「それを覗くと言うんだ」
もっともな指摘だったけれど、今のわたくしにはそんなことに構っている余裕がなかった。
咳払いをひとつして、何食わぬ顔で教室へ入る。
窓際の殿下がこちらに気づき、ひらりと手を振った。
右手で。
赤い糸の結ばれた、その右手で。
「おはよう、オデット。今朝は早いな」
「お、おはようございます、殿下」
声が上ずった。落ち着きなさい、オデット・アーデンフェルト。
公爵令嬢たるもの、運命の相手を前にしても取り乱してはいけません。
……運命の相手。
自分で思った言葉に、顔が熱くなる。
それからの一日は、ほとんど夢の中にいるようだった。
授業中、殿下が教科書を忘れたと言ってわたくしのほうへ身を乗り出せば、「数ある生徒の中からわたくしを頼ってくださった」と胸が高鳴った。
昼休み、殿下が「昨日の羊、もう一度見せてくれないか」と言えば、「わたくしの加護に興味を持ってくださっている」と舞い上がった。
極めつけは、午後の休み時間。
「お前といると、本当に退屈しないな」
何の話の流れだったのかはもう覚えていない。
けれど殿下は確かに、わたくしを見てそう言って笑ったのだ。
退屈しない。
つまり、一緒にいて楽しい。つまり、ずっと一緒にいたい。つまり――
「オデット、また変な顔をしてる」
リリアーナにそっと袖を引かれて、わたくしははっと我に返った。
「変な顔なんてしていませんわ」
「ふふ。何かいいことがあったのね」
リリアーナは柔らかく微笑んで、それからちらりと殿下のほうへ視線を向けた。
けれどすぐに目を伏せて、手元の本に視線を落としてしまう。少しだけ頬が赤いように見えたのは、窓から差し込む西日のせいだろう。
わたくしは左手をそっと膝の上で握った。
糸は相変わらず、殿下の右手へまっすぐ伸びている。
見えるのはわたくしだけ。つまり、この秘密を知っているのも、わたくしだけ。
糸の加護。
地味だなんて言って、本当にごめんなさい。
これはきっと、運命の相手を教えてくれる、とても素晴らしい加護だったのだ。
「……お前、今日は気持ち悪いくらい機嫌がいいな」
帰り支度をしていると、隣の席のバスティアンがぼそりと言った。
「気持ち悪いとは失礼ですわね。淑女に向かって」
「一日中にやけてた」
「にやけてなどいません。微笑んでいたのです」
「何かあったのか」
灰色の目が、じっとこちらを見ている。
いつものぶっきらぼうな口調なのに、ほんの少しだけ探るような響きがあった。
わたくしはつんと顔を背けた。
「教えて差し上げません」
「……そうか」
バスティアンはそれ以上何も聞かず、自分の鞄を肩にかけた。
あっさり引き下がられると、それはそれで少しつまらない。けれど、こればかりは誰にも言うつもりはなかった。リリアーナにも、もちろん殿下本人にも。
だって、運命の赤い糸なのだ。
いつか殿下がわたくしを選んでくださる日まで、この糸は、わたくしだけの宝物にしておきたかった。
それから数日、わたくしは毎朝目覚めるたびに左手を確認し、糸がまだそこにあることに安堵し、学園へ行っては殿下の右手に結ばれた糸を見てこっそり頬を緩める――という、我ながら大変に幸せな日々を過ごした。
そして、ある日の朝。
いつものように教室へ入り、窓際の殿下に挨拶をしようとして、わたくしは足を止めた。
殿下の右手。その薬指。
わたくしから伸びた赤い糸が、変わらずそこに結ばれている。
けれど、その隣に。
見覚えのない、もう一本の赤い糸が結ばれていた。
二本目の糸は、わたくしのものとまったく同じ色をしていた。
細く、赤く、殿下の右手の薬指にぐるりと一巻きして、わたくしの糸と寄り添うように並んでいる。
まるで最初からそこにあったような顔をして。
「オデット?入らないのか」
殿下に声をかけられて、わたくしは慌てて笑顔を作った。
「い、いえ。少し考え事をしておりましたの。おはようございます、殿下」
「ああ、おはよう」
いつも通りの殿下。
いつも通りの声で、いつも通りの笑顔で、けれど右手には赤い糸が二本。
席に着いてからも、わたくしの目は殿下の右手から離れなかった。
念のため教室を見回してみたけれど、他の生徒の手には何も見えない。バスティアンの手にも、前の席の男子生徒の手にも。見えるのは、わたくしの糸と、殿下の右手に結ばれたもう一本だけだ。
では、あの二本目はどこから来ているのか。
一限目の間じゅう、わたくしは板書を写すふりをしながら、その糸の行方を目で追う。
糸は殿下の右手から教室の後方へ伸び、開いた扉を抜けて、廊下のほうへと消えている。今は教室にいない誰か、ということになる。
休み時間を告げる鐘が鳴るのと同時に、席を立つ。
「どこへ行く」
「お花を摘みに参りますの」
バスティアンの問いを淑女の常套句でかわし、廊下へ出る。
糸を辿るのは二度目だから、もう慣れたもの。
人の間をすり抜ける赤い糸を追って、階段を下り渡り廊下を渡ると、糸はやがて中庭に面した図書室の中へと入っていった。
静かな室内に、午前の柔らかな光が満ちている。
本棚の間を抜け、閲覧用の机が並ぶ一角へ糸はまっすぐ、窓際の席に座る一人の女生徒へと続いていた。
亜麻色の髪を、ゆるく編んだ後ろ姿。
見間違えるはずがなかった。
「……リリアーナ」
思わず漏れた声に、彼女が振り返る。
「あら、オデット。どうしたの、こんなところで」
リリアーナは読んでいた本を閉じ、いつものようにふわりと微笑む。
その左手の薬指から、赤い糸がまっすぐに伸びている。
わたくしの足元を通り過ぎ、図書室の扉を抜けて、殿下のいる教室の方角へ。
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