第二話 赤い糸の行き先
確かに刺繍が得意である。
幼い頃から針を持つのが好きで、公爵家の紋章から季節の花まで、一通りのものは刺せる自信がある。
けれど、それとこれとは話が別だ。
公爵家の娘の加護が、羊。しかも糸。お母様にどう報告すればいいのか、今からもう頭が痛い。
「くっ……ははっ」
堪えきれないというような笑い声がして振り向くと、殿下が口元を押さえて肩を震わせていた。
「で、殿下!」
「いや、悪い。悪いとは思っている。ただ――お前らしい加護じゃないか」
目尻に涙まで浮かべて笑う殿下に、わたくしは頬を膨らませた。
けれど困ったことに、そんなふうに屈託なく笑う殿下の顔を見ていると、怒りよりも先に「笑ってくださったなら、まあいいか」という気持ちが湧いてきてしまう。我ながら単純すぎて情けない。
そんなやり取りをしていると、わたくしと羊の間に、バスティアンがすっとしゃがみ込んでいた。
彼は興味深そうに羊を眺め、白い毛並みへ手を伸ばす。珍しいこともあるものだ。バスティアンが何かを面白がっている顔なんて、そうそう見られるものではない。
ところが羊は、その手が触れる寸前にぴょんと跳ねて、わたくしのスカートの後ろへ逃げ込んでしまった。
「…………」
伸ばした手をそのままに、バスティアンが固まる。
「嫌われましたわね」
「……何もしていない」
「日頃の行いですわ」
胸を張って言うと、バスティアンはなんとも言えない顔でこちらを見上げ、それから小さく息を吐いて立ち上がった。
彼の足元にいる白い狼が、心なしか気の毒そうに主人を見ている。
「可愛いわ、オデット。とっても」
リリアーナが駆け寄ってきて、スカートの陰から顔を覗かせている羊に目を細めた。
親友の優しさが、今は少しだけ胸に沁みる。
儀式が終わると、精霊たちは光の粒になって、それぞれの主の中へと還っていく。
羊も最後に一度「めぇ」と鳴いて、わたくしの胸元にすうっと溶けていった。
その日の放課後、わたくしは自室で刺繍枠を手に取った。
糸の精霊の加護というからには、何か変化があるかもしれない。
そう思って、刺しかけだったハンカチを広げる。白い麻布の隅に、王家の紋章である百合を刺している途中のものだ。いつか殿下にお渡しできたら、と思いながら、もう何週間も少しずつ進めている。
針に絹糸を通し、布に刺す。
すっと、引っかかりなく糸が通った。
もう一針。
やはり滑らかだ。糸がよれることも、絡まることもない。
まるで糸のほうから、行きたい場所へ進んでくれているような気さえする。
……気がする、のだけれど。
「……よく、わかりませんわね」
針を止めて首を傾げた。
もともと糸が絡まることなんて滅多にないし、針運びに困った覚えもない。以前より扱いやすい気はするけれど、それが加護のおかげなのか、今日の絹糸の質がいいだけなのか、正直まったく判別がつかなかった。
水の精霊は癒やしの力を授けるという。炎の精霊は魔力そのものを底上げする。風の精霊は遠くの声を運ぶ。
そしてわたくしの羊は、刺繍が少しだけ上手くなる、かもしれない。
「地味ですわ……」
呟いた声は、誰もいない部屋に吸い込まれていく。
それでも、殿下が笑ってくださったことを思い出すと、不思議と悪い気分ではなかった。
ハンカチの百合を指でなぞり、その夜はいつもより少しだけ早く眠りについた。
翌朝。
侍女に手伝ってもらいながら制服に袖を通していたとき、左手に違和感を覚えた。
視線を落とした先には、左手の薬指。
その付け根から、何か赤いものが伸びていた。
細い、細い、髪の毛ほどの赤。
それは指先からふわりと宙に浮かび、部屋の扉の向こうへどこまでも続いている。
「……糸?」
昨日までは、確かになかったはずの細い赤い糸だった。
「お嬢様?どうかなさいましたか」
背中のリボンを結んでいた侍女が、手を止めて首を傾げた。
わたくしは左手を持ち上げたまま、ぎこちなく振り返る。
「ねぇ、これ見えます?」
「これ、と申しますと」
「わたくしの薬指から、赤いものが伸びているでしょう」
侍女はわたくしの手をじっと見つめ、それから指先、手首、ついでに袖口まで丁寧に確認して、困ったように眉を下げた。
「……申し訳ございません。何も」
「そう、ですわよね」
どうやら、見えているのは自分だけらしい。
試しに右手で糸をつまんでみる。指は何の手応えもなく、するりと赤い糸をすり抜けていく。
もう一度。今度は勢いよく掴んでみる。やはり空を切るだけで、糸は何事もなかったように宙に浮かんでいる。
引っ張ることも、払うことも、結ぶこともできない。
そのくせ、目を凝らせばくっきりと見える。薬指の付け根にぐるりと一巻きしてから、まっすぐ扉の向こうへ伸びていく、細く赤い糸。
「お嬢様、まさか昨日の儀式で何か……お医者様をお呼びしましょうか」
「いいえ、大丈夫ですわ。たぶん、加護の影響だと思うの」
心配そうな侍女をなだめながら、内心で首を捻っていた。
糸の精霊の加護で、糸が見える。それ自体は理屈が通っている気がする。
けれど、なぜ赤いのか。なぜ薬指なのか。そして、この糸は一体どこへ続いているのか。
朝食の間も、馬車に揺られている間も、糸はずっとわたくしの指から伸びていた。
馬車が角を曲がれば糸も一緒に向きを変え、窓の外へ、学園の方角へと続いていく。
ここまで来ると、さすがに気になる。
学園に着いたわたくしは、始業までの時間を使って、こっそり糸を辿ってみることにした。
なるべく不自然に見えないよう、ごく普通に廊下を歩いているふりをしながら、視線だけで赤い糸を追いかける。
糸は階段を上り、中庭に面した回廊を抜け、図書室の前を素通りして、さらに先へと伸びていく。すれ違う生徒たちは、誰ひとりとして糸に気づかない。人の体をすり抜けてしまうものだから、ぶつかる心配がないのだけは助かった。
そうして辿り着いたのは、二年生の教室の前。
扉は開いている。中にはまだ数人しか生徒がいない。糸は教室の中へ入り、窓際の席へと向かい――
そこに座る人物の、右手へと繋がっていた。
窓から差し込む朝の光を受けて、金の髪がきらきらと輝いている。
机に頬杖をつき、眠たげに外を眺めているその人は。
アルフレッド殿下だった。
わたくしは、扉の陰で息を止めた。
もう一度、よく見る。
わたくしの左手の薬指から伸びた糸は、教室を横切って、確かに殿下の右手の薬指へと結ばれていた。殿下の指の付け根にも、わたくしと同じように、ぐるりと一巻き。
「……間違いありませんわ……」
左手の薬指と、右手の薬指。赤い糸。わたくしと、殿下。
頭の中で、何かがぱちんと弾けた。
――運命の赤い糸。
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