白銀の王の国③
「なんだ?」
胸元に顔を寄せて見上げる。
彼は、なぜか少し緊張しているようだった。怪訝に問いかけても、口ごもって答えようとしない。夜目にはっきりしないが、心なしか耳もとが赤く色づいている。
「いや、え、と、」
ふところに身を預けた時点で、彼はほとんど反射的に私の背に腕を回していた。それでいてそのまま、硬直したまま身じろぎもしない。
いらないときには無駄にくっついてくるくせに、妙なものだ。焦れったさと同時に、彼相手にめったに感じたことのない優越心を覚えた。では、私は自分で思うほど、彼に翻弄されてばかりいるわけではないらしい、と。
彼の肩と胸とに置いていた手を滑らせて、首の後ろに回した。
リオンは一つ、まばたきをした。腰にまきついた腕が、小さく震える。
「少し、寒いな」
照れ隠しのつもりでそう言ったが、事実でもあった。彼の体温が、ふれたところからじわりと広がって、私は改めて寒さを自覚していた。
「あ……宿に上着、置いてきたから」
彼はあきらかに、何も考えずにそう口走った。
私は笑った。それからのびあがって、彼の唇に唇をつけた。触れ合わせただけだ。乾いた唇同士では、感触の上では手指や頬にするのと大して変わらない。
だがそれを離そうとしたとき、リオンの硬直はようやくとけたようだった。腰を抱く手に力がこもり、そのまま引き寄せられる。
「……っ」
リオンは、右の耳朶を耳飾りごと甘噛みしたかと思うと、おもむろに唇を首筋に移動させた。私はぎゅっと目を閉じた。肩口に埋まった彼の頭を、引き寄せるように抱きしめる。ちう、と音をたてて、彼は首筋をきつく吸った。
襟元に隠れない部位だ。また痕が残ってしまう。叱ってやめさせなければ……頭のどこかで、ほんのごくかすかにそんな考えが浮かんで、すぐにかき消えた。
ひとしきりその周辺にキスを落としてから、彼は再び頭を上げて、唇に唇を重ねた。
どちらも終わるきっかけをつかめず、ずいぶん長い間そうしていた気がする。
それを、前ぶれもなく突然終わらせたのはリオンだった。彼は不意に私の両肩をつかんで、音を立てるほど勢いよく、体ごと唇をもぎ離した。
「リオン……?」
戸惑いに眉を寄せる間もなく、離れたのと同じ勢いで再び胸に抱き込まれる。
「っ、ん……」
意図のつかめないまま、力のぬけた体をぐったりと彼にもたせかけた。
「クリス。……クリス」
彼は耳元で、早口にそう繰り返した。
「うん……」
「宿に戻ろう」
「……うん」
リオンの声は静かだったが、吐息の下に熱く、抑制できない焦燥の響きがあった。
彼は、おそるおそる、けれど自信ありげに、こう続けた。
「クリス、今夜、あんたの部屋に泊まっても……」
私の心も体も、甘い陶酔の淵にいて、そのままリオンの腕にゆだねてしまいたいような心地ではあった。期待に満ちた、そして期待の叶うことを半ば確信した彼の顔を見ていると、喜ばせてやりたいという衝動がわき起こる。衝動に任せるならば、素直に頷いてもよかった。
だが、私は首を横に振った。
「今日はダメだ」
「ええっ? 何で!」
リオンの大げさな驚きように、私の方が怯んでしまった。
「何で、って」
思わず口ごもりながら、しかしきっぱりと繰り返す。
「だめなものはだめだ」
「ひどいですよ、こんだけ誘っておいて! 責任とってくださ、」
「いいなんて一言も言ってない」
彼の云いたいことはよくわかっていた。戯れのくちづけとは違った。その先の行為につながる……行為の一部そのものと言ってもよいキスだったと思う。
煽るようなまねをした自覚はちゃんとあった。罪悪感にかられて、私は目をそらしながら、抱きつく腕をほどいた。
「わかったら、宿に戻ろう」
彼の肩を押して、体を離そうと試みる。が、リオンは腰に回した手を外そうとはしなかった。
「リオン」
軽くとがめる口調で呼ぶと、彼はますます腕に力をこめた。
「……納得いきません」
「納得?」
何を言っているのか、と眉をひそめる。するとリオンは、おもむろに私の肩をつかみ、持ち上げるようにどさりと押し倒した。
「う、わっ! 何を……っ」
上にのしかかってくる。抗議も聞かず、彼はそのまま胸元に顔を伏せた。抵抗するべく手首を掴むが、彼は気にもとめずにこう囁いた。
「大丈夫、誰もいないから……」
「そんなこと言ってるんじゃない! いいからやめろ。やめないと……」
「やめないと?」
リオンの口調には余裕があった。私が本気で拒んでいるのではないとでも思っているのだ。
倒されたときにとっさに曲げていた足を抜き、手首を掴んだままの彼の上腕にかけた。蹴り飛ばしてもよかったが、多少哀れと思ったのでやめた。ぽかんとする彼にかまわず、関節を極めたままごろりと横に寝転がる。
力をこめてやるまでもなくリオンの体が浮き、彼は仰向きになって逆側に転がった。
「いててててて!」
腕をねじられ、リオンは情けない悲鳴を上げた。私も鬼ではないので、すぐに放してやった。事の発端には少々責任もある。
立ち上がりながら、寝転んだままのリオンに言った。
「だからやめろと言ったんだ」
リオンは答えない。口をとがらせ、傷ついたような表情で天を仰いでいる。
「そんな顔をしてもムダだからな……本当に」
わざわざ念を押したのは、その『傷ついたような表情』のせいだ。流されまいと、自分自身に言い聞かせたのである。
「風邪をひくぞ」
距離をとってから、再び声をかける。だが、リオンはやはり無言のままだ。
最近よく感じるようになった、理不尽な罪悪感にさいなまれながらも、私は彼に背を向けた。
「……勝手にしろ。私は帰る」
宿に戻って半刻ほど経ってから、隣室に入る物音が聞こえた。リオンだ。さすがに寒空の下で夜明かしする気にはなれなかったのだろう。
※※※
夜も更けて、床につこうかと思ったところで、ドアをノックする音がした。
懲りもせずに、と呆れた。だが、追い返す前にノックの主が名乗ったので、私は首をかしげながらも、ドアを開けてやった。
「レネー? どうした」
部屋の前に立っていたのは、レネーだった。
「ちょっといい?」
そう言って、返事を待たず少年はドアの間から身を滑り込ませてきた。追い出す理由も思いつかず、まあいいかと私はドアを閉めた。
振り返って相対した少年の、目線の高さがほとんど同じであることに突然気づいて、驚きを覚えた。数ヶ月前はもう少し小さかった気がする。リオンもまだ多少そのようだが、成長期なのだろう。
彼は無遠慮に部屋に踏み入ると、ベッドに腰かけた。
「どしたの。リオン、ものっすごい落ち込んでんだけど」
何の用かと訊ねようと口を開いたところで、レネーが言った。
「何か言った? それともした?」
答えられるわけがない。そう思って口をつぐんでいたのだが、レネーはおもむろに肩をすくめてこう言った。
「相手してやればいいのに。別にやじゃないんでしょ?」
「……」
レネーの勘が特別鋭いのか、それとも世間ではよくあることなのか。どちらとも知れないが、彼の口調には疑念一つなかった。
違う、と偽ってまで否定するのも妙な気がして、私はふいと顔をそらした。
「……仕方ないだろう。今日はだめなんだ」
「あー」
レネーは納得したように笑った。それから何かを数えるように指を折るしぐさをした。
「そういやそうだね。今日は一番だめな日だ」
「……」
少年の言葉に、私は顔をしかめてしまった。
「どうしてそんなことがお前にわかるんだ」
「そりゃわかるよ、毎日一緒にいるんだし」
レネーはそう言ってまた肩をすくめた。
「ま、リオンにわかれったって無理だと思うけど。クリスって、何も知らないような顔して、そういうのはけっこうきっちりしてるよね」
冷静に考えると、ずいぶんな言い種だ。憮然とした私を気にもとめず、彼は続けた。
「ま、リオンで物足りなくなったら、いつでもいいなよ。召使いとして、いくらでもご奉仕いたしますから」
「! 何言って、」
「体力バカ相手にしてると飽きるでしょ」
一瞬本気にしてしまって慌てて振り返った私に、からかいまじりに笑いながら、彼は手をひらひらと振った。
「冗談冗談……っても一応、本気にしてくれていいけどね。そのテのことならいつでも訊いてよ」
「馬鹿なことばかり言って……」
どういう反応をするべきかわからず、私はただあきれてそうつぶやくにとどまった。
レネーは、くす、と笑って続けた。
「ウルカがね、全然そういうの気にかけない子なもんだから。おれが気をつけないとさ」
故郷の少女の名を口にするとき、彼は幸福そうに目を細めた。
「ウルカが恋しいか?」
あのカナンでの出来事以降、私はレネーとウルカの絆の一端を知ったような気になっていた。実際にあの夢にどんな意味があったのかはわからない。だがあの夢を通じて二人の関係を、部外者としてではなく、より近しく感じられるようになったのは事実だ。
口をついて出た問いに、レネーはびっくりしたように目をみはった。
「……クリスにそれ訊かれるとは思わなかった」
どういう意味だろうかと首をかしげると、レネーは笑って手を振った。
「悪い意味じゃないよ。前はあんまりそういう気つかわない方だったじゃん」
「悪かったな」
「だーかーらー、悪い意味じゃないってば。良くなったって言ってんの」
気遣いに欠けると指摘されて、自覚はなかったが、よほど怖い顔になっていたのだろう。レネーは慌てて釈明をはじめた。
「もとから優しかったけどさ、」
「無理してほめんでいいというのに」
肩をすくめてそう言う。彼はきょとんとした。
私は苦笑しながら、
「それで?」
と問い直した。
「それでって……ウルカが恋しいかって?」
軽く頷いて見せると、レネーは少し照れたように笑った。
「そりゃ、恋しいよ」
表情ははにかんでいたが、口調には迷いがなかった。
「字、書けるようになったんだってさ。おれが教えても全然覚えなかったのに。今度は手紙送るって。しばらくは、エルゲンにいるんだよね。滞在先決まったら知らせていい?」
「ああもちろん」
賞金稼ぎは移動の間、組合の伝達機構を使って連絡をとりあう。大深度集合樹によるもので、登録された組合員ならば世界中どこの支部でも規定の文字数までのメッセージをやりとりできる。
むろん無料ではないが、立ち寄る町の支部ごとにレネーにも私の登録名で使わせてやっていた。
内容までは聞かなかったが、送れる文章はわずかなものだ。詳しい近況を知らせるのも難しく、物足りない思いをしているのだろうとは思っていた。多少時間はかかっても、手紙を受け取れるのはうれしいだろう。
「そういやさ、どれくらいエルゲンにいる予定なの?」
レネーが思い出したように言った。
「まだわからない。仕事となると準備にも時間がかかるし、そもそも召集の期限はもう少し先だしな。心配しなくても、一月以上はいることになるだろうから、手紙は十分届く」
「いや、そういうことじゃなくって」
彼はなぜか頭痛を覚えたかのように額をおさえた。
「リオンだよ。リオン、どうすんの? さっきそれでもめてたんじゃないの?」
「? 別にもめてない」
私は怪訝に首をかしげた。レネーの前でもめた記憶はない。
「うそだあ、機嫌悪かったよ。リオンが家に帰るって言い出したとき」
レネーは大げさに言った。
「仕事終わってエルゲンから出て行くとき、リオンどうするか話つけてたんじゃないの? 置いてくとかついてくとかさ」
何やら猫の子のような言われようだ。
先刻のリオンとのやりとりを思い出して、私はふいとレネーから顔をそらした。
「……別にもめてない。私の意思とは関係なく、あいつは好きにするそうだ」
彼が私を待って、彼の帰省に私を付き合わせるつもりだ、とはなぜか口にできなかった。人前で言うには気恥ずかしかったからだが、レネーはそれ以上説明を求めてはこなかった。
「ふーん」
彼は少し人の悪い笑みを浮かべていた。
「リオンは好きにするんだ? じゃあクリスは?」
続くレネーの問いかけは、私にとって想定外のものだった。
リオンの答えは私にとってとても都合がよかった。おかげで私は彼に、別れようともついて来いとも言わずに済んだのだ。
自分がどうしたいのか、それ以上考えずに済んだ。
「私は……」




