櫛と耳飾り⑤
「いい加減、機嫌直さない?」
客車に乗り込んでからしばらくたって、レネーは隣席のクリスに声をかけた。
ちなみにリオンは前の座席に見知らぬ人と隣り合って座らされている。
最初のうちは、子供のように後ろ向きに身を乗り出してクリスに話しかけようとしていたが、彼女が宣言の通り一言も口をきかず、目を合わせようともしないので、いい加減に諦めたらしい。今はおとなしいものだ。
「クリスってば」
返事がないので、レネーは再度呼びかけた。
彼女の怒りはもっぱらリオンに向くべきもので、レネーとしては、ここまで邪険にされるいわれはない。言い訳や弁解くらいは、させてくれてもいいじゃないか、というわけである。
『指一本触れるな』はリオンに対しての言葉だが、レネーはそれでもおそるおそる、彼女の腕に触れた。
だが相変わらず反応はない。とはいえ、振り払う様子もないので、レネーは少し勇気をふるって彼女の顔をのぞきこんだ。
そのタイミングで、客車がガタンと大きく揺れた。
「わっ」
ぐらりと傾いて倒れかかってきたクリスの上体を、レネーは反射的に受け止めていた。頭ががっくりと落ちて彼の肩に収まる。
すう、とかすかな寝息が耳に入って、彼はようやくこれまでの無反応のわけを悟った。
「……クリス?寝ちゃった?」
珍しいこともあるものだ。レネーは少し驚いた。
基本的に、彼女は女の一人旅のセオリーはしっかり守っていた。暴力を生計とする者の心構えも同様だ。油断はしない。知らない人間を信用しない。
彼女は上位ランカーであることと同時に、自分が女であること、それも美人であることに自覚的だった。
鍵のかかった宿ではともかく、野宿の際は、レネーとリオンが交代で見張っていても、熟睡することはまずない。物音や異状にはすぐ目を開けるし、寝ぼけたところは決して見せない。
酒も魔薬の類も一切やらず、周囲への注意を怠ることもない。
レネーあたりから見ると、ある意味で隙だらけといえないこともないのだが……それはそれとして、レネーは少し心配になった。
少し、信用しすぎではないのか、と。
レネーを警戒する必要はない。そのことは、彼自身よくわかっている。
だが、リオンはどうだろうか。
リオンが悪人かもしれないと思っているわけではない。彼の人柄は装われたものではないだろう。
だが彼には隠し事がある……と、レネーは考えていた。
彼が何者か、その目的地と人柄以上のことを、二人は知らない。ここまで無警戒になるには、もう少し知っているべきだとレネーは思う。
もっとも、クリスとレネーでは立場が違う。ランクも相手との関係も、判断基準にギャップが生じるのも当然と言える違いだ。
強さにおいて上回り、互いに抱き合うようにもなった。それで彼女の基準はクリアできているのかもしれない。
心配するのも筋違いか、と彼は一人納得した。
肩にかかるささやかな重みが、心地よかった。
さらりと、くせのない黒髪が軽やかに揺れて、彼の頬をくすぐる。そこはかとなく花の香りがした。宿の洗髪剤の香りだなどと、野暮を言うつもりはない。クリスの匂いだ。
「……」
刺すような殺気にさらされて、レネーはため息をついた。
「……席かわってほしいなら、口で言えばいいのに」
「わかってるじゃねえか」
大人しく前を向いていたはずのリオンが、いつの間にか背もたれから身を乗り出してこちらを見ていた。
「起きたとき、どうなっても知らないからね」
「大丈夫、大丈夫」
何が大丈夫なのか知らないが、リオンは実にうれしそうに席を立った。
慎重に、クリスを起こさぬようにレネーと席を替わり、再び落ちてきた彼女の頭を嬉々として胸に抱き寄せる。
一度だけ小さく呻いて目を覚ましかけたが、リオンは慌てず、ぼうっとした表情で彼を見つめる彼女に低く囁いた。
「まだ寝てていいですよ。着いたらちゃんと起こしますから」
あきれるくらいの甘い声音だった。今朝も含めて、何度か漏れ聞いた睦言そのものだ。
豹変ぶりにレネーが半ば感心しているうちに、クリスはこくりと小さく頷くと、すぐにまた眠りに落ちてしまった。
妙な関係だ。
口には出さず、レネーは二人を眺めながらそう考えた。
二人が遠からず、関係を結ぶようになるだろうことはわかっていた。妙齢の男女が寝食を共にしていれば、それは至極自然な流れだ。
レネーがいなければ、もっと早くにそうなっていてもおかしくなかっただろう。実際、彼の邪魔が入らなくなったとたんだ。
もっとも、レネーがいなかったら、もっと早い段階で別れていた可能性もある。
一般にいう恋愛感情が、二人の間にあるとは今でも思えない。
レネーには、いまいち理解できなかった。
互いに二十年と十七年、積極的に望んでではないにせよ、純潔を守り続けてきたわけだ。リオンなど、はっきりとあの『峰』の女たちに抱かれることを拒絶していた。
それが、何がどうなって、受け入れるつもりになれるのか。
彼女ならば、彼ならばよいと、思えるようになる理由。
四六時中一緒にいて、情が移ったと言えばその通りだろう。助けたり助けられたりを重ねて、感謝や貸し借りの感覚が形を変えたのだとも考えられる。
だが、きっとそれだけではない。彼にはそんな気がしてならない。
レネーは無性に、それを知りたいと思った。
目を覚ましたクリスが、自分の状況を見て示した反応は、おおむねレネーの予想通りのものであり、特筆するほどのことではない。
到着した先で、三人は宿場町がにぎわっていた理由を知った。
耳にしたのは、カナンの南に位置する国が、西側の小国に侵攻された、というニュースだった。
異常は、カナン市内にのみあったのではない。
整備された通信網の一部が混乱したのだ。最低限とはいえ、周辺にも影響は出た。
侵攻を受けたのは技術面に後れのある国で、大深度集合樹を利用する通信機構がなかった。
そのためその国は、通信の中継地点としてカナンと提携を結んでいた。しかしカナンの混乱のために同盟国への救援要請が遅れたのである。
侵略は速やかに完了した。




