櫛と耳飾り③
低い、優しい声が、名をささやいた。
「う……ん……」
けだるい眠気に、目が開かない。額にあたたかく、しめった感触。
薄く開いた瞼の合間に、リオンがいた。彼の手が私の髪を額から払う。
私が目覚めたのに気付いたのか、彼は笑った。笑顔が近づいてきて、私は目を閉じた。
唇がこめかみに押しあてられる。
「……くすぐったい」
聞かせるともなくつぶやくと、くす、とリオンの笑う吐息が皮膚を撫でた。
それがまたくすぐったくて、私は寝返りを打って彼に背を向けた。
「クリス」
背後から肩を抱かれる。
「リオン……」
自分でも驚くほど情けない声が出る。昨夜のことを思い出したからだ。
細かなことはあまり覚えていない。
ただ、何度も名前を呼ばれたことと、何度も抱きしめられたことだけは、やけにはっきり記憶に残っていた。
それから――
『もう一回だけ』
耳元で繰り返された声まで。
「……っ」
思い出した途端、顔が熱くなった。私は逃れるように布団へ顔を埋めた。
だが、リオンは簡単には逃がしてくれない。いつの間にか彼の体の下に巻き込まれ、両腕に囲い込まれ、広い胸に押し付けられて……彼以外は何も見えず、感じることもできなくなっていた。
一緒に、と低い声が囁くだけで、心臓が早鐘を打つ。彼と、一緒に……彼の望みを、叶えたくてたまらなくなる。
自分の体が、これほど思い通りにならないものだとは知らなかった。
なぜ理性がこの感覚を拒みたがるのか、わかった気がする。
この世界で強さとは、自分の体をどれだけイメージ通りに制御できるかを示していた。そのための筋力、五感、神経伝達速度だ。
この愉悦は、いとも簡単にその制御を奪う。
生まれながら十三番目にランク付けされ、それだけを頼りに生きてきた私には、この瞬間の自身の無力さが恐ろしいのだ。それを剥ぎ取られたら、私には何ひとつ残らない。
社会の中に私を存在させているのは、今私を抱いている男一人だ。あるのは彼が抱くこの体と、熱く囁く名前だけ。
ランク外の誰よりも無力な、ただの裸の女だ。
ただ、奇妙なことにその自覚は、恐怖ばかりでなく、ある種の心地良さを伴っていた。
とりあえず、リオンの『一回だけ』と『何もしません』はあてにならないということだけは身にしみた。
ようやく全てが終わったあと、ぐったりと力の入らない体をされるまま洗われた。
かしずかれるように丁寧に水気を拭き取られ、服を着させられ、半ば抱きかかえられながら浴室を出る。
部屋には、いつの間に起きたのか、レネーの姿がなかった。
「……あいつ起きたのか」
聞かれたかな、とリオンが首をかしげた。
リオンがさすがに気遣わしげにこちらをうかがうのがわかったが、私は何も言わなかった。
疲労と、焼け付くような心地の余韻に頭がぼうっとしていて、羞恥や腹立ちを覚える余裕がないのだ。小さなテーブルの前に一脚だけ置かれた椅子に座ってこめかみをおさえる。怒られないことに安心してか、リオンが椅子の背後に回った。
「?」
軽く髪を引っ張られる。反射的に振り返ると、リオンはブラシを手ににこにこと笑っていた。
「……何してる」
「見りゃわかるでしょ?」
確かに、一目瞭然だった。……髪をとかしているのだ。
何でまた、とは思ったが、バカな返事が返ってくる気がして口にするのはやめた。
止めろと言われなかったからか、リオンはやたらと上機嫌に仕事を再開した。鼻歌まじりに丁寧にくしけずる。
先刻、髪を洗うときや拭くときも、そういえば妙に楽しそうだった。
自身の髪が色のない、金属質の光沢を帯びた銀色だから、黒髪が珍しく見えるのかもしれない。
彼の髪に触れてみたい衝動は私にもあった。その逆だと思えばおかしくはない。と、実際にリオンがどういうつもりかは知らないまま、私はそう納得した。
好きにさせているうちに、レネーが戻ってきた。
三人前の軽食の乗ったトレイを抱えている。階下の食堂から持って上がってきたらしい。
私たちを見て、彼は一瞬あきれたように眉をひそめた。
なぜそんな表情をされるのかわからず、リオンと顔を見合わせる。しかしレネーは何も言わずにトレイを私の前の小テーブルに置いた。
「どうせ、夕食食ってないんでしょ」
何もかもわかっている顔で、レネーはそう言った。
「チェックアウトまで時間ないからさ。さっさと食って、出る準備しなよ」
言われてみると、もう日が高い。
町に旅行者がごった返す、季節外れの稼ぎ時に、宿の者も少々ぴりぴりしていた。時間通りに部屋を空けてやらなければならない。
レネーがどこまでわかっているのか、ものすごく気になった。何しろいつ帰って来たかもさだかではないのだ。
知らないふりをしてくれているのが、せめてもの救いだった。からかわれてはたまらない。
精算して宿を出ると、空は快晴だった。
カンカン照りの太陽が寝不足の目にまぶしすぎて、少しめまいがした。




