櫛と耳飾り②
カーテンの向こうを、二人分の人影が重なり合いながら横切ったのが見えた。
浴室からベッドの方へ影が消える。
どうやらうまくいったらしい。
カナンからの十日間のうち、宿をとれたのが七日だった。
そのうち、リオンがクリスの部屋を訪ねに行ったのが七回。つまり毎晩。
とぼとぼと帰ってきたのが五回だ。うち三回は頬に真っ赤な手形を残し、二回は、どこを蹴られたのか、よろめきながら帰ってきた。
残り二晩はうまくいったのだろう、朝まで戻って来なかった。替わりに、朝からクリスの方が不機嫌きわまりなかったが。
その二晩目が、もう六日前になる。
盛りのついた十七歳のために、少しばかり気分の高まるお茶を調達してやるくらいは、許されてもいい日数だろう。
なにしろ、初めて同衾した女と、四六時中顔を合わせて、毎晩同じ屋根の下で眠っているのだ。その上彼女は美しく、ふとした拍子にひどく色気のある表情をする。
あきれ顔や仕方なさそうな苦笑いがそれで、意識しない女らしさにレネーでもそそられることがあるくらいだ。
拒むのはクリスの権利だが、そんなものを毎日見せられて焦らされるリオンは、気の毒といえなくもない。
レネーは、クリスが素直になるべきだと思う。
別にとりたてて、リオンの味方をしようというわけではない。同情すべき点もあるとはいえ、普段のリオンの態度を思えば、つっぱねられて悄然とした様子は正直、溜飲が下がる。
だが、リオンの機嫌が悪いときに、子供っぽい八つ当たりを食らうのはレネーだ。
だからレネーのために、クリスはリオンを受け入れてやるべきなのだ。
「坊や、いくらだい?」
不意に声をかけられ、レネーははっと我に返った。
旅行者らしき男だった。まだ若く、見かけも悪くない。値踏みするように彼を眺めている。
「んー……と」
レネーは少し思案した。
どうせ帰ったところでお邪魔虫だ。
同じ部屋で二人が何をしていても、別にレネーは気にしない。が、クリスは気にしてリオンを拒むだろうし、そうなればとばっちりが来るのは目に見えている。
食事と寝床と小遣いが手に入るのは悪くないのだが……
「ごめんね。ご主人様のお使い中なんだ」
レネーは結局、困ったような笑顔を作って断った。
男もしつこく誘っては来なかった。よほど上位ナンバーでなければ、決まった主人持ちに下手な手出しはしないものだ。
あっさり立ち去る男に手を振りながら、レネーは小さくため息をついた。
わけへだてはしないたちなので、単純に比較はできないが、例えば誘ってきたのが扇情的な美女だったとしても、おそらく同じように断っていただろう。
このところめっきり、性欲が減退していた。
否、時期ははっきりしている。カナンでの昏睡の後からだ。
昏睡の原因は不明だったというし、何かしら後遺症が残ったのかもしれない。
今はまだ『減退』で済んでいるが、このまま、十四の身空で不能になりでもしたら……
ろくでもない想像に、レネーは身震いした。
さてどう時間をつぶそうかと思案していると、夜の暗い視界が、不意に明るくなった。
急激な変化に、レネーはめまいを覚えてこめかみをおさえた。
「……?」
初めてではなかった。
最近、妙な夢ばかり見る。
眠っている間ばかりではない。はっきりと覚醒していても突然、白昼夢に切り替わる。
何か、別のものになりきっている夢だ。
竜になっていることが一番多い。尽きない飢えを抱えて森を徘徊することもあれば、羽の生えた竜になって岩間を飛翔する。
あるいは、植物。水を吸い上げ、光を浴びて、成長する、ひたすら静かな充足に浸る。
そして他人。見知らぬ土地の見知らぬ人間となって、その人物の感覚、感情を体感する。
竜になりきるくらいなら、子供が喜びそうな夢だ。そう珍しいとも思わなかっただろう。
だが、他者の人格は、彼にはとうてい理解できないものだった。その考え方や感動が、自分の内にもともとあるものではない、ということがはっきりとわかる。
今回の白昼夢は、どうやら他の人物の視点から見た風景だった。
肌の黒っぽい南方人が、レネーに笑いかけている。彼と握手をかわしている自分の手も、同じ色合いをしている。
正午に近い刻限だ。太陽がやけに高く、じりじりと焼け付くように暑い。
正面の顔に、レネーには一切見覚えはない。だが、夢の中のレネーは彼をよく知っているのだ。
大概は無音だ。
ただ、例外もある。反復される音や言葉は、突然、聞こえるようになることがある。
聞こえるように『なる』というよりも、もともと聞こえていたことに突然『気付く』というのが正しい。
今日もそうだった。
ただ普通なら、大陸共通語の他愛ない言葉なのだが、今日は違った。外国語のようだ。
レネーは、複雑な発音を聞き取ろうと耳を澄ませた。そのとたん、
「……っ」
バシ、とまるで無理矢理断ち切られるように、映像がかき消えた。
目は開けたままだった。消えた映像の後に、わずかにちかちかと残光が明滅しながら、通りの風景が戻ってくる。
反射的に目をこすろうとした手を、彼は慌てて顔から離した。
「あちち」
まただ。
使おうともしていないのに、勝手に魔法で手が熱くなっている。ここ数日、こんなことが何度もあった。
原因はわからない。
だが、映像がかき消えるのと、魔法の発生のタイミングは一致していた。
「……」
奇妙だ。何か異常が起こっている。
だがレネーは、深く考えるのを止した。例えばそれをクリスやリオンに告げたとして、どうなるとも思えなかった。
馴れてしまえば、どうということもない。ただの夢だ。
……ただの夢。
町を一回りしてから、レネーは宿の窓を見上げた。明かりは消えて久しい。
「終わった……かな」
二人の気配が静まっている。夕方早くから始まって、もう深夜をとうに回っていた。疲れて寝入ってしまったのだろう。
……と戻ろうとしたとき、カーテンが揺れた。
窓際のベッドで、何か動きがあったのだ。どうやらまだ終了とはいかないらしい。
「二人とも体力あるからなあ」
レネーは一人ぼやいた。
軽く理性が飛んで、獣みたいに求めてくるようになるので気をつけて、とリオンには伝えてあるが、よく考えたら二人とも上位ナンバーだ。その気になれば一日中でも、走り続けていられる体力の持ち主である。
一晩中締め出しを食らう可能性も、当然考慮しておくべきだった。
「さっきの兄ちゃん、もったいなかったかなー……」




