櫛と耳飾り①
街道沿いの宿場町は、時ならぬ旅行者のラッシュに沸いていた。
カナンを出て十日、一路北へと向かっていた私たちは、午後遅くにこの町にたどり着き、宿をとることにした。
が、前述の通り人通りが多い。あふれかえる人の群れは、一見して明らかに町の許容量を越えている。
部屋がとれるかどうかも危ぶまれたが、幸い、三軒目の宿で空室が見つかった。
シングルの一室に三人で泊まる羽目になったが、野宿よりは良い。従業員に心付けをはずむと、二人分、余分の毛布を出してくれた。
「買い物?」
「うん。二人で行って来るから、クリスは留守番しててよ」
レネーは、お茶のカップを差し出しながら頷いた。
部屋に落ち着いたとたん、二人が買い物に出ると言い出した。
目的地までに最後の山越えがある。旅の物資を買い込む必要はあった。
だが別段疲れているわけでもないし、一応一行の責任者としては、買い物にはできるだけ同行したいところだった。なんといっても、費用は私持ちだ。
……別にケチで言っているわけではない。リオンの金遣いの荒さを知っているので、きっちり買う物を決めておかないと少々不安なのだ。
そう言ってやると、リオンが苦笑した。
「信用ないなあ」
「自業自得だ」
「心配しなくても、レネーの財布に手ぇつけたりしませんって」
「そんな心配してるんじゃない。お前が借金取りに追われる羽目になったら、一緒にいる私たちも巻き込まれる」
できるだけ冷たく聞こえるように努めたが、彼はけろりとした顔で笑った。
「考えすぎですよ。大丈夫」
「……なら、いい」
私はリオンの笑顔から目をそらした。
ふと見ると、レネーの前にカップがない。
「レネーは飲まないのか?」
「ん?お湯足りなくてさ。今、湧かしてるとこ」
「買い物に行くんだろう。先に飲んでいいぞ」
自分の分のカップを、私はレネーの方に押しやろうとした。
だが、レネーは慌てて押し返してきた。
「?」
「だめだよ、これはクリスの分。この葉っぱ好きでしょ?」
結局、留守番役をするようにという彼らの言葉に甘えることになった。
二人が出ていったのを確認してから浴室に向かう。
ここ数日野宿が続いたので、浴室つきの部屋はありがたかった。川や泉での水浴びだけではやはりすっきりしない。
気兼ねなく入浴できるように、二人とも気をきかせてくれたのかもしれない。
頭から湯をかぶって洗料の泡を洗い流す。
濡れ髪をタオルで拭きとるうちに、壁に設置された小さな鏡が目に入った。湯につかって少し上気した顔で、私がこちらを見ている。
首筋にそっと指を這わせる。
数日前に、知らぬ間につけられた鬱血の痕は、きれいに消えてなくなっていた。
消えてくれていたことに、ほっと安堵の息が漏れる。
自分ではなく、よりによってレネーに指摘されて気付いたのだ。冷やかすようなレネーの笑いに、羞恥で身が震えたのを覚えている。
リオンは少し痛い目を見ることになったが、自業自得だ。
……最初の朝は、恥ずかしくて顔も見られないくらいだった。
だがリオンの方はというと、無邪気といおうか厚顔無恥といおうか、恥じらうそぶり一つ見せなかった。
どころか、事あるごとに肩を抱こうとしたり手をつなごうとしたり髪や顔に触ろうとしてくる。
別に嫌だというのではない。むしろ……うれしい……ような気は、する。
だが、こうなる以前はどうだったかと思い返してみると、最初から、あまり変わっていないのだった。
男女の適切な距離感についてなど知らずに育ったので、こんなものかと思っていた。
今でも、どう判断すべきなのかわからない。以前の彼が馴れ馴れしすぎたのか、今の彼が変わらなすぎるのか。
私の認識だけが、確実に変わっていた。相も変わらず、振り回されている。
あれから何度か抱き合って、彼の腕の中で朝を迎えた。
以前の私なら、他人の前であれほど我を忘れることなどできなかった……闘っているときの他は。
闘っているときと、あの感覚は確かに似ていた。全身の粘膜がむき出しになっているかのように、全ての感覚が鋭敏になり、わずかな刺激にも集中し、溺れるように没頭してしまう。
高揚と愉悦と……えもいわれぬ、充足感。
「……はっ……」
不意に、ぞくりと、全身にあの甘い痺れがよみがえった。
……一人で裸でいるときに、思い出すようなことではなかった。
私は頭を横に振って、浮かんでくる顔を追い払おうとした。
浴槽に飛び込んでうずくまる。
顔は真っ赤になっていたと思う。
「クリス? 何して……」
カチャ、と浴室の戸を開けて、リオンが怪訝そうな顔をのぞかせた。
完全に虚をつかれた。はっと上げた視線がかち合う。
「っ! リオン? ちょっ……待て、何でここに」
私は慌ててタオルを引き寄せた。
「何か苦しそうな声がしたから。気分でも悪いんじゃないかと、思ったんですけど」
「買い物に、行ったはずじゃ」
「財布忘れちゃって」
リオンは肩をすくめた。それから、なぜかまじまじとこちらを見る。私は湯船の中で体にタオルを巻き付けた。
「……何してたんですか?」
かすかに、人の悪さをかいま見せて、彼は念を押してきた。
「…………っ!」
上気した皮膚も、荒くなった吐息も、熱い湯につかったからだ。
そう答えるのは簡単だったし、事実を口にすることなど絶対にできない以上、言い訳はそれしかなかった。
だが私は、何も言えなかった。言い訳じみたことは、何も。
「でっ……出て行け、リオン!」
「えー?」
リオンが不満そうに口をとがらせる。
「いいから早く!」
彼が大人しく浴室を出て行くのを見届けて、私はほうっとため息をついた。
鼓動が尋常でなく早まっている。
慣用的な意味で肝は冷えたが、実際に体の熱は、まだ収まっていなかった。水でもかぶって頭を冷やそうと、私は湯船の中で立ち上がった。
油断大敵という言葉について、私はもう少しよく考えるべきだった。
今度は何の口上もなく、リオンが浴室の戸を開けた。
彼はどこにも行っていなかったのだ。まるで、忘れ物を取りに来たかのように当然の顔で、戻ってきた。
「なっ、なっ……出て行けって、言ったのに……っ」
何か他に、どうにでもやりようはあったと思う。
だがこのときは、何も考えられなかった。ひたすら恥ずかしくて、彼から顔をそらしながらそう文句を言うのが精一杯だった。
案の定、リオンは気にもかけない風で、こう返した。
「そんな顔でそんなこと言われても」
大股に近づいてくる。私は思わず、逃れようと背を向けた。
「わっ!こら、来るな!」
もちろんというべきか、そちらには壁がある。
立ちすくむ一瞬に、彼の腕が伸びてきた。
後ろから抱きしめられる。
「……あっ、」
知らず漏れ出たあえぎと同時に、脚の力が抜けてしまった。
そのまま後ろにもたれかかった私を、リオンの腕が受け止めた。
「は……離して、リオン」
「ほんとに、離してほしい?」
「な、なに言って」
リオンはおもむろに、浴槽の縁をまたいでこちら側に入ってきた。
そして私を背後から抱いたまま、勢いよく湯船に滑り込む。
「きゃ……」
巻き込まれて頭から湯をかぶる羽目になった。
気付けば、彼の胸に背を預けたまま、二人して湯に浸かる形になっていた。
「リオン、服、」
もちろん、リオンは服を着たままだ。
「もうびしょびしょだし、いいですよ」
「いいですじゃ、なくって……」
リオンが耳元で笑った。
熱い息遣いが耳朶を刺激する。
「……んっ……」
「クリス、」
くすぐったさに目を閉じると、顎を持ち上げられ、唇が重ねられた。ちゅ、と触れるだけのキスが、今度は耳元へ、首筋へおりていく。
拒むべきなのに、できなかった。リオンの声の甘さに、キスの優しさに、勝手に体がほどけていくようだった。
「クリスの目は、欲しいって言ってる」
「あっ、でも……でも、だめ……っ」
「どうしてだめ?」
「だ……だって、」
恥ずかしいほど声がうわずっている。溶け落ちそうな頭で必死に答えを考えた。
「買い物、レネーが……帰って……」
「あいつなら」
打てば響くように、リオンは答えた。
「もうしばらく、帰って来ません。火取り剤が売り切れてて、町外れまで買いに行ったから」
抱きしめる腕が少しゆるんだ。
密着した上体が離れる。と思う間もなく、離れかけた頭をぐいと引き寄せられた。唇が重なる。やわらかいくちづけが、欠片になった理性までも呑み込んでいく。
離れたときには、もう何も考えられなくなっていた。
大丈夫、と彼は熱く囁いた。
拒む理由の一つをつぶされ、逃げるだけの理性も消えて失せた。
それがわかったのか、彼はにっこり笑った。会心の笑みとはこのことだ。
……彼がこれほど楽しそうなことや、自分自身の欲動の激しさに、不自然さを覚える余裕もなく。
「ね?」
何が、『ね?』だ。
可愛く言ったってムダだ。けだものめ。
……そう言って突き放すのは、しかしもう、不可能だった。




