神隠しの沼⑧
ハア、ハア、と切れぎれに呼吸を繰り返した。
しがみつくように、リオンの首に抱きついたまま、息が整うのを待つ。
「クリス……」
リオンも、私の背に腕をまわしてじっとしていた。クリス、と低く、味わうように、噛みしめるように囁く。何度も。
ときおり戯れるように、乱れた髪を指にからめては梳き流す。
「クリス」
独り言のように意味のない呟きが、今度は明確な呼びかけにかわった。
私は抱きつく腕をゆるめ、彼の肩から顔を離した。リオンは真面目くさった表情で私を見つめていた。
「今、俺ちょっと考えてたんですけど」
「何、を……?」
声がかすれて、甘ったるく響くのが自分でもわかった。
「さっき、あんたが言ったこと」
「私が……」
首をかしげると、彼はこう続けた。
「たぶんそんなに間違ってない。あんたを見てるのは、すごく楽しい。見てて全然飽きなくて、ずっと見てたいって思う」
何を言い出すのかと首をかしげると、髪を撫でていた彼の左手が頬に触れた。
「あんたが傷つけられるのは、むかついたし」
そのまま、私の顔をなぞっていく。
「あんたに優しくされるのはいい気分だし……俺以外の奴に優しいのは、何かむかつくけど」
髪を耳にかけて背に流す。つと、めしいた人のするように指が瞼を、鼻梁をたどる。
「あんたが喜びそうなこと考えるのも、やるのも、楽しいんだ」
そう言って彼は、ほんの少しだけ間を空けた。
だが、逡巡したのはほんの一瞬だけだった。親指で唇に触れながら、彼は言った。
「だからたぶん俺、好きです。あんたのこと。大好き」
「…………」
何て勝手な言い分だ。
私は思わず吹き出してしまった。
「ここで笑う?」
リオンが驚いたように顔をのぞき込んでくる。
笑った顔のまま、彼の頬に触れた。
「笑うに、決まってる……バカだな、リオン」
「バカって……ちょっと。この場面で普通そういうこと言うかな」
愛の告白してんのに、と彼は子供のように口をとがらせた。
『愛の告白』をした気でいる。
抑えきれず、くす、と笑いが漏れた。
「何で笑うんです」
「……うれしい、から、かな」
かすれ声のままささやくと、リオンが妙な顔をした。
軽く眉を寄せ、唇をゆがめた彼は、私の目には……喜びか、それとも痛みを、こらえているように見えた。
「……うれしい?ほんとに?」
ここまできて懐疑的な彼の言葉に、小さくうなずいてみせる。
「私も同じだ。……たぶん」
リオンは破顔した。
どうやら、彼が望んだ答えを返してやれたらしい。
邪気の無い、子供っぽい満面の笑みは、私にとっても思いがけないほど大きな喜びだった。
一人でいたときに夢想したような喜びとは、少々違っていることはわかっていた。
玩具扱いしていると、まるきり認めたようなものだ。
けれど彼は、私という玩具の、喜びの反応を楽しんでいる。
思うままにならない私の反応によって発生する、自分自身の感情を楽しんでいる。喜びも、痛みも、快楽も、不快さえも。
そして、自分の玩具を傷つけられることを望まず、守るつもりでいる。
私を幸せにし、守るつもりでいるのだ。
私のままの私を、独占したいと言っているのだ。
「たぶん私も誰かに……リオンに、そう言ってほしかったんだ」
それでいいと思えた。
根底にあるものが何であれ、その発露は私にとって、とても、優しい形をしていた。これ以上何を望めるだろう。
……私にも、その傾向はあるのだ。
*****
コンコンと、扉を叩く音で覚醒した。
「ルームサービスです」
続けて、ガチャと、扉を開ける音。
誰が開けたのか、と起きぬけの朦朧の中で考える。私ではない。リオン?
「どーも」
声変わり途中のかすれた声が、メイドにそう言った。
そこで私はようやく、ぱちりと目を見開いた。
レネーが朝食を手づかみしているところだった。彼は私に気づいて、のんきにあいさつした。
「おはよ」
「レネー……大丈夫なのか?」
私は慌てて身を起こしてレネーの全身に視線を走らせた。
頬に血の気が戻っていた。立ち歩くのに不自由している様子もない。何より、朝食をむしゃむしゃとむさぼり食っている。
「腹減っちゃって」
先に食べていることをとがめられたとでも思ったのか、レネーはいらぬ言い訳をした。
「そんなことはいい。体は?どこもおかしくないのか?」
「何もないよ。いつもより調子良いくらい」
ほら、とレネーがぶんぶんと肩を回して見せる。
私は、自分で思うよりも彼の容態を憂慮していたのだ。胸に落ちた安堵感に、ため息がもれた。
「そうか。よかった」
「心配してくれるのはうれしんだけどさ」
レネーが私をまじまじと見つめながら言った。
「服着た方がいいんじゃない?その前に風呂かな」
「え?」
彼の視線を追って、ようやく、自分がどんな格好でいるか自覚した。
裸の上半身を、レネーの眼前でさらしていた事実に、頭が真っ白になった。体には昨夜の痕跡がそのまま貼りついている。
あの後、ベッドでもう一度抱き合って、そのまま眠ってしまったのだ。
血の気が引く音が聞こえた気がした。
見たくなかったが、ベッドの右隣を横目で確認する。
……当然のように裸のまま、腕枕の体勢で左腕を伸ばして、爆睡しているリオンがいた。
「ひ、」
予想通り……というより必然的な結果に、のどから勝手に引きつった声がもれた。
「これ食い終わったら、シャツのボタンつけたげるから、ちょっと待っててねー」
レネーがからかうような口調でそんなことを言った。
見れば、床に散らかした服が、下着まで、きちんとたたまれてソファの上に置かれている。私ではない。リオンがやるわけがない。
最悪の状況は続いた。
リオンが目を覚ましたのだ。
「んー……」
寝ぼけ眼が私に焦点を合わせる。と思ったらリオンは、見たものが思わずつられて微笑んでしまいそうな、幸福そのものの笑みを浮かべた。
恥ずかしさに任せてベッドから蹴落とす体勢に入っていた私は、その笑みに一瞬見とれてしまった。実に情けないことに。
「おはよ、クリス」
「おは、よ?」
のんきな子どものような口調に、つられて返事してしまいそうになった。
だがリオンは、この寝起きの凶悪な男は、それすら待たなかった。
「うわあっ」
ぐい、と腕をひかれる。このまぬけな状況の中で、私はまったくの無防備だった。
バランスを崩したまま、ぐるりと視界が反転する。気づけば、リオンの体の下に巻き込まれていた。
止める間もなく顔が近づく。
唇がふさがれたかと思うと、すぐに舌が進入してきた。
「んく、んっ、っ」
寝起きだというのに、舌は活発にうごめき絡みついてくる。
「クリス、」
息継ぎに唇が離れるほんの一瞬に名を呼ばれる。
熱い囁きに、一気に体温が上がった。リオンの手が、内腿をさぐり始める。
このまま流されていた可能性が、なくもないのが恐ろしかった。
唇が離れた瞬間、目の端にレネーの妙に楽しそうな姿が映らなければ、どうなっていたことか。
ともあれ私は何とか、間一髪で我に返ることができたのだった。
「ムリにやめることないのに。おれなら気にしないよ」
「~~~!」
本気で不思議そうに首をかしげるレネーに、返事もできなかった。
突き飛ばしたリオンごと、レネーを追い出してドアにカギをかける。
「ちょっとクリス! せめて服!服!」
全裸で廊下に放り出され、焦るリオンの声がしたが、無視して浴室に飛び込んだ。
レネーの体調を見て出発時期を決めるつもりだったが、彼はどうやら本当に回復しているようだった。
医者の診断と本人の意思に押され、二日後、カナンを出た。




