神隠しの沼⑦迷子たちの夜
「リオン……?なぜ、そんな」
表情がぴんと、風のない水面のように消えていた。
彼のこんな顔を初めて見た。私は目を瞠った。
怒って無表情になった時にも、何かしらの激情は見てとれたのに、今はそれもない。何もない。まるで生まれたての赤ん坊だ。
私にはそれが、痛々しいくらい無防備に見えた。
「傷ついた……のか?」
「そうですよ」
「どうして……いや」
理由を訊ねようとして……やめた。何かが琴線に触れたのだ。
何かが、わかりかけた気がした。
「私も、こんな顔をしていたのか……?あのとき」
「……そうです」
あのとき。出会ったばかりのあの日。
リオンに冷たい人だと言われ、その後すぐに謝罪された。傷つけたから、と言って。
傷ついたつもりはなかった。けれどあの謝罪は、確かに私の胸に響いて、私の胸にあった空洞を埋めたのだ。
なるほど。ようやく腑に落ちた。
リオンがなぜ私に構うのか。いつまでも付いて来て、助けたがるのか。やっと。
こんな顔を見せられて、放っておけるはずがなかった。
「すまない」
言いながら、私は思わず、リオンの顔に手をのばしていた。
頭を引き寄せると、抵抗せずに背をかがめてくる。息が触れるほど近づいた。
「……許して」
心の底からの謝罪の言葉だった。
凍りついた表情が、とまどうようにかすかに揺れた。
相変わらず、きれいな顔だと思った。
形のよい眉、通った鼻梁、長い睫やなめらかな顎の線に、まだわずかに幼さが残っている。
深い、明るいくれない色が私をまっすぐ見つめていた。
どちらから、というわけでもなかった。
動いたのはリオンだが、私もそれが当然のように目を閉じていた。
唇が触れ合った。
※※※
軽く触れ合ったと思うと、ちう、と音を立てて離れる。
どこか、おびえてでもいるかのようなリオンの表情がおかしくて、私はくすりと笑った。
「クリス、」
リオンは何か言おうとした。ぱくぱくと、幾度か口を開閉して……結局、閉ざした。
ぐい、と肩をつかまれ、引き寄せられる。反射的に抵抗しそうになった自分を、必死で抑え込んだ。
強い腕に抱かれる。密着する体に、互いの鼓動が早まるのが聞こえた。
「あ……背、」
「?」
「背、少し伸びた。……リオン」
抱きしめる腕が熱い。
肩口に頭がすっぽりと収まって、なんだかひどく、自分が小さくなった気になった。彼の背に腕をまきつけると、服の下で緊張する筋肉を感じた。
くちづけが降りて来る。
今度はそのまま、リオンの舌が唇を割り開いて忍び込んでくる。力を抜いているつもりだったが、抱きつく指先に、知らず力がこもった。
多分におそるおそるではあるが、舌を動かして応えてみる。リオンの背がびくりとこわばったのがわかった。だがひるんだのはほんの一瞬のことで、すぐに舌が私の舌先を追ってくる。
深い角度で唇が重なり、舌先がからみつく。口腔内を熱く這い回る。幾度も。幾度も。
舌をしごかれ、きつく吸われる。息苦しくて、閉じたまなじりに涙がにじんだ。
「……ぅ、っ……」
リオンの手が、背から腰裏を撫でた。つかんで圧迫するように、少し強く。
同時に、ちゅる、とすするような水音を立てて唇が離れた。深く息を吐く間もなく、耳朶に、首筋に口づけが落とされる。
「ふ、ぁっ……」
体を支えるために背に回した手が勝手に、すがるように彼の服をつかむ。
その間に彼の手はシャツの裾を捲り上げ、内側へ潜り込んできた。素肌に触れる熱さに、瞼をぎゅっと閉じて耐える。
くすぐったさが知らぬ間に、奇妙な官能を呼び起こした。快感がぞくりと、どうしてか下肢に響いて、膝から力が抜ける。
熱に浮かされたような心地ではあったが、何をされているのか、もちろん理解できていた。彼が求めているものも。
それがはっきりと伝わってくる事実に、しかし嫌悪も恐怖もなかった。あるのは、とまどうほど強い満足感だった。
つまるところ私は……一緒にいることに、理由が欲しかったのだろう。理由を、提示してほしかった。
認めがたいが結局、そんな単純な話なのだった。
ベッドまで待てなかった。
すぐそこにあるソファも目に入らず、絨毯の上にもつれ合うように倒れこんだ。
のしかかるリオンの重みが心地よい。
「んっ、」
覆いかぶさられ、また唇が重なる。
リオンの手が、シャツの前を押し開く。釦がいくつか弾けて飛んだ。胸を隠す間もなく、ズボンが下穿きごと引き下げられる。
羞恥に目がくらみそうだった。けれどリオンの慌ただしい動作に、私は自分の意志で、右足を服から抜きとった。
真上から見下ろしてくるリオンの視線に、自分の体が美しいかどうか、ほとんど初めて気になった。
彼の目に、明らかな賛嘆と、抑えた興奮の色が浮かぶと、胸に安堵と喜びが湧き起こった。
リオンの上衣を引っ張り上げる。
彼は少し驚いたようだったが、すぐに抵抗なく腕を上げて自ら服を脱ぎ捨てた。
再び覆いかぶさってくる彼の裸の上体の、上腕部に走る傷跡に目が留まった。
「傷が、ある……こんなところに」
ごく小さな傷に見えたが、まともな治療をされなかったのだろうか。縫い痕がくっきりと残っている。
指先でつと撫でると、彼は首を傾けて自らの傷を見つめた。
それから低く、甘く、囁いた。
「……ああ。古傷です」
甘い囁き声に、熱い吐息が重なる。
節くれだった長い指が肌をたどるたび、触れた端から溶け落ちそうな心地がした。
焦りもあらわに求められ、知らず自分からも求めていた。快楽も、痛みもあった。声を上げたと思うが、あまり覚えていない。
ただ、離れたくないと思った。
そしてたぶん、彼も同じなのだと思えた。
※この回は全年齢版となります。
R18描写のある加筆版をムーンライトノベルズに掲載しています。ご興味がありましたらそちらもお楽しみいただけたら幸いです。




