出会い③
「船賃のことなんですけど」
翌朝。甲板で素振りをしていたら、リオンがやってきてこう言った。
まじめな顔で何事かと思えば。
「心配するな。貸しにしておいてやる」
リオンは、港で財布の中身をばらまいてしまっていた。この船旅の費用は肩代わりしてやらねばなるまい。私が鷹揚にうなずいてやると、リオンの顔が輝いた。
「まじですか? あー、助かった。あんた最高! 恩人だよ」
そのまま勢いで私の手を握り締める。
私は……恥ずかしながら、ぎょっとしてその手を払いのけてしまった。リオンはきょとんとしている。
「とにかく! 大げさに感謝はいらん。ちゃんと貸しは返してもらう」
「そりゃもちろん。次の港の銀行でちゃんと耳そろえて返しますって。利子つけてもいい」
「特別に無利子で貸してやる。気にするな」
体が無意識に、リオンから一歩退いていた。この顔はなんとも心臓に悪い。
昨日の今日で私は同行を許可したことを、後悔しかけていた。
リオンは、分けてやった携帯食糧を頬張りながら、なぜか甲板に居座り続けた。
海を眺めているのかと思えば、素振りをするこちらを見ていたりして、落ち着かないことこの上ない。いい加減に追い払おうと決意したところで、彼が口を開いた。
「ねえクリス。あんた、毎日素振りとかしてんですか?」
「商売だからな」
上位ナンバーと言っても、どんな油断が死を招くかわからない世の中だ。リオンの言葉に、むしろ私は首をかしげた。
「お前はしないのか?」
「ぜーんぜん」
のんきにひらひらと手を振ってみせるリオンに、私は肩をすくめた。
少し波が高くなったようだ。時折、ぐらりと大きく船が揺れる。
私の得物は、背丈よりも長い大剣だ。切れ味はよくないが、重量で相手を吹き飛ばせる。その分、振り回せば遠心力でこちらが体勢を崩す危険もある。
膂力には多少自信があるが、さほど大柄でもない女の身だ。やはり鍛錬は欠かせない。
剣を一旦背の留め具に収めなおす。
直立した状態から一挙動で、留め具に連動したレバーを押し込み、そのまま柄を両手でつかみ、左肩ごしに袈裟懸けに振り下ろす。
右の下段の位置に固定した剣を、呼吸を置かずに横なぎに引き上げ、勢い床に踏み込み、突きを入れる。
突きを体に引き寄せざま、踏み込んだ足をひき、円弧を描くように背後まで一挙になぎ払う。
反転した体勢を整えるところで、船が大きく揺れた。
足指に力を入れて、右後方に引っ張ろうとする剣と自身の重みに耐える。構えは崩れていない。そのまま左足を大きく踏み込み、今度は右肩から振り下ろした。
甲板に叩きつけないように止めなくてはならない。
当然腕にも脚にも負荷がかかる。が、幸いと言うべきか、世界十三位の筋と間接は、常人の常識よりも柔軟で強靭にできているらしく、鍛錬によって私の体が壊れることは一度もなかった。
一通りの型を終え、剣を背に収めたところで、パチパチと拍手があがった。
リオンだ。
「かーっこいーい」
彼のあけすけなほめ言葉に、顔が熱くなってきた。
思ったことを口にしてしまう、と昨夜も言っていたが、確かにリオンはあまり言葉を選んでいない節がある。本気なのか社交辞令なのか。人付き合いの経験値が足りない私には、少々荷の重い問題だ。
気づけば、水夫たちが慌ただしく働き始めていた。時化てきやがったと、休憩中の水夫を呼び出す怒鳴り声がする。
さして天気は悪くないようなのに、先ほどから揺れがひどい。時折甲板が波をかぶる。
リオンは海水を頭からかぶって、子供のように歓声を上げていたが、私はもちろんそんな気にはなれず、さっさと船室に引き上げた。
「お茶でも入れましょうか」
ぐらぐら揺れる中で、リオンは苦もなく立っている。
「ああ、頼む」
船室に備え付けの炉で湯を沸かすリオンの背を、私はじっと見つめた。
短く刈った銀髪がランプの光を弾く。こういう薄い色合いは、北方の住人に多い。リオンは故国の名を言わなかったが、明るい肌の色といい、きっと北国の出身なのだろう。
ぼうっと彼を見ているうちに、リオンがカップを二つ持って振り返った。見ていたのに気づかれなかっただろうかと、少し慌ててしまう。
慌てるあまり、カップをうけとるべく駆け出す形で立ち上がってしまった。かかとを浮かせた前傾姿勢で。
そのタイミングでぐらりと、床面が大きく傾いた。
私はバランスを崩し、倒れる寸前何かを……目の前にいた男の襟首を、つかんだ。
「うわっ!」
「きゃっ」
思わずあげてしまった悲鳴の甲高さに、自分で驚いてしまった。
リオンも驚いているようだ。確かに悲鳴なんかあげるキャラではないが、ぽかんと口を開けたリオンに、私は少しだけ傷ついた。
のんきにこんなことを考えたのにはわけがある。
混乱していたのだ。
息が触れるほど間近にある彼の顔と、ベッドに仰向きに投げ出され、彼にのしかかられている現実を、認識するのに時間がかかった。あまりに私の日常からかけはなれすぎている。
一瞬だけ、かすめていった唇の感触が、私を恐慌状態に陥れた。
それから、彼の手のある位置が。
「す、すいません、」
リオンがそう言って体を起こそうとした。
体を起こすには、支えの手が、必要だ。
互いの体の間にはさまっていただけの手が、今度は意思を持って、ぐに、と胸を掴む結果になった。
「う、わ」
リオンが、言葉にならぬ声をあげ、そのまま硬まる。
さっさと放せと突き飛ばすべきだ。頭ではわかっているのに、私の恐慌は去らなかった。掴まれた瞬間、痛みと共に通りぬけた、痺れのような何かのせいだ。触れた場所がじん、と熱くなる。力が入らない。
私はその感覚をやり過ごすべく、反射的にぎゅっと目を閉じた。
だが、そのとたんに主張を始めた別の感触に、私は急いで目を見開いた。
「…な、な、」
何か、ごつごつと腰に当たっているこれは……
「す、すいません」
リオンの声がかすれる。吐息に熱がこもる。
「あんたがそんな顔するから」
どんな顔だ、とつっこむ余裕はなかった。彼は私にのしかかったまま、片手を顔に持ってきた。片頬を包み込む手は、思ったより大きく、ごつごつと骨ばっている。耳からあごをとらえ、固定される。
「キスしたことあります?」
「な、」
「俺ないんです。女の子と付き合ったこともない。さっきのが初めて」
「ちょっと待て! 待っ、」
最後まで言えなかった。
唇に、渇いた生温かい感触。
濡れた温かいものが、唇を割り開いて口腔に侵入してくる。
それが舌を探り、からみついてきた。頭が熱い。それ以上目を開けてはいられなかった。
どうしよう。頭の中は混乱の極みだ。初めてなのに。まだほとんど知らない相手なのに。おかしい、少しも気持ち悪くない。むしろ……なんだか……体がおかしい。触れた部分が、熱くて、力が抜けていく気がする。それも嫌な脱力ではない。溶けて広がるみたいな、甘いような、むずがゆいような。
一度息継ぎのために唇が離れ、すぐに再び重なってくる。その間、私はただ深く呼吸するだけで何もできなかった。互いの呼吸音が、触れ合う水音が、繋がった口腔から頭の奥を満たす。
「んっ、んっ……」
リオンの片手が私の手を握った。手のひらが合わさり、熱い指が絡んで、ベッドに押し付けられる。掴まれた胸より、そちらの仕草に鼓動が早まるのがわかった。これは、まるで……恋人同士が、するみたいな。
どうしよう。リオンはこのまま、そのつもりで……? そして私は……
――一生、一人なのだろうか?
混乱した頭に、あの日の問いが浮かぶ。
まるで今の状況が、その答えだとでもいうみたいに。
リオンは私を怖がらなかった。私から離れていかなかった。無理かもしれないと思ったのに、彼は追いかけてきて……謝った。
それだけだ。それだけなのに、いま、私に触れる手が、唇が、舌先がとても熱くて……
私はそれを、うれしいと――
手が、指が、知らずリオンの手を握り返した。
その時、床に落ちたカップの残骸が、船の揺れでぶつかって音を立てた。かちゃ、というその音に、目がさめた心地がした。頭の芯に、冷えた部分が戻った。理性。
このまま彼を受け入れるには、障害が二つある。
一つは、私の性格だ。期待しているなんてこと、知られるくらいなら死んだ方がましだと思ってしまう自分自身の。
もう一つは…たぶんこれが一番の問題なのだ。これさえなければ、リオンは一つ目をクリアできる。
つまり、私がリオンより強いという事実。




