出会い②
港町の空気は、潮の匂いとともに、すえたような空気を含んでいた。乾いた風が吹き抜けるたびに、それは路地の奥から滲み出てくるように漂ってくる。
船着き場へ向かう途中、石畳の端にうずくまる影が目に入った。
子供だった。年の頃は十にも満たないだろう。骨ばった肩がそのまま外に浮き出ている。顔色は悪く、目だけがやけに大きく見えた。その大きな目が、暗い色をたたえてこちらに向けられている。
その視線に、リオンが足を止めた。
懐に手を入れる動作を見て、私は何も言わずにその手首を掴んだ。
「やめろ」
リオンは一瞬、驚いたようにこちらを見た。
「別に、これくらいいいでしょ」
「面倒なことになるぞ」
軽く振りほどこうとする手を、そのまま押さえる。リオンの眉がかすかに寄った。
「冷たい人なんですね」
……そうだ。
そう言われるのは、慣れているはずだった。
責める響きではなかった。ただ納得がいかない、という声。
私は黙って手を離した。
リオンは不満げに口を閉じた。しかし視線はまだ子供の方に残っている。彼はわずかな逡巡のあと、結局、懐から財布を取り出した。
「……」
言葉が足りない自覚はあった。リオンは世間知らずで、この後何が起こるか、説明しなければわからないのかもしれない。
だが、それは彼自身の問題なのだ。私は逆に、止めようとした自分自身に戸惑っていた。
私には、他人の行動や性質を変えようとする趣味はない。そんなに親切な人間ではない。むしろそうしたことを忌避してきたはずなのに。
考えを振り払うように、私は彼に背を向けて歩き出した。
背後で、硬貨の触れ合う音がした。
同時に、パタパタと軽い足音が近づく。
「兄ちゃん! オレにも!」
「あたしの花を買って!」
「靴磨きするよ!」
最初は一人分だった歓声が、二つ、三つと重なり、一箇所に殺到する。
助けを求める情けない声が聞こえた気がしたが、私は足を止めなかった。振り返れば、たぶん戻ってしまう。だから振り返らなかった。
石畳を抜け、船着き場へ出る。桟橋にはすでに人が集まり、湾を挟んだ隣都市タワド行きの連絡船が出港準備を進めていた。
そのまま乗船口へ向かい、係の男に行き先を告げる。男は私の背の剣をちらちらと見ながら、客用船室を勧めてきた。言われるまま乗船料をはずんでやると、彼は急いで他の船員に案内を指示した。
木の板を渡って、一人で船に乗り込む。
……やっぱり、無理か。
結局、一人だ。
眉を寄せられて、不快を示されて、そんな相手と一緒にいられるほど私は強くない。分かり合うために努力する余裕などない。
胸に去来したのが、失望なのか、痛みなのか、よく分からなかった。
彼のカップを受け取ったとき、ナンバーを聞いたとき、湧き上がった予感のようなものが、錯覚でしかなかったと思い知らされて、私はほんの数秒立ち竦んだ。
甲板に上がり、ようやく一度だけ振り返った。
路地の奥で、小さな人影がいくつも動いているのが見えた。その中心に、背の高い影。
視線を戻す。
それ以上、確認する気はなかった。これで終わりだ。今までどおり、旅を続けるだけのこと。
そう思いながら、手すりに軽く体重を預ける。
船はゆっくりと軋みを上げていた。間もなく出航だ。手配した船室に移ろうと、甲板の奥の階段に向かったときだった。
桟橋の方から足音が駆け寄ってきた。
顔を上げる。
息を切らしたリオンが、乗船口を駆け上がってくるところだった。手は空で、財布も見当たらない。
そのまま彼は板を渡り、甲板に上がると、私の方へ歩いてきた。
「危なかった」
息を整えながら、そんなことを言う。
「結構しつこいですね、ああいうの」
何事もなかったかのような顔で。
私はしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて視線を外した。
船が、ゆっくりと岸を離れる。
港町のざわめきが、少しずつ遠ざかっていった。
話しかけてくるリオンにろくに構いもせず、私は船室に閉じこもった。
どんな顔をしていいか分からなかった。もう終わりだと見切ったあとで、あんな風に追いつかれて、どうすればいい?
……私を「冷たい」と言っておいて。
腹を立てたつもりはなかった。自分が温かい思いやりに満ちた人間だなんて考えていたわけでもない。
それでも、彼の言葉は胸に重く沈んでいた。私がまともな人間関係を構築できないのは、環境や職業やナンバーのせいではなく、その人間性のせいなのだと……そう、見透かされてしまったようで。
たった一日一緒に歩いただけの相手にすら分かってしまうのだ。つくづく、人付き合いに向いていない。
自己嫌悪に浸っていると、不意にコンコンとノックの音がした。
「……誰だ」
「俺です」
「ルームサービスは頼んでいないぞ」
「冗談言ってないで、入れてくださいよ。話があるんです」
リオンの口調は飄々としていて気に障ったが、私は彼を部屋に入れてやった。
口調はともかく、迎え入れた彼の顔には怒られた犬のような情けない色が見えた。端正な顔の浮かべるそんな表情が、あまりに似合わなくて笑ってしまった。
「ここで笑うかな……」
「悪かった」
あからさまに気を悪くした様子のリオンに、私はすぐ謝った。
「で?」
「謝りに来たんです」
何をだと、尋ねることができなかった。
リオンの真摯な表情が、私に言葉を失わせた。
こんなのは反則だ。まるで別人だった。
真摯であることも、“真摯な謝罪”も、この世界では弱者のためのものだ。まして十四番目の強者であるリオンだ。生まれてこのかたどちらにも無縁でいただろう。私と同じく。
なのにその表情は、彼にはひどく似つかわしく見えた。丸窓から入る、海面に反射して揺れる月明かりが彼を照らし出している。少年期の名残りの繊細さが際立って、有体に言ってとても……美しい。
「何、豆鉄砲食らったような顔して」
変わらぬ人を食った物言いが、金縛りを解いてくれた。私は気づかれないように、ほっと息をついた。
「さっきは言いすぎました。謝ります」
「謝られる筋合いはないぞ。別に怒ってはいない」
「そりゃわかってます。ただ、悪いこと言ったと思って。どうも、思ったこと口に出しちゃうんですよ」
「わかってる、とはどういう意味だ?」
「怒ってないのはわかってました」
リオンの意外な言葉に、私ははっと顔を上げた。
見上げた先にあったのは、困ったような笑みだった。
「だってあんた、傷ついたでしょ?そんな顔だった」
「傷ついてなどいない」
自己嫌悪に陥っただけだ。だがリオンは聞いていなかった。
「女の人は傷つけるなってのが親父の遺言でね」
口調に得意そうな響きが混じる。
「……いまどき変わった父上だな」
むきになって訂正するのも変な気がして、話題を変えた。興味が湧いたこともある。
「ま、親父、弱かったからねー。傷つけようにもできなかったんですけど」
「父上が好きだったのか?」
「どうですかね。あんまり考えたことなかった」
「お前が甘いのは父の教育の賜物というわけか」
言ってから、しまったと思った。そんなつもりはないにせよ、故人を悪く言ったようにもとれる言い方をしてしまった。だがリオンは気にも留めなかった。
「あー、そうかも。つっても、教育ってほど教えられた記憶はないけど」
どんな親ならナンバー14に教育できるというのか。そうつっこみたかったがやめておいた。
リオンはなんだか楽しそうだった。
父親を思い出すのが、楽しいのだろうか。私にはわからない感情だ。
リオンがその楽しそうな顔のままこちらを見ていたことに、私は気づかなかった。
「ねえクリス」
不意打ちで名を呼ばれて、どきりと胸が高鳴った。
「俺もうちょっと、あんたについていってもいいですか? 目的地は一緒なんだし」
「……勝手にしろ」
顔をまともに見られなかった。目をそらしたまま、できるかぎりぶっきらぼうにそう言うと、リオンは笑った。もれた笑い声の甘い響きが、耳についた。
「じゃ、明日からよろしく。おやすみなさい」
パタンと静かに戸が閉まり、リオンは行儀よく退室した。
あれほど私をさいなんだ孤独と虚無感は、きれいさっぱりなくなっていた。




