神隠しの沼⑤
気付けば、少女と手をつないでいた。
金髪に、ガラス玉に似た丸い緑の目をした、ウルカ。ただ、覚えにあるより幼い。
『ウルカのとうさんが、はなしてるのきいちゃったんだ』
ウルカの手を離さないまま歩き続けた。
『おまえ、うられちゃうんだよ』
『うられたら、どうなるの?』
『ウルカのかあさんみたいになるんだ』
ウルカの母親は娼婦だった。ずっと幼いころに、病気で死んでしまった。
皮膚の色がかわっていく、おそろしい病気だった。
『やだ、おかあさんみたいにしんじゃうの、やだ』
よるべない少女を前に、湧きあがったのはまぎれもない、憐れみだった。
これほど他者を憐れに思うことができるとは、信じられないほどの。
それに伴う、えもいわれぬ優越感もあった。
そして打算も。彼女には自分しかいない。手をさしのべてやれば、感謝されるだろう。一生自分を愛するようになるだろう。
自分以外のものに手をさしのべられる彼女は、容認できないとも思った。
『おれも、ウルカがあんなふうになるのはいやだ』
いやだ、と言う声は決然として、強かった。
『逃げよう』
『逃げるって……どこへ?』
『どこでも。おっきな町に行こう。大丈夫。おれが守るから』
少女はうなずいた。それから、笑った。
花が開いたような笑顔だった。
これが見たくて、歯の浮くような台詞も言えた。何もかも犠牲にできた。
厳密には、だから全ては彼女のためでなく、自分の欲望のためだった。
これを見る、自分の愉悦のため。
憐れみ、優越感、打算、独占欲。
それらすべてがない交ぜになり、結果、発露した感情は。
……愛情としか、呼びようのないものだった。
涙が瞼を押し開くまま、覚醒した。
「クリス」
「……リオン」
リオンが私を覗き込んでいた。
「ここは?」
「昨日の宿です。大丈夫ですか?」
「え?」
「泣くのなんて、初めて見たから」
言われて私は、耳まで零れ落ちようとする涙に気づいた。
「どんな夢見てたんです」
「わからない。たぶん……レネーの夢だ」
「?」
「ウルカが出てきたんだ。私は、レネーになっていたようだった」
口にしてみるとバカげた夢だ。だがリオンは笑わなかった。
「大深度集合樹の影響で、『意識』を共有したのかもしれないですね」
まじめな答えが返ってくるとは思わなかった。
彼らしくもない物言いに、私は首をかしげた。
「そんなことも、あるのかな」
「さあ。よくは知りません」
リオンは静かにそう答えた。
私はそれ以上訊かず、ぐいと手の甲で目元を拭った。動くのに支障はないようだ。そのまま身を起こす。
リオンが手を貸そうとするのを、断ろうとしてふと気付いた。
「……リオンは」
顔を上げると、彼もこちらを見る。
「どこもケガはないのか?」
「俺?」
リオンはあきれたように聞き返した。
「俺は何もないですよ。あれに呑み込まれたのはあんたたちの方。人の心配してる場合じゃない」
嘘ではないようだった。彼はやせ我慢をするタイプでもない。
「二日、寝てたんですよ。レネーの奴はまだ起きないけど。あんたが起きたってことは、そいつももうすぐでしょ」
示された隣のベッドに、少年が眠っていた。
血の気のない真っ白な顔色だが、呼吸はしているようだった。胸が規則的に上下する。
「医者は、二人とも異常ないって。……あの、クリス」
「何?」
「一応言っておきますけど!体洗って服着せたの、宿のメイドですから」
言われて初めて、自分の格好を見下ろした。
前で打ち合わせて腰帯を締める形の、木綿の寝間着を着せられていた。宿で貸し出しているものだ。泥やあの緑の網の痕跡は全くない。
泥の中でさえ異質な、あのべたつく粘液の感触を思い出し、私は身震いした。
「何だったんだあれは……」
喉の奥に、まとわりつくものが残っているような気がして、頸もとに手をやる。
そこで、黙ってこちらを見ているリオンに気付いた。
「リオン?何だ、その顔は」
リオンは不満そうに口をとがらせていた。
「なーんか最近……」
「最近? どうした?」
「最近、さわっても近づいても平気な顔してる」
何を言い出すかと思えば、リオンは意味のわからないことをぼそりとつぶやいた。
「何の話だ」
「いや、別にいいんですけどね。おもしろくないっていうか何ていうか。前はもっとこう……」
私は顔をしかめた。
「何でお前をおもしろがらせにゃならんのだ。私はお前のおもちゃじゃないぞ」
「そりゃ、そうですけど。……まあいいや。何か食べたり飲んだりします? 持ってきてもらいましょうか」
リオンはあっさりと話題を切り替えた。
食欲はなかったが、彼の言葉によれば、二日間何も口にしていない。無理にでも胃に入れておくべきだろう。
「そうだな、頼む」
「やらかいものがいいんですよね。注文して来ます」
彼は食堂になっている一階に降りていった。
リオンが退室してから数秒間、ベッドに座ったまま放心していた。
それからふと口を漱ぎたくなって、立ち上がった。少し立ちくらみがした。
洗面所へ向かって歩く。
自分でももどかしいほど、歩みはのろのろとしていた。
だが体に異常はなかった。どこも痛くないし、めまいも去った。普通に歩けるはずだ。
できない理由はわかっている。
夢の中の『私』の感情が、私をさいなんでいた。
あれほど深い……深い、何と言うべきなのだろう。
絶望、が一番近い。
何一つ求めていない。何一つ、必要としていない。
平坦で、安定していて、足りている……死者のように。
それは、体が生から死へ切り替わる瞬間へ、向かうだけの日々だ。
わきあがった憐憫が、夢の『私』にとって初めての、熱を伴う感情だった。
少女の笑みを見て生まれたのは、欲求だ、空虚である自分を、強烈に自覚させる。
居ながらにして隔絶された『私』と、世界との接点。唯一の。
すがりつくしかなかった。
彼女しかいないのは、『私』の方だった。
「クリス?」
いつの間に戻ってきたのか、リオンが私をのぞきこんできた。
やけに驚いた顔をしている。知らぬ間に、夢にとらわれて立ち止まり、涙が顎先からしたたり落ちていた。
彼はなぜとは訊かなかった。
かわりに、どういうつもりか、ふわりと肩を抱かれた。
寝間着の薄地ごしに感じる彼の手は、現実的な質感と熱を帯びていた。何となく、されるまま受け入れてしまう。
夢の『私』の抱える孤独は、私の許容を越えていた。
私が人生の中で感じてきた疎外感など、比較にもならない。現に私は今まで、ずっと平気で生きていた。
……この絶望のただ中に置かれたら、私はきっと、立って歩くこともできなかっただろう。
育った環境の問題ではない。夢の『私』はそのことにだけ自覚的だった。
もし貧しくなく、保護者に愛され満たされていても、同じだった。生まれながらの体質のように、孤独が『私』を覆っている。
リオンの触れ方はひどく優しかった。
そのせいだろうか。身を預けることに、逆にわずかに羞じらいを覚えた。
正確には、身を預けてはならない気が、した。
警鐘が鳴ったのだ。脳裏で、ごくかすかな。
彼のしぐさに不審な点はない。何かみだらな意図は一切感じられなかったし、そう勘ぐっているつもりもなかった。それはさすがに、自意識過剰というものだ。
私は意識的に、警鐘を無視した。
彼の、他者の手の温かさと優しさを、体が求めていた。渇いた喉が水を求めるように。
リオンの手が、ぽんぽんと背中を叩く。
子供のような扱いに、思わず笑ってしまった。
「え?笑うとこ?」
「いや、違、……っ、」
最後まで言えなかった。
不意に、強烈な吐き気に襲われたのだ。くっと上体を曲げ、リオンの胸に突っ伏す。
「え?えっ、クリス?何?」
リオンは慌てた声を出すと、なぜか急いで肩から手を離した。
答えられなかった。
「……グ、」
「クリス?」
「……吐く……、気持ち、悪……」
胸に不快なつかえがたまり、喉もとまでせり上がる。
身をかがめた私をリオンが支えてくれた。
洗面所までもたなかった。
ゴプ、と、抵抗なく、つかえていた何かが口内にあふれ出し、そのまま床に嘔吐してしまう。
酸っぱい胃液とともに、出てきたのは緑色の、ドロドロに溶解した何かだった。
味はなく、わずかに糸のような固形の感触が舌に残る。
「な、んだ、これ」
「飲み込んでた菌糸が出てきたんでしょう。よかった」
よかった、とリオンはいうが、生理的な嫌悪はぬぐえない。
だがリオンは、汚れるのもかまわず肩を支え、口元にタオルをあててくれた。
「リオン、汚れる」
「んなこといいから」
背を撫でながら、彼はそういった。
「洗面所まで行けそうですか?」
「……うん」
胃はすっきりとして、不快感もおさまっていた。動くのに問題はなさそうだ。
うなずくと、リオンはよかったと手をさしのべてきた。
頭のどこかが冷たく冴えて、リオンの動向を警戒する視点で見守っていた。
異性に対する警戒などではない。何か明確な理由のために。
私は考えないように努めた。深く考えることで、不快な事柄につきあたるであろうことが、予想できていた。
……不信の理由が、わかっていたのだ。
自ら抱いた不信感の、その理不尽さもわかっていたから、私はことさらそれを無視して、のべられた彼の手をとった。




