神隠しの沼④
全身泥水でずぶぬれになりながら、私は身を起こした。口に入った沼の泥水を吐き出す。
「な……何だ、今のは?」
木組みの道から泥地まで押し流されてしまった。
二人があっけにとられたようにこちらを見ている。
くるぶしまで沈むぬかるみの中で何とか立ち上がると、ようやくレネーが助けにこちらに走って来た。少し遅れてリオンが続く。
が、一歩目の足を泥から引き抜こうとしたとき、私は異常に気付いた。
何かが足を掴んでいる。
私は慌てて、力任せに足を上げた。ず、と重いながらもぬかるみから少しだけ抜け出す。浮いたブーツにからみついているものに、私は目を瞠った。
緑色の、粘膜をまとった網状の何か。
大深度集合樹の本体だと、とっさには思い至らなかった。それはうねうねと蠢き、脚を這いのぼってきたのだ。
宿体を求めて自ら移動する性質はあっても、半日かけて数センチという程度の話だ。これほど急速に運動するなど聞いたことがない。
不意打ちだった。人間や、動物相手ならもう少しましな対処もできただろう。
ざわりと足元にからみつく、その生理的嫌悪をもよおす感触に反応する間もなく、ぐい、と体が引きずられた。
「え?」
剣を抜く余裕もなかった。
片足を持って行かれ、バランスを崩して地についた手に、さらににちゃにちゃとからみついてくる。
分岐した菌糸の形状をしているが、その薄い表皮の内部で原形質が流動する。それは柔らかな網だった。
表面からべたつく粘液を分泌し、網目には泡のように薄く膜がはっている。靴を履いた足はともかく、露出した手から袖口に侵入してくる感触は我慢のならないものだった。
だが問題はそんなことではなかった。
力が強い。
柔らかな地面に踏ん張りがきかず、なすすべもなく泥に引きずり込まれる。緑の網が泥から這い出て体を覆った。
顔にまで這いずってくる。立体的に分岐した菌糸が幾重にもかさなって、あっという間に視界が奪われ、全身を覆い尽くされた。
口から、耳から鼻から、かたく閉じた瞼の端からさえも侵入しようとしてくる。防ぎようがなかった。舌をからめとられ、息がつまる。喉奥に網と粘液が流れ込んでくる。味は無い。だが容赦なく喉を通り抜け胃にまで這っていくのがわかる。
服の内側にまで入り込み、素肌を粘着質の舌に執拗に舐め回されるようだった。おぞましさに肌が粟立った。
じわじわと圧迫が強くなる。押しつぶされるよりも先に、窒息の危険を思った。
もがこうと力をこめたとき、不意に視界が開けた。
「レ、」
レネーだ。いつの間にか、少年が泥に踏み込んですぐそばまで来ていた。
彼は私の頭を抱くように腕をまわした。煙と焼けこげるような臭気とともに、喉元の圧迫が失せる。
魔法の火で焼いているのだ。
湿っていて火がつくまでにはいたらないが、とにかく、熱源を恐れるように菌糸が剥がれていく。私はほうと、深く息を吸い込んだ。
「クリス!」
呼吸を確認したためか、レネーの面もちが安堵に緩んだ。
彼は私の腕のあるあたりをさぐり、火炎を帯びた手で撫でるようにして露出させた。
彼は片手の火を消した。焼けただれた手で、自由になった私の片腕を掴んで引っ張ろうとする。だが緑の網は、その恐れるものの消失を見逃さなかった。
植物という触れ込みにはとうていそぐわない速度で、私を覆う菌糸の一部が少年に伝播していく。
再点火は間に合わなかった。私を襲ったときよりも勢いよく、レネーの全身が覆い尽くされる。同じ勢いで、露出した私の体も再び覆われていく。
自分ではわからなかったが、このときすでに私たちは、頸まで泥に沈み込みつつあった。どうすべきか迷った。突き放すべきか、引き寄せるべきか。
だが結局私は、レネーを引き寄せ、胸にかばうように抱きしめた。
……半分パニック状態の頭の隅に、リオンの存在がよぎったからだ。
いくら彼でも、この状況を何とかできるとは思えない。よしんば助けようと思ってくれたとしても、近寄ればミイラ取りがミイラにもなりかねない。
しかし万が一のときのためには、ばらばらでない方がいい。
ぐらりとめまいがした。唐突に。
上下感覚が失調している。同時に、うそ寒くなるような落下の錯覚にとらわれた。
意識が落ちていくのがわかる。
呼吸のせいではない。
呼吸も苦しかったが、意識が遠ざかるのはそのためではなかった。
襲ってきたのは眠気だった。明らかに異常な。
催眠効果のあるなにがしかの干渉を受けている。そうとしか思えない。
こうして眠らせて、底なし沼の底まで、引きずり込むつもりなのだろうか。栄養を吸収し苗床とするために。
レネーの腕が力を失っていくのがわかった。
死なせたくないと思った。だが、もう打つ手がない。
死ぬような目に遭ったことは何度もある。だが、ここまで絶望的な状況は初めてだ。
まどろみの中で、バシャ、と冷水を浴びせられた気がした。
そう思った一瞬、瞼を這い回る感覚が失せた。
緑の粘膜がぞろりと、水に濡れた部分から急速に後退していくのがわかる。
薄く開けた目に入ったのは、樽の中身をぶちまけた直後らしいポーズのリオンだった。
彼はすぐに樽を放り出してこちらに飛び込んできた。
「……リス……こっち……がっ……て」
何か言っている。が、耳に入り込んだ菌糸のせいで聞き取れない。
ぐい、と腕を引っ張られた。
力任せに引きずり出され、ずるりと体が泥から抜ける。肩が抜けそうだったが、私はもうろうとする意識を集中させ、レネーを抱く片腕に力をこめた。完全に埋もれていたレネーの体が現れる。
少年は固く目を閉じて、ぐったりしていた。だがまだ温かい。
固い地面に投げ出された、と思ったとたん、強い腕が、ふわりとレネーごと私を抱え上げる。
そこが限界だった。




