神隠しの沼③
翌日。
日が昇ってから私たちは村を出た。
目的地はさほど離れていない。二、三時間も歩かなくていいらしい。
背の高い常緑樹の生い茂る森は日中も暗く、道路と標示板だけが頼りだった。少し奥はすでに見渡せない。道から外れたら戻れない可能性もあるのだ。
地図があっても迷う者が、後を絶たないのも無理はない。盗賊の類が潜伏するには絶好の地理だろう。
油断は禁物。そう、私は自分に言い聞かせた。
……言い聞かせなければならなかった。
私たち三人は、緊張感の欠片もない状態だったのだ。
リオンのせいである。
レネーがリオンを見るたびに、時折こらえきれないように噴き出しては、リオンにごつんとやられるというやりとりが懲りもせず何度も繰り返され、危機感を抱くような雰囲気にならない。
私だけでも、二人に取り合わずに、と思うのだが……それがまた、難しいのだった。私自身も、彼を見るたび笑いがこみ上げるのを必死でおさえているのだ。
だから、レネーにも同情すべき点はある。
リオンがまじめな顔で大樽を背に担ぐ姿は、少々どころでなく間が抜けていた。
腰に鉄刀を差しているし、装いも明らかに労働者のものではない。その上なまじ顔がいいから、冗談でやっているように見えてしまうのだ。
施設は、いくつかの山に囲まれ、そこだけひらけた盆地にあった。
おそらくもともとは山同様に鬱蒼と木々の茂る森だったはずだ。切り株や掘削痕がそこかしこに残っている。施設の建設に際して開発が進められたのだろう。
しかし、開拓の試みは、木を伐り出す作業だけで終わってしまったらしい。
無理もなかった。
その盆地は全体が、どうしようもなくぬかるんだ湿地帯だったのだ。
泥炭状の地面は、踏み出すたびに水が染み出し、油断をすると足が沈んでしまう。
草花に覆われている場所は特に危なかった。よく見ると水生の植物で、一歩踏み込めば底なし沼だ。
これでは簡単には侵入できない。
湿地に入って少し進むと、ようやく施設に続く木板の道に出会った。
泥だらけになった靴に、私は顔をしかめた。
「まさか、調査員は底なし沼に引っかかったなんてオチじゃないだろうな」
「ありそうだけど……常駐行員も連絡とれないんでしょ。その人たちまでいまさら沼に沈んだりしないと思う」
レネーが安心させるような口調でそう言う。
リオンは服にはねた泥を忌々しげに一瞥するのみだ。
市中の銀行と違って、施設はごく簡素な箱形の建築だった。
周囲を囲う鉄条柵の扉には鍵がかかっておらず、何ものかが通過したのは確かだった。調査員の痕跡ではないかと私は思った。
耳を澄ます限り、盗賊の類が施設内にいる気配は全くなかったのだ。
「どう?」
「誰もいないようだ。だが、油断するな」
緊張しつつ建物に入ると、中は予想通りの無人だった。
中央の通信設備も、行員の常駐する警備室、制御室、宿泊室と隅々まで見て回ったが、人の姿はなかった。炉にかけられたままのポットや、くすぶり燃え尽きた燃料など、生活の様子はくっきりと残されているにも関わらず。
そして、荒らされた形跡は一切ない。食糧や金庫も手つかずで、要である設備室にも破壊の痕はなかった。
賊ではないのだ。敵対企業の工作でもない。
一つだけ、異常事態が起こったことを示すものがあった。
設備室入り口に展開された非常用のバリケードだ。分厚い鋼鉄の内扉が、水の漏れ出る隙間も無く入り口をふさいでいる。
だが、そこにも人間が立て籠もった痕跡はない。
バリケードはすでに内側から開かれていた。内部の者が、自ら非常事態の判断を解いたということだ。
その事実は、警備室で見つけた報告書類に記述されていた。
書類をさがす必要はなかった。手がかりになりそうな、トラブル発生時期前後の書類は、まとめて表に出ていたのだ。おそらく調査員の仕事だろう。
記述によるとこうだった。
半月ほど前、湿地帯に正体不明の人影が確認され、警備マニュアルに従い防護扉を展開した。
丸一日経過後までに再度の侵入は確認されず、警戒態勢を解除、と。
その日付を最後に、報告書は終わっていた。
「銀行のトラブルは十日前からだというから……この侵入者が何かしたということだろうな」
「だろうけど、どうします?この書類見る限り、その後は特に警戒態勢とってもいないみたいだし、何があったのか、全然手がかりないですけど」
リオンの言う通りだった。
同じものを見ただろう六名の調査員も消えたのだ。
「とりあえず、この報告書を調べてみるか。もっと以前の日付から細かく見ていけば、何か糸口が見つかるかもしれない」
一旦、宿に戻ることにして外に出た。
外に広がる湿原は、施設に入る直前とどこか違っていた。
施設の敷地から出て、来たときと同じ木組みの道を渡る間も、違和感は強くなるばかりだ。
私は違和感の正体を考えた。ただの勘でしかないが、直感には必ず根拠があるものだ。五感が、意識にのぼらぬレベルで何かを感じ取っている。
雑草のざわめきにまぎれて、何か……生物的な意思が、こちらに向いていた。
この感じには覚えがある。
旅の途中、森林や山中を歩いていると時折、こんな感覚に出会うことがあるのだ。
町中に暮らしているとなじみがないだろうが、街道を旅する者にはそれほど珍しくない。
「……ここは、大深度集合樹の群生だ」
「それって、あの、イノールの『深層意識を共有する植物』?」
レネーに、私はうなずいて見せた。
植物学者として名を馳せたイノールという男がいた。
彼は、古くから各地に群生する、ある植物の研究に携わっていた。
他種のあらゆる植物に寄生し、その養分の一部を奪って増殖する。
菌糸をのばし子実体を形成する性質とその形状から、暫定的にキノコの一種と位置づけられたが、正しいかどうかは不明だった。緩慢とはいえ運動性があり、他にも様々な、菌類とは符号しない性質を持っているためだ。
宿主も気候・環境も選ばず、海以外の人類版図全てに適応し生きている。
そして、奇妙なことに、まるで全世界の集合体が、実は一つの巨大な体であるかのようにふるまった。
一つの例として、ある群生の森が人の手で焼かれたとき、他の群生が一斉に胞子を吐いた、というものがある。
焼かれたとほとんど同時のタイミングで、発見されていた全ての群生が、だ。
他にも何例か、それに類する現象が見られ、イノールはある説を唱えた。それが、レネーの言った『深層意識を共有する』というものだ。
群生同士はたいてい遠く離れており、物理的な手段、風や雨に任せて危機を伝えたと考えるには反応が迅速すぎる。
イノールは、群生同士が地中、それも、反応が海を越えていることを鑑みて、惑星の深部に共通する根をめぐらしていると考えた。
だが地下深くに続く根らしきものは発見されず、植物学者はそれを不可視の信号であると想定し、仮に『意識』と呼んだ。
百年近く前、ちょうどナンバー制の始まったころから、大深度集合樹を用いた通信方法が確立され、街道沿いの群生は積極的に駆逐されるようになった。
しかしその版図は広く、まだ全てとは言えない。
「なんか、見られてるみたいで気味悪いですね」
リオンが小声で言った。
私が感じたのと同じものを、彼も感じとったのだろう。
彼はさらに続けた。
「妙だな。このあたりに群生があるなんて」
「群生のある場所なんて、全部覚えているのか?」
「や、そういうわけじゃないです。ただ、銀行や賞金稼ぎの組合は、支部や関連施設を設置するときに、周辺に妨害になる群生がないか調べてるはずなんですよ」
まして、中継施設のすぐそばに、大規模な群生があるのはおかしい。
リオンはそう言って不可解そうに首をひねった。
「最近できたということじゃないのか?これが通信障害の原因なんだろう」
「そんなに急に、通信妨害できるほど増えるとは思えません。業務に障るくらいになる前に兆候があるだろうし、そうすりゃ銀行も気付くでしょう」
それに、と彼は続けた。
「それに、さっきは何で気付かなかったんだろう」
言われて、私も首をかしげた。
確かに少し前までは、普通の沼地だった。私たちが施設に入っているわずかの間に変化したのだ。
私は耳を澄ませた。
不思議な、振動……といっていいのか、かすかな、音というよりも肌に直接伝わってくるものがある。
それが、どのような形状のものがどのように動作することで発生しているのか、私はその一点に意識を集中させた。
魚、鳥、虫……いや、動物ではない。
もっと巨大で、ゆっくりと、泥炭が盆地にたまってできた湿地の、深い底からせり上がってくる。
奇妙な感覚だった。泥よりも固い。しかしやわらかく、密度が薄い。泥を巻き込んで持ち上げるような感じではなかった。
小魚の群が海を進むように、波が寄せるように、何かが、泥中を伝播してくる。
「……早く湿地を脱けよう」
わけのわからないものは避けるに限る。
私は二歩三歩と足を早めながら、振り返って二人を促した。前方を見ていなかった。
「待て、クリス!」
珍しく鋭い、リオンの制止の声は間に合わなかった。
視線を戻すと、目の前で、沼が起き上がっていた。
バカげた形容だ。だが、一瞬のその光景は、そうとしか表現しようがなかった。
大きな泥水の波が立ち上がり、横ざまから私に覆い被さってきたのだ。




